昭和の戦時中に、、、生まれたせいなのか?
玉砕してゆく島の戦場への最後の出陣のバスが来なくて
日本への帰還を命じる迎えが軍医の最後のご奉公となり、 本土決戦に備えての、燃料に代わる。電力確保のダム建設という計画に殉じるメンバーの
医療班だったのか?
当時の核爆弾の2発も落下することなど、想像もできない
カルチャーショックの中で
日本は、玉音放送があるまで、、本土決戦に備えて
軍医の生き残りを、帰還させたのか?、当時の政治家でいらした
ひゃかわさんとかおっしゃられたトップの命令で、
ダム建設現場の村の、頼まれ村長として、
従軍していた娘婿にあたる戦場の外科医として従軍していた父を
激戦区域の病院まで、迎えに来たという祖父は、長い間、
アメリカのカリフォルニアで、砂漠地帯の緑化という、農業の勉強のために
留学していたという、アメリカの巨大なエネルギーと、機械力や、軍事力の
大きさを、アメリカ側から見ていた経験のある祖父だった。
戦争が始まってからは、日本に帰ることになり、疎開地の和歌山の
山奥に、、一風変わった地下室のある
アジサイの花に包まれた洋館を建てて住んでいた。
戦時中のことを考えると、
地下室は
1年単位の食料を確保し貯蔵する
倉庫代わりにもなるし、
万一の篭城に備えての為か、、、、井戸があった。
挑んぽ横から,階段で、あがり、天井の板を押すと、
洋館の食堂の台所の部分に出れた。
焼夷弾などが、万一落ちてくることも考えたのだろうか?
洋館の後ろの土壁の奥には、鉱山を堀りかけたような
防空壕になるだろうと推測できる、
岩山を切り抜いた洞穴があった。
想像することしかできない、、、
当時は、疎開地の祖父の家にたどりつまでの
串本あたりで、爆撃にであって、
防空壕に、新生児の私は、座布団のような頭巾をかぶされ
戦時中の防空壕で生まれた、、、
栄誉失調で、、産声を上げなかったために
生き残ることができたという、、、生死の境界線で
赤ちゃんだった私は、、、生きることを許されたみたいな
逃避行のような、
運の良い
ひ弱な赤ん坊だったと聞かされました。
大陸感を連絡船で本土に帰れても、、
着のみ着のままの、、、母は、一粒のコメもなく
母乳も出なくて、、、串本のおばあちゃんと呼んでいた
美しい女性から、母乳を飲ましてもらったと
小学生になったころ、
思い出話で、
聞かせてくれたことがありました。
あれから、、、
80年の年月が過ぎても、、、
ばちゃんに、、、なったけれど、、、
私は元気で、
今はWBCのTVの部屋で、、、
一市民として、、家庭の主婦として
子供たちの巣立った巣穴から
孫子の健闘を祈りながら
そう遠くない未来に
やって来つつある、、、
「老老介護」に備えての
、、人生最後の、、個人的老老介護に備えて準備の中のさなか。
令和の5年、、、米騒動が起きたことは、、、
太平洋戦争の終焉の時を思い出させる、、、
母は 明治の42年ごろの生まれであるから
生きていたら、、、
とっくに110歳は超えているかもね、、、。
この手厳しい恐怖の海を、子供を2人連れて
臨月のおなかを抱えて、、、日本に帰ろうと
渾身の力を振り絞って、、
生まれ故郷の串本まで戻れたのでした。
7歳の時に、実母に死に別れて、
同時に父はカリフォルニアの砂漠を
緑地にするという、日本人の開拓民の農作業の時代に
二人の子供を親戚に預けて、
アメリカに向かって、、、
3か月もかかる汽船に乗って、、
嵐の海を体を船の柱に縛り付けて
ゴールデンゲイとの見えるアメリカに到着!
留学をしてしまったという、、、
明治2年代の男の人生は、、、家庭を振り返る暇のない
激動の時代であったということが、、、伝わってきます。
300年の鎖国を黒船到来で,、、開国!
