笑い、、、子供のころは、、、あちゃこ,、、えんたつ、、、さかい しゅんじ
清川虹子 どりふたーず
ちょっと大人になると
笑点
もうちょっと、、中学生ぐらいになると
ヨコミゾ 利一の、、、「ハエ」!
初めて、、、奥深い笑いに出会った、、、
小岩一中に通っていた頃
区域外入学の私は、、門の正面にある公共図書館に
毎日行っていた。
母が、読書家で、
「一週間分の本の注文を、、借りてきて!」
一日一冊と半分のペースで、
母は、夜になると、、読書の毎日だった。
中学生には聞いたことのない、、、ほんの名前をメモして
借りてきて、、、返してきて、、、の 攻撃で
教科書だけでも重いのに、、、帰宅は、重たかった。
記憶のある本の名前は、
中学生には、中身まで読みたいと
思うものはあまりなかった。
晩年になって「横光利一の、覚書」という本に出合った。
その中の、、、笑いという、、項目を読みながら
笑いの深さにキズカサレタ!。
それ以後、、西田敏行さんの
釣りバカ日記、、、など、、、
面白いと思って、TVを見るようになった。
最近では「ドクターX」のTVには
笑顔のはならないが、、、笑いをいつも、、味わった。
私の中の「ドクターエックス」は、、、
多くの視聴者とは、、また、、角度が違っていることは確かだ。
谷底に閉じ込められた、、、カニが、、、
這い上がろうとして、、岩を登り始めると
誰もいない谷底の中に、、落ちてしまうという
カニさんから見た笑いかもしれない。
私が「ドクター」と出会ったのは
疎開地の和歌山県の 熊野の山の中の
疎開銀座となった、、、
住人が何千人にも、、、膨らんだ
ダム建設の現場に近い公的な診療所の、
戦場から帰還命令で、帰国できた
外科医の先生が、、、生まれて初対面の医師であった。
その医師は、、あたり一帯、、、
七つの村に医師のいない状況の中
本来取得したイギリス医学の外科技術のほかに
医師がいない以上、、、野戦病院では
全科にわたって、、戦場近くから
終戦マジカニは、、、玉砕の戦場の塹壕にまで
傷病兵の手当てに行ったという
終戦まじかの、医療機械も、薬も包帯もない状況で
キリストに出会ったと、、、、ぽつんと話してくれた医師!
私が初めてであった医師は、、、疎開地で
神様のように慕われ、、働き続けていた
父が、、、
初めてであった医師であった。
疎開地は、母の育った街道沿いの小さな村であった。
戦場での何でも屋の診療をしていた父は
耳が痛いと泣き叫ぶ子供の耳に
しばらく、、懐中電灯を当てたまま、、、
ジーと待っていて、、、
虫がはい出してきて
耳は痛いのが治ってしまい、、、子供のお母さんは
父のことを「神様じゃ!!」と言って回った。
また、、、小学校のキャベツを収穫すつという授業のとき
腹が痛くて、、、七転八倒の生徒が表れて
先生が、父を呼びに飛んできた。
父は五部手袋の上に軍手をはめて、、
まるで、、、原因がわかっているかのように
バケツを先生に持ってきてもらい
キャベツ畑の、、、七転八倒する生徒の
おけつから、、、40匹もの,、、回虫という、、
白いミミズを確保した。
そのあとで、、、
生徒全員に、、、
マクリという海藻からできた薬を飲ませて
生徒の半裸のお尻が、、父の前に並んで
村のキャベツ畑の、、、肥料のやり方に問題があるという
ガイダンスにまで,、、学校医として、、訓示する羽目になり
笑えない笑いが、、、私の記憶の中に
80過ぎたばあちゃんになっても、、、
野菜は、よく洗って,、炒めて食べる癖がついた。
医師、、、というより、、
「医師をすることを捨てなきゃ、、、
戦場の軍医も、、、ドイナカノ、、、薮医も
務まらないよ、、、、
お父さんを,、医者だと、、村の人はあがめるけど
お父さんは,、、医師をやめているから、、、
村の皆は、、、神様のような医者だと
うわさが広がってしまうだけだよ、、、」
苦笑しながら、、、戦争はね、、、
医者も、医師をすることを捨てないと、、、
生きてる人を助けられないんだよ。」
確かに、、、その後、
母のわがままで、
子供たちの教育の時期になると
父の生まれ故郷の東京に戻って、
子供の教育は、、、
「東京:で」
アメリカの教育に追いつき追い越さなければと
長男が中学になると、、、
単身で、東京の父の親せきに、、預けてしまった。
預けるといっても
母は、、戦争の人知の残る江戸川べりの
廃業となった古寺の後の敷地を
医療施設に、、税制優遇で開業を推進して
この地区の戦争貧民の医療を確保したいという
国の政策に、機敏に反応して
母は、母校の大学の友人を頼って
子供を連れて、、上京してしまった。
