旅する骨董屋 喜八

チベット圏を中心にアンティークや古民芸・装飾品を旅をしながら売買する喜八の、世界の様々な物や人その文化を巡る旅のブログ。

ホームレス・トラベラー

2023年06月06日 | 日記




先日、知人が僕の昔の旅話を聞きたがり、
ちょっとだけ話したら面白がられたので書こうかしら。

昔話ですね。

記憶の限り話そうと思う。

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僕は海外旅行が以前から好きだった。

最初に長旅、数ヶ月単位の、と言える海外への一人旅に出たのは、
20代前半ら辺の時だったと思う。

しかも行き先は、よくある東南アジアへではなく、
ヨーロッパであった。

これは当時、日本で僕がある女性と恋をして、
その女性がフランスへ帰り、
彼女が住むパリへ追いかけて行ったからである。

まぁ、パリで再会したのは良いが、
三日ぐらいでフラれたよね。


僕は今も常に金がないのだが、
当時はもっともっと無かった。

猛烈に極貧だった。

女を追いかけて行ったのは良いが、
金なんか全く持って無かったし、
フラれた後は住む家すら無くなった。

当時、日本での住む家も無かったりした(友達の家を渡り歩いていた)ので、
この時点で既に家無しだが、
まだ完全なホームレス(路上生活者)とは言えないだろう。

まぁ、何処か適当に
安いゲストハウスとかに泊まれば良いかな、位だったかな。
今以上にアホだったので何も考えてなかった。

あんま覚えてないが、
日本へ帰るって選択肢は自分の中にはなく、
そのままヨーロッパ放浪するかなって感じでした。

・・・で、
冒頭の知人との話で、
(今更、自分でも気がついたのだが)
思えば、今は、ゲストハウスにも泊まれている。

ネパールでは月単位の部屋借りもしてるし、
前回のイスタンブールでは賃貸アパートも借りた。
もちろん、自分で稼いだ自分のお金を出している。

だが、当たり前だが、
安いと言ってもそれなりの宿代が発生する。

今は宿代を捻出できる位にはなってはいるが、
当時は、宿代は極めて大きな金銭問題だった。

なので、
今だから話せるが、
ロンドンの駅で寝泊まりしていた時もある。

駅と言っても、駅前のシャッターが降りた深夜の店の前で寝ていた。

この時こそ、
まるっきりホームレスである。

まさかの、
見知らぬロンドンでホームレス初体験である。

直接道路の上で寝るのは冷たいので、
店の入り口の段になってる場所を見つけ、
そこで寝ていたのを覚えている。

今考えると無謀な行為だが、
惨めだとか、そういった感情は一才無かった。
全ての荷物も小さなバックパック一つであった。

盗難とか暴行とかの脅威はあまり考えて無かったが、
それなりに気を張ってはいたと思う。
何より、段になってるとはいえ、
コンクリートが固くて寝られなかった記憶がある。

「公園のベンチの方が良いんじゃん?」と言われるかもしれないが、
当時の周辺の公園は、
アフリカ系黒人の怪しく危なそうな奴らが深夜でも数人ウロウロしていた。
そっちの方が危険な感じがして、僕は駅前の路上を選んだのである。

しかし、
流石に海外の路上で寝るのは、
若者の僕にとっても疲れる事だったので、
僕は知恵を働かせた。

そこで、
適当にナンパしまくって、
その子達の家に泊まっていたのだ。

もちろん、当時は今より英語は全く話せない。
イギリス人の綺麗なご婦人になんて相手にされない。
そこで留学生とおぼしき若い日本人女性に声をかけたりして、
慈悲の心?同国のよしみ?彼女たちも日々心細かったのか?で
泊まらせてもらっていた。

ゲスな方法と思われるだろうが、
この時は(今も?)生きる事で精一杯だったのです。

まぁ、結局、その方法は長続きはせず、
最終的に、
僕は屋根の付いた安い宿を探した。

行き着いたのは、
大型の体育館のごとき建物にズラッと二段ベッドが並べられた宿的な施設。

今思うと、
シェルター(欧米にあるホームレス支援の無料宿泊施設)に毛が生えた程度の
簡易的な安宿だったのであろう。

宿代は幾らかは覚えていないが、
ヨーロッパの宿にしては極めて安かったと覚えている。

その施設は治安の悪い地域にあった。

朝、宿の入り口の窓ガラスが割られ、
警察が来ているなど日常茶飯事だった。

まぁ、色々あったよね。

金のない中、クラブに行って、
遊んでたりした(入場料は激安だった)のだが、
今は知らないが、
その時代のロンドンのクラブ、テクノとかトランス系のクラブって、
相当、荒れていた。