国際間をスムーズに生き延びるには、、
鎖国という、、、ツンぼ桟敷は
300年間は、、、長すぎたのでしょうね、、、
現代の教育大学の前身の師範学校を卒業後、、、
カリフォルニアの、砂漠地帯の緑化の現地実習生として
大陸の農学を経験して、、、
規模の大きさに驚いたということを
子供のころ、、祖父の養鶏を手伝いながら
聞いたことを思い出します。
当時は、、日本人は差別の対象にもなっていて
緑化が済んだ地域は、移動させられて、、、延々ント
未開の地の緑化への仕事に移動させられながらも
従順に、、、日本の夜明けの延長戦を担って
アメリカでは、、、
遅れをとっていた
日本の農家の作付などを
多くの機械の使い方を学び
工夫をして大陸の農学を学んだそうです。
開拓しても、、未開の地と取り換えて、、、何もできないという
繰り返しの中で、、医師だけしかできないという
また、、医師以外はしないという、、、
ダンナさんの
老後には、、、取得してもらわないと
普段の生活に困ることもあるから
第二の子育て時代のような
老老介護には、、かなりの気合がないと
虻蜂取らずの、、
困ったことも起きそうな気がしてくる。

、
私が母のことを覚えているのは、
疎開先の和歌山県の山の中の診療所に
父が、、あたり7か村、、無医村というところに
原爆が落ちる終戦の前年、本土決戦に備えての
ダムを造るための、けが人が出るであろうという想定で
国会議員さんの、Hさんの担当で
戦場の軍医の勤務をとかれて、、最後の連絡船で帰還で来て
ダム建設の現場である和歌山県の山奥の診療所に赴任した時
帰還までの、連絡船の確保や、、3人の子供は亡くしたが
生き残った二人の男の子と、、
富国強兵策の、、男子を生むという風潮の中
臨月で、最後の連絡船に、乗るための命令に従って、
結婚指輪と、、引き換えに、子供の安全と食料を引き換えたと
薬指の毛混指輪は、、心にはめてあるから、、、と
一粒のコメもなく、、、ストレスで母乳も出なくて
幼い小学生の兄が、、、10頭の山羊を飼育して、
防空壕で生まれた妹の母乳の代わりにと
毎朝、、草を食べさしに,、、川のそばの草むらに
山羊を追って行っては、、満腹にさして帰宅後に
小学校に 通学していたと、、、母から聞きました。
コメがなかった時代、、、幼友達の精米所から
コメが届けられたとき、、、
戦場近くの宿舎では、、、3人の子供が死んだときも
涙が出る、心も枯れていたそうですが
帰還で来て、、、娘が生まれて、、、ほっとしたのでしょうね、、、
毎日、お茶粥に サツマイモや,、、蕗や、イモやらかぼちゃの
ごった煮を食べていて、、、
白米だけのご飯を食べれたときは、、、
米俵によりかかって、、泣いてしまったと、、
小学生になったころの私に話してくれました。
そのころは、、まだ、、給食もなくて、
生徒たちは、お母さんの作ってくれた、弁当を
それぞれの食べ方で、、、昼休みは盛り上がりました。
麦飯の弁当の子供たちは、、、
弁当の蓋で、麦飯であることを隠すかのように、
弁当を、こっそり食べていました。
村の田んぼの地主らの子供たちは、、、
自分手地の田んぼから取れたコメを
ふんだんに使って、、、ピカピカの白米の弁当を
机いっぱいに広げて、、、卵焼き、、、のり、、、カツオブシ、、
鳥肉のテンプラなど、、、
弁当の豪華さの差は、、、今でも記憶に残っていますね。
我が家は、、庭に
かぼちゃや、キャベツ、、昼顔にシソの葉
ウリに、なすびに、、玉ねぎ、、、と
ヤギが10頭もいるので、、、リッチでした。
「北海道のかぼちゃ」と違って、、、、
本当に、、へんてこな味!!