父は、、村人に引き止められて
和歌山に残ったままであった。
東京での古寺の後は、、払い下げられた後、、
親戚縁者の下宿先として、、それなりに
毎日、、大工さんが入り、、、
お寺の風情は、、消えていった。
大きなキンモクセイの大木と、ヤマモモの木と
コザトという、、、小さな柿の実のなる木と
周りを取り巻いた、、、高野槇の生垣だけが
記憶に残る和歌山の診療所では
父は、、、一人残った医師の業務の傍ら
医療スタッフとして、、、プロではないが
母の縁者の親戚が多いので、、、日常生活が困るどころか
お世話になった13年間の、、、村の人との別れの宴会が
毎週、、、肝心の父は往診中でも
宴会は、、毎日盛り上がって、、、
二年後には、、、とともとうとう、、、東京にやってくるまで
村でいただいた、、、物は、、すべて、、お返ししなくっちゃ、、、
東京に来るときは、、、親戚縁者から
50万円の借金をして、、、
今までの13年間は、、、なんだったのかというほど、、、
無一文に使い果たして、、、村に分かれるときは
村の道も吊り橋も、、、人で埋まり、、、
橋が落ちるからと、、、駐在さんがストップをかけるという
道が、、にわか銀座の人で埋まり、、、
戦後が去って、、疎開地を去る医師の目には
大粒の涙がひかり、、、
最後まで、、、父は、、、
医師だったのか?
医師を辞めていた医師だから、、、
医師として,、あがめられたのか?
崖からトラックごと谷間に落ちた運転手は
父のもとに運び込まれたとき
幼い私は、、気絶しそうな、、
頭の皮が、、顔の皮頃めくれて
骸骨が見えている血だらけの運転手を見た。
運んできた人たちが気絶している中
父は、、素人の村の女性を看護師として手伝ってもらい
もとは、、、タイ区間の一部だった手術室で
頭と、顔を縫い合わせるという、、、
まさに医師でなければできないオペを、、
私は、、湯気で見えにくいガラスに
ガラスに鼻を押し当てて
見逃すまいと、、、外から、、見ていた。
その後、、、あんなに、、、
フランケンシュタインのように
なってしまうのかと思った、患者さんんが
父のもとで、、、普通の顔に戻って行った。
「お父さん!!、、どうして、、あんなにすごい傷が
よく見ないと、、見えない糸のような線が残るだけの
元の顔に戻せたの?」
私は、、父に何回も聞きました。
父は、、、神様が居たんだね、、、きっと、、、
づ骸骨が見えて、、、ベロンと前に垂れ下がっていた
顔の皮膚は、、、
髪の毛の中で縫い合わせたのだといった。
髪の毛を除去して、、治ったときは、縫い目が
神に隠れるように、、傷を内側に巻くように合わせて
大きく縫って、、、あとはテープで、寄せて
がーぜと包帯で、、傷が開か内容に、、固定して
治った後のことを最大限に考えて
手術したといった。
「手のひらも難しいが、、、顔や頭は、、難しいんだよ、、」
お父さんは、、医師に戻ることもあるんだよ。」
髭の父は、、、少し笑った。
二年間も、父を置き去りに
母は子供と親戚縁者の居候とともに
東京に行ってしまった後、、
父は、、、13年間の無事のお礼を
村に全部、、、お返ししてから、、、
お母さんの先に行ってしまった東京に
気が進まないが、、、
国が税制優遇で、、陣地のまだ残っている
貧困地区の医療確保の政策が 祖父の
周りにいた人々によって
どんどん、、具体化していった。
「医師は、、医療をすることだけにしか
行動を率先して起こさない人種なのかもしれないと
父の、、医療にだけ絞った行動を、、
理解はできなかったが、、、
医療を理解しない母が、、、どんどん自分の都合で
父をあちこちに、、、移動させているかのように
私の記憶には、、、残っている。
45歳になっている父が、、
山の中に13年もいた、、、一人医者の経験後
東京の市谷が実家であり、、、
慈恵会大学を卒業しているとはいえ、、、
東京に、、、経験のない、、、開業をするなんて
ストレスは、、察するに余りあるという
気の毒な医師の人生行路だと
小学6年生になっていた私は
ぼんやりと、、、空を観ている父が
何を考えているのかを、、、知りたかった。
「お父さん、、、田舎のほうが、、、
山も川も、、あって、、ミカンもなっていて
帰りたくない?」
私は、、父に問いかけた。
父は空を見たまま、、、、ちょっと笑っただけで
空を見続けていた。
しばらくして、、、
「一に、、、在宅,、、二に在宅、、、
三四がなくて、、、五に在宅か、、、」
田舎の、、花畑や、、野菜畑や、、、生薬の栽培畑が
あったらね、、、
モグラが出てきて、、、面白かったね!!