荒れていたってのは不良や、
気合の入った遊び人が多かった。

フロワーで汗だくで踊る上半身裸の男達は、
今と変わらないかもしれないが、
トイレとかアンダー・グラウンドな映画に出てくる感じで、
もう無茶苦茶だった。

扉の無い大便用トイレの便器(もちろん、便座カバーは無い)に座り、
腕に何か注射器で打ってる奴や、
洗面台の横に引いた白い粉を吸ってる奴とか、
男子トイレなのに男女乱れていたり、
カオスで面白い感じであった。

因みに、
僕が小便をしてた時、
横に来た男性が僕の下半身を見て自慰行為をしだした事もあった。

そんな事が日常的にあり、
やがて僕はオランダのアムステルダムに渡った。

お約束の沈没コースですな。

あ、因みに、
パリからロンドンへの行き方は、
ドーバー海峡をフェリーで渡った。
安かったからだと記憶している。

ロンドンから再度のパリとベルギーを経由し、
オランダへは電車だった気がする。

経路での出来事はあまり覚えて無いが、
ベルギーで電車の乗り換えがあり、
アムステルダム行きの電車を乗り過ごしてしまい、
小さなバックパックを抱えて見ていた、
駅構内のパン屋のワッフルが輝いていたのを覚えている。

もちろん、
そんな美味しそうな食べ物を買える金の余裕は無かった。

アムステルダムに着いたのは良いが、
当時はインターネットでの旅情報はほぼなく、
今の様なTwitterとかSNSで簡単に情報収集とかすら無かった。

土地勘も情報の全く無いなかで
適当に歩きまわり、
極安の宿を選んだ。

「日本人観光客は行ってはいけない」と言われていたエリアの宿だった。

宿でさえあれば、
周囲の治安とか、その時の僕にはどうでも良い事で、
とにかく安い宿、
とにかく面白そうな場所、
を選択していた。

値段の安さで選んだその宿も結構キテいて、
麻薬中毒者だらけだった。

そもそも、
周りは売春宿ばかりだった。

ハイになってパッキパキになってる奴とか、
ドミトリー(複数人相部屋)なのに性行為する奴らとか普通に居た。

一階にあったカフェでは煙(アムステルダムは合法)モクモクで、
客は皆、タトゥーが入っていて、
入れていない人を探す方が大変だっただろう。

普通に可愛い子も居たのだが、
明らかにジャンキーで色白でガリガリに痩せて目の下にクマって感じで、
僕の変態心をくすぐられたのを覚えている。


この時は、僕はホームレスって感じでは無いかな。
一応、屋根のあるゲストハウスに寝泊まりしてたから。

でも、外見はめちゃくちゃ汚かったであろう。
シャワーとか浴びた記憶がない。
宿のシャワーの有無さえ確認した記憶もない。

今はホット・シャワーは必須で、
部屋の日当たりとか広さや、
トイレの綺麗さとかを気にする。

僕もいつの間にやら、大人になってしまった。
条件の良い部屋を求める様になってしまった。

路上で寝るだって?

今は、まだ再び出来ないかもしれない。

でも、
もし、その時が来れば、
僕は路上生活者、ホームレスになれるかもしれない。


思えば、
僕は生い立ち上、明確な故郷とか地元がない。
幼馴染も居ない。

実家と言う概念も薄い。

何処に行っても、
何処か戻る場所を探している心がある。

それが何処なのか、まだ分からない。

以前、イスタンブールで友人と飲んでた時、
「俺は、マインド・ホームレスなんだ」と
僕は無意識に口にした。

カッコつけた言葉だったが、
僕は、
「心が帰る場所が無い」と
言いたかったのだ。

自分で言って驚いた。

もしかしたら、
僕は帰る場所がないのかもしれない、と。

ある映画の主人公のセリフで、
「私はホーム・レスじゃないのよ。ハウス・レスなのよ」と言う言葉を思い出す。

映画の中の彼女は、
帰る場所を心に持っているのだろう。

家という物質的な場所が無いだけなの、
と言いたかったのだろう。

僕は逆かもしれない。

僕には住む家は今はあるが、
心が帰る場所がまだないのかもしれない。

その後も、
幾度も、
幾度も、
様々な場所へ旅をしても
まだ
僕は探す旅をしているのです。

いまだに、
僕は探しているのです。


心が戻れる場所を。


ちょっとカッコつけちゃったかな。
でも、そんな感じなのです。



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