カボチャも、、ジャガイモも、、、食べる気がしないのでした。
ユキノシタの葉っぱのてんぷらや、、菊の葉っぱのテンプラが
おいしかったですね。
コメを食べると、、、元気が出ました。
便秘も治りました。
食糧難の時代だったのだと、、、記憶に残った出来事は
兄が飼っていたヤギは、、村の名前が付けてあったのですが
新しく生まれた子ヤギに、、隣村の名前を付けました。
小学生の兄は、、、幼い私に、、、
「 今度の子ヤギは雌だから、、、お前にやるから
河原に草を食わせるとき、、、
お前も、、河原についてきて、、、
子ヤギから離れるんじゃないぞ、、、」
私は、うれしくて、、、父がいつも、、往診に行くとき
迎えの、、「バタバタ三輪車」に乗ると,、
「七川村のクランケのところに行くから、、、」と
母のところまで、、言いに来るので、、
私は、、父の往診に行く「七川の山羊」という
大好きな父のゆかりの名前にしました。
ある日、、父が、
今では世界遺産になっているが、、、当時は
ありがたい、、、御神体の宿る滝と言われて
和歌山に住む者なら、、一度や二度,、三、四、五回は
那智の滝詣りに行くのが普通だった、、人気スポットに
生まれて初めての家族でのお参りに出かける日、、、
「七川の山羊」は、まだ、、ミルクを飲ませていたので
「いつも、父が往診に行っている,、、七川の知人宅」に
生まれて間もない、、、いたいけない、、
「子ヤギ」だからこそ
ミルクのことを頼んで、、、預けたのでした。
たった2日の「那智の滝のお参り」の家族旅行で
帰ってきたときには、、、
「子ヤギ」の姿はありませんでした。
二度と、子ヤギと負うこともありませんでした。
父も、、母も、、、
人様に,、、子ヤギを預けた自分たちが、、、
本当の食糧難の苦しさがわかってなかったのだから、、、
此のことは、、、無かったことにするからね、、、
父も、、母も、、
すべてを察して、、、ヤギが返ってこなかったことを
「家で育てるのは、、、大変だから、、、」というだけで
わつぃの山羊は、、こつ然と消えていました。
生まれたばかりの山羊の子を、、
預けられた家からしてみれば
、、、日ごろの栄養失調の病気がちの胃袋に
神様が許してくれた、、食糧に見えたのは、、、
戦後のひもじさを語るには、、、
文意事実を隠しかありません、、、、ね。
一生、、「幼かった私のこころ」には
あちこちに、、お地蔵さんや、、
神様が祭られているのが、、、声なき声として
聞こえてくるようになりました。
人間の鬼になることを、知っていて、、、
目をつぶって、、、
見ないようにしているのだと、、、
神様も、、、仏様も、、、石の仏像も
心の目を閉じて、、、
「人間の中に 鬼を見ないようにしなさい」と
涙で、、ぐしゃぐしゃになった、、、
自分の心を鎮めるように、、、
ほほえみに変えて目をつぶった姿を
小さな少女の無垢な心に、、衝撃の救いとして
印象付けてくれたのでした。
かわいい、、、生まれたばかりの山羊の姿を
ばあちゃんは、、、80過ぎても忘れはしない。
子供のころ、、人の心の欲の怖さを知って
その後の人生においても
ならぬ堪忍を見過ごすときには
いつも、、笑顔なのか、、、悲しみなのか
仏像様の姿が、、、
ナチの滝のらkkする水のキャンバスに
目を閉じて、、、ほほえみとも、、悲しみともとれる
仏様が目を、、つぶった、、、かの、、、ように、、
静かな
お顔が
見えるようになりました。
コメがなかなか、、、手元に入らない時代の
戦後の食糧難時代の、、、
家族で、那智の滝のお参り旅行に
子ヤギを預けられたうちからしてみれば、、、
、、、、うまそう、、、
という、、、気持ちが勝ってしまったのでしょうね。
大人になってから、、、
反省するは、、、我が家のほうにあったと、、
思うのでした。
一言、、、那智の力ある滝に
娘の右手の火傷の手術が成功するように
家族で、、お願いのお参りですが、、、
ヤギが、、生まれたばかりで、、、
ミルクをお願いしたいのです、、、
一日のアレイは日当で、、仕事として
お引き受けくださいませんか、、、?
