旅する骨董屋 喜八

チベット圏を中心にアンティークや古民芸・装飾品を旅をしながら売買する喜八の、世界の様々な物や人その文化を巡る旅のブログ。

僕が手放さないチベットのアンティーク・チベタン・ターコイズ

2021年12月23日 | チベットもの



久々にチベット物の事ずら。

コロナが始まり、
もう2年近くもチベットもネパールもラダックにも行ってないので、
今更かよと思われるかもしれん。

その月日は、
チベット仏教観、特に死生観と
僕の身も心も
それらと距離を離す事となっている。

とは言え、
その圧倒的な存在価値観は、
僕の心の底に、まだ力強く在るのは事実だ。

そんなのは他人様に言う様な事では無いので、
人知れず静かに想っている位なのだが。

で、僕の手元に残るチベタン・ターコイズの事。

チベタン・ターコイズは今まで色々扱ってきました。
これからも扱うだろう。

初めからぶっちゃけ言うと、
中国人の富裕層なら
飛び抜けて良いターコイズを持ってるさかいに。
ただし、ぶっちぎりの中国人趣味のターコイズになるけど。

以前、ラサで知り合った中国人バイヤーも
富裕層向け、かつ、自身も富裕層らしく、
写真を見せてもらったら凄く良いターコイズ(中国人趣味の)を持っていた。
が、
とんでもない価格で売っていたし、
買値(仕入れ値)もマジで凄まじかった。

そんな桁違いの値段のターコイズを買うのは
一般的な日本人には不可能と思えた。
そもそも日本人が好む種類でないとは思うが。

市場ゲーム(今は特に中国人市場)に沿った物を第一に求めると、
金額は、上の上まで行く。

その「上」を何処に設定するかは
人それぞれであると思う。

僕個人は、
その物自体と共に、
その背景を高く評価し、
そこに価値を見出している。

人が見向きもしない物にも
僕は美しいと価値を感じたりする。

理解されないのは、
もう慣れっこだから別に構わないけど。

商売する上での値付けの違いってのは時には金銭価値を付随するベクトルの違いでもあり、
何を基準に対価を得る金銭的価値を付けるか、またはどれほどの人数が
その対価を許容・認知するか、だけの話しだろう。


ぼく、思うのよね。

自分の物差しが定まってさえ居れば、
例えどんな物であったとしても、
変わらず良い物として、長い間、愛し続ける事ができる。

もっとも、
「値段が高い物こそ最高だぜー」という人も
ブレずに追いかけられるけどね。


・・・で、よーやく、話の本題。





このターコイズ。

僕が手放さない物の一つである。

うーん、まぁ、確かに色艶と古さや雰囲気良いけど、
小粒だし、非売品にするまででっか?
と言われるだろう。

僕なりに理由がございまする。

譲り受けたのは、東チベットの奥地デルゲ。

デルゲの僧院でコルラ(巡礼)していた地元民の老人から
無理言って譲り受けたのです。

その当時、僕はある有名な僧院の巡礼路の片隅に座って、
民間人から物を仕入れていた。
コルラをしてる生粋のチベット仏教信仰のチベット人達からね。

当時、そんな事してる日本人は全く居なく、
そもそも日本人自体が皆無な場所なので、
噂になったらしく、
たまに向こうから「こんなん買わないか?」と
物を見せて来る時もあった。

その老人は、
そのやり取りを近くで見物してた一人である。

僕は彼の首元に巻かれたターコイズが気になって見せてもらったら、
本物ではないか。

「これを売ってくりー」と聞いてみたが、
最初はあっさり断られた。

どーやら、大切なターコイズらしい。

僧侶がどうたらこうたらと
祈りをするジェスチャーで言っている。

多分、僧侶から祈りを込められていると
言いたかったのであろう。

最も、普段から首に巻き、
毎日欠かさず祈りの巡礼をしているのは間違いない。

その日は諦めたが、
翌日、僕が僧院の椅子に座っていると、
コルラしてる彼の姿があり、
その日は彼の方から近づいて来た。

売りたいってゆーより、なんとなく来た感じだった。
老人はゆっくりと俺の隣に座ったので、

俺はダイレクトに言った。

「それ、〇〇元ならどうだ?」

老人は断った。

なんだよー、無理かー、と一瞬思ったが、
僕は値段を上乗せして再度、値段提示した。

老人は弱った様な表情で悩み出した。

ジジイ、心が揺れとるー

俺は更に値段を上乗せした。

老人は小さな声で、
「○○元...」とターコイズを触りながら言う。

売る気だ。

僕はこれまでの経験上、
売り手が業者でない素人の私物(又はお寺の物)の場合、
金額交渉があまり出来ない事があるのは知っていた。

無茶苦茶な高値を言ってくる人も居るし、
そもそも全然売る気がない場合すらあり、
言い値(またはそれに近い金額)で買うか否か、の場合も多い。

今回は現実的な値段である。
それが物語の確実な物として目の前にある。

来歴不明の業者経由ではない。

場所もチベットの奥地。
僧院の椅子。
巡礼してる一般人の老人。
その首に長年大切に巻かれていた古いチベタン・ターコイズ。
色艶の良い本物だ。
しかも、許容範囲内の値段であり、
その値段は老人の想いの値段なのだ。

こんな機会は
次、いつ巡ってくるか分からぬ。

名残惜しそうにする老人の気が変わらない内に
僕は言い値で譲り受けた。

世の中には、
金さえ出せば手に入れるのは不可能とは言えない物も多い。

しかし、
金を出しても手に入れるチャンスを得られない物も在る。

正確に言うと、
僕と老人が出会わなければ
そのターコイズは手元に来る事はなかったであろう。

世界に一個だけの
老人と僕が繋げてきた
確実な物語を持ったターコイズなのだ。

もっと踏み込んで言うと、
僕にとっては、
そこに明確な、祈り、が存在するのだ。

世に溢れる、
インターネット経由で現地の中国人(またはチベット人)業者とのオンライン売買の物では決して、ない。
※購入する経路と販売先が良いとか悪いとかの話しではなく、あくまで自分が確信できる物語基準上での話し。

物を通しての、
僕の物語がソコにあるのです。

それが、僕がこのターコイズを手元に置いてある理由なのです。


因に、老人の首にはもう一個、ごく小さな粗末な金属製ケース(たぶんガウの一種)が巻かれていて、
「コレは絶対に売れないんじゃ」と言っていた。

人それぞれ、
物には物語があり、
その物語にこそ、僕は愛すべき価値があると思っているのでした。



自分で書いといて何だが、
物語とか祈りって言葉を出しちゃってるし、
ちょっとフワッとしてカッコつけた話しになっちゃった。

分かってくれる人だけ
分かってくりー






※この記事は僕の今の記憶の限りを書き起こしていますが、
僕が体験してきた事実を書いています。


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