ほうずき畑が、、、お盆の時は
子供たちを喜ばせていたからね、、、
話を、、思いっきり、、、私に合してくれて
父は、、、
言うことありませんと、、、でも言いたそうな
戦後の傷跡の貧困と不衛生と、、
バーや、キャバレーや、、、
アメリカ兵相手の、、女性の宿舎のような
パレス、、と呼ばれる、、、横木の校舎のような建物の並ぶ
江戸川沿いの、、お寺跡を提供されて、、、
イケイケの、、、母の親せき縁者の居候の社員を抱えて
開業への工事のがスタートしたとき、、
父の姿は、、、 最初にできた待合室の長いすで
寝ている姿だけに、、、変貌しました。
「医師をやめていた、、、、田舎の13年、、、」
戦後の復活の従軍していた医師は
はたして、、、もう一度。。心身ともに
医師に戻れるのか??
銀行の客として、、、生かされてゆき
医師本人は、、、医師をしているという時間だけが
生きることを許された時間であるがごとく
医師は、、本人だけにしかわからない
誰にも相続することのできない、、、時間を
患者さんとの向き合った空間で
どんな気持ちで、、生きたのかも
どんな感情で、、、周りを見ていたのかも
母にも、、子供にもわからない、、、
自分だけの時間を抱いて、、、死んでいったのだから、、、
周りは、、ピエロのように、、、父の周りを
踊るピエロだったかもしれない時代が
19歳の、、2月、、、54歳で、、、
開業10年もたたない間に。。
父は早逝した。
父が若き頃に残した、総合病院の院長の写真は
髭の医者、、、とニックネームで呼ばれ
威厳に満ちていて、、、
私の知っている、、、無口でやさしい
父とは別人のようであった。
戦争が残した、、、笑い話のように
父は穏やかな、、、笑顔で、、、
前の日に、、、患者さんの手術を済ませ
麻酔が冷めるまで、、病院のほうで
過ごすから、、、
それが、、、最後の、、父から聞いた言葉だった。
医師は誰も医師以外の家族には、、、理解できない
大いなる遺産は、、、なんだったのか?
父にあこがれて、、、医師となった
弟が、、、父の残した
命への倫理観の高い、、、
ひたすら、、手遅れにならに医療へと
患者さんんを命の消えないうちに
手当や、、手術や、、
科学的な医療を受けてもらえる
検診の段階で
医療を施せるなら
早期発見に人生をかけた
命という、、、、理念と向き合った
弟が、、、父の残した
財産だったのかもしれないと、、、
戦争という、、、ぞん底の貧乏状態の日本で
医師であることを、、、やめているんだと、、、
お父さんを尊敬するたびに
帰ってきて言葉が、、、
横溝利一のハエのような存在なら
戦争で、、馬車が、、谷底に落ちても
次の豪華な場所に泊まれば済むことなのにと、、
医師免許を持って、、、医師免許に支配された
父だったのか、、、
誰も家族は、父を理解できないまま。。
父の人生が早く終わったことで
周りの、力が、、父の人生を
食っていたのだと、、、
わからせられましたね。
周りの力、、、それは、、「戦争」でした。
もともとは、、総合病院の院長だった父を
田舎の医療に13年間も閉じ込めて
このまま、、、和歌山の山河で
生薬栽培や、、花の栽培や、、野菜の栽培
束の間の、、、アユの友釣り、、、などに
忙中閑あり???みたいな余生がいいと
那智の滝などにお参りしたり
高野山に行ったりする、、心の恵みに出会っていた。