きちんと、、日当の値段を書いて、、
仕事として引き受けていただき
ヤギが買えるほどの金銭を示した依頼書を
帰宅後、、お預かり報酬の金銭と
山羊を引き取りに、、何日何時ごろ、、、
職員が、那智からの、、お土産を
お宅様へのお札もお土産と一緒に、、
買ってきますから、、よろしくお願いします、、、、と
子ヤギを預かる数倍の楽しみの約束をしておけば
魔のさしたような、、、美味そうに見るという時間が
楽しみの、、町同士い時間に変えて、、、
日頃の友情が、、、空腹の貧困に、敗北することは
なかったのではないかと、、、
生涯にわたって、、、私は,、学ばされました。
空腹と、、貧困は、、、
ある程度、、満たされたものには
想像もつかないほど、、、耐え難い苦しみであることを
思いやるべきだったと、、、
父は、、、生涯、、、生まれたばかりの、、、
空腹のものから見ると、、、
これうえないごちそうに見える子ヤギを
預けてしまった、、、我が家のほうが
衝撃の学びを、、滝の力から頂いたのかもしれない。
令和の米騒動も、、、国会議員さんになられているような
空腹に、、死にそうなべそをかいたことがないかもしれない
お育ちも、、教育も、、お家柄もよいお方にとって
何千円かのために、、、徹夜で並ぶ庶民の気持ちは
考えられないことだったかもしれませんが、、、
コメがないということで、、、一番困るのは、、、
コンビニのおにぎりが、、、300円になったことでした。
私たち、、、老夫婦でさえ、、、買うのを思いとどまり
2年前のソーメンを、、、、古くなったそうめんは,、うまいよ
ソーメンばかり食べましたからね、、、
苦学生や、、アルバイト学生や、、奨学金が便りの若者は
握り飯の300円は、、つらかったと思いますね。。。
ここは、、田園や、、、棚田のある日本ですから、、、
天皇陛下の千年以上の歴史の中に
稲を手にされた儀式とともに、、、日本の国の民の文化が
「米」ナクシテハ、、、
日本は考えられません,、「米」、よね!
北海道も、、十勝平野のあたりが、、国立公園となって。。
食糧庫だった十勝平野が、、、このまま存続してくれることを
ばあちゃんも、、、爺ちゃんも、、、孫子の時代まで祈ります。
小泉ジュニアの、、速攻で、コメ問題を解決してくれたことは
これからのコメ問題を国会が、、しっかり責任もって
国民の心の健康は,、安定した一日のコメのおにぎりからだと
認識してくれる、、大きな出来事だったと思いますね、、、
応急手当てに間に合った「小泉ジュニアの側溝の機転」を
本物の持続性のある、、、米国家、、日本の味を守れるかは
国会議員さんの派閥超えて、、、年齢を超えて
この、、、若さの勢いがなした
「令和のコメ問題の応急手当の速攻」を
本物の、、コメの安定供給にしてゆくかは、、、
もうけ主義に走る人が誰もいなくならないと
日本の世界遺産になった「食の文化」が、、
コメ不足では守れないのでは思追いますよ。
なぜなら、、、日本は多くの労働階級によって
日本文化の最前線んが維持されているのに、、、
その人たちが、、若い跡継ぎに、、、
握り飯の一つも、、、出し渋るようになっては
若者は育ちません。
教育費だけでも、、、付帯以上の子供は無理と思う今日!
握り飯さえ、、久野にためらう、、、コンビニになってしまっては
結婚しない!!!若者が増えるでしょう!
子供を産まない、、キャリアで生きて、、
金に困らない生き方をする
独身で、、自立して、、、子供は産まないという女性が
若いうちはTVで生き生きと、、
国際情勢を語れる時代にはなるでしょうが
お米に困る日本になってしまっては、、、
少子化問題は、、、進む一方でしょうね!!
お歳を召された、元貴族の末裔の国会議員さんは
小泉ジュニアが、、、議会にかける暇のなかったという
言い分を理解できないのも、、、察することはできても
今回は,、速攻で解決した小泉ジュニアのおかげで
若者が、、、最も、、労働力で頑張っている若者が
万引きでもして、、、刑務所で、飯食わしてもらうか、、、?
何かの時、、、街角での、、
やけっぱちな会話が聞こえてきたとき
一人ぼっちの老人や、、、年金のない老女や
病人は、、、もっと深刻かもしれないと、、、
ひやりとしました。
今回の、、、備蓄米は、、、さすがに、、国会議員さんの
備えの政策には、、、感謝しました。
レトルトのコメも、、、マーケットに戻ってきました。
さっそく、、、レトルトの、、手間いらずのランチにと
買ってきました。
カレールーをお湯であっためて、、、
久しぶりに、、、コメの昼ご飯を楽しみました。
2年前から、、、備蓄?になっていた、、、ソーメンも、、
毎日では、、力が出ないと、、、夏バテしていたところです。
小泉ジュニアが、、議会にかけないことは、、、今回は
そんな暇はなかったと、、、思いましたね、、、
あたら、、お金がないというだけの若者が
未来の、、輝かしい業績を残すかもしれないパッションを
空腹のために、、、間違った道をえらんでしまうようでは
日本は、、、トランプさんの関税ショックの渦巻きに
くるくるる回る始めた船のようになってしまっては
元も͡子もありませんよね、、、まさに、、少子化国家で
先つぼみです。
アメリカから、、、ピラフのコメや、、炒めライスのコメとして
コメを輸入して、、
日本好みのライスにして食べればよいのではと思いますね。
日本独特の,、美味いコメは
高級料理や、、すし屋、、お菓子屋に
高級品材料路して、、、高価な特級米の枠を許可して
お金持ち専用のコースで、、採算をとれば
庶民は、、おいしく炊くことで、、、普通米を
料亭もびっくりの、、、水加減,、、蒸らし加減で、、、
やりくりしますよ、、、
日本は、、米離れは、、、永久にないと思いますよ、、、
ジャイアンツは、、、永久です、、、
ドジャースも
大谷選手も、、、
ドジャースの監督さんも、、、
コメのように、、、味のある、、、
日本の宝です。
コメが手に入るようになってうれしくて、、、
朝まで、、、キーボードたたいてしまいました。
ウインドウ、、8を使っているので、、、
このサイト無くなる前に、、、何とか買い換えて、、
ウインドウ11にして、、、ダウンロードして
移動するか?
かってんこと書いた日記なんて、、、
そのまま消滅しても、、、誰にも気がつからないで、、、
過ぎてゆくだろうね、、、
自分のために、、、本にするには
歳を取りすぎて
シュウカツノ最中だけに、、、
サイトとして残るのは、、、ごみにならにけど、、、
形として残るのは、、、邪魔だしね~~~
自分が死んだら、、、価値のないばあちゃんの日記帳なんて
邪魔なだけだろうしね、、、歳は,、とりたくないですね。
せめて、、、50才だったら、、、本にして、、、
自分だけで、、作家気取りになるというのも、、、
自画自賛の画家みたいに、、、
自己満足の居間に
推敲して、、セレクトした文章だけの本にして
読み返しては、、、ま、、いいか、、!
自分の取り留めもない時間の集積と過ごすのも
楽しかったに違いない、、、
ありがとう、、、グーさん、、、
長い間、、、勝手な日記を、、、60000回も見てくださった
行き過ぎのウヲチャーの皆様に、、、
感謝して、、、、このまま消えるか、、、
残す必然性はあるのか?
いまいち、、しばらく、、、迷っています。
まずは感謝して、、、しばらくは
頭を冷やして、、、猛暑が過ぎるころには
ケツランを出したいと、、考えています。
GOO BLOGの皆様には
長い間、、、お邪魔させていただき
ありがとうございました。
花鳥風月、、、草木のように季節のままに
鳥たちの歌、、、花の香、、、風の声、、月の明かり
サーフィンしながら、、、
目から聞こえてきた話し声のお仲間になったつもりで
いろいろなサイトに、、、勝手に友達気分で訪問しては
素敵な写真を見せていただけて、、、
家に居ながら、、、花鳥風月の
日本の旅を、、写真を通して、、
同行させていただきました。
花の素敵なサイト、、、
鳥たちの旅のサイト
山に一緒に同行させていただいている気持ちで
絶景を楽しみ、、、冒険をしました。
若い方々の感性の鋭さに、、、
古いデジカメの写真を載せるのは控えてしまいました。
観ることの楽しさが、、いつしか、、自分では
写真を足らなくなってしまい。。。若さに圧倒されました。
このサイトが、、、ばあちゃんの若さの元であっただけに
訪問させていただいた、、皆様に、、、
心から、、感謝して、、、、、、このまま消えるか、、、
何か残すか、、、心が決まるまで、、、
しばらく、、、考えることにします。
サイトで、、袖すりあったご縁でしたが
ばあちゃんは、、皆様に感謝して、、、
休息に入ります、、、、
皆様のご健康をお祈りして
Gooの皆様の、、ご発展と、、、日本での
大いなるご活躍に、、、敬意を感じながら
まずは、、、結論が出るまで
、、、お休みさせていただきますネ、、
このサイトの最後に記事になった,、、
「令和の米騒動」
を
即効の実行力で、、
解決に導いてゆく力を集めた若さに敬服!
小泉ジュニアには、、、若き力を期待しながら
急がないときは、、万難を排して、会議にかけて
なみなみならない、、、長老議員の
八方破れの感も、、、何かを言い当てる
民の僕になってくれることを信じています。
TVの前のばあちゃん連中は、、、世論の民の直観です、
深い心はありませんが、、、孫のように、、見つめてきた
小泉ジュニアが、、
権威に目覚めることなく、、
今のままの実行力の頼もしい
民のための、、、実行力のある、、
すごい政治家になった行くことに
日本の未来の少子化も、、解決されて、、、スマホ離れで
活動的な、世界から評価される
日本の若さはち切れる日本になることを
祈っています。
若さこそ宝物、、、
時間こそ敵、、、
小泉ジュニアが今回の米騒動で
TVの前のばあちゃんに深く感じさせたことですね、、、
80歳を過ぎた年寄りの気持ちは
なんで、、50歳前後の時に、、、
人生の始まりだって、、気が付かなかったのだろう。。。と
若さこそ、、、すべてだったのだと、、
50歳は、、、超若いのだって、、、
80歳になって思いますね。。。
父が54歳で早逝してから、、、
54歳を過ぎたころから、、、
今年も、、生きていられた、、、と
新しいことに挑戦しない人生を送ってしまった。
60歳になった時に、、
人生の後方でのサポートに徹して
クラス会にも、、お誘いにも、、一切参加しないで
ジーパンに履き替えて、、、庭で過ごすようになりました。
実は、、60歳は、、、若かったのですよね!!
20年以上生きられると解っていたら、、、
一仕事できたのにと、、、
二度とない人生を、50~60歳と思ったことが
何もしない人生になってしまいました。
若さこそ、、宝です
そして、、本当の敵は、、時間です。
さようなら、、、会ったことのない、、素敵だった
写真の旅人たちへ、、、
ありがとう、、、よい時間を過ごせました。
早々