旅する骨董屋 喜八

チベット圏を中心にアンティークや古民芸・装飾品を旅をしながら売買する喜八の、世界の様々な物や人その文化を巡る旅のブログ。

死生観について 2023

2023年05月12日 | 日記



心に迷いが生まれる時、
僕は死を想う。

虚無を感じる時、
生きるのが面倒になった時、

僕は死に魅了される。

生にしがみつく理由は
僕には乏しい。

他人からの見た目は分からないが、
少なくとも僕自身は、
生きる理由は希薄である。
いや、
むしろ、
毎晩寝る前には
「もう目を覚さなくても構わないや」という位だ。

だからと言って、
悲観的に考えている訳でもない。

「もう、生きるのが嫌なのじゃ〜」
「死んでしまいたいのだ」

・・とかでは無い。

あくまで、
生きる先の向こうへ行くのも悪くないな、程度である。
この感情、うまく伝わるかな。

楽観的な感情にも近いのかもしれなく、
死を想う心地の良い時間でもある。

そして、
死ぬなら面白い死に方をしたい、
友達の笑い話になる様な死に方でありたい、
そんな感じでもある。

一方で、
Twitterとか見てると、
「うわ、皆んな、病んでるな」と思える文言が並ぶし、
インターネットで「死」を日本語検索すると、
まずは
自殺防止の問い合わせ先とかが出てくる。

わしゃ、そんなのが知りたいんじゃない。

僕が知りたいのは「死の正体」である。

「いよいよ、ヤバい事を言い出したなコイツ」と思われるかもしれない。

世界は「生きる事こそ正義」みたいな価値観があり、
そこには、
「死は最終的なもの」とした大前提があるのです。

では、その大前提は絶対的な事実か?と言うと、
よくよく考えると、
誰も知らない筈である。

昔から知らぬ間に決められ、
思い込んでいる、
人間的な価値観かもしれない。

世界中で、
その正体不明な価値観が固定され、
死を極度に恐れ、
生にしがみつくのは何故だろうか。


ーーー

こんな話がある。

地球上で最も成功した生物は「木」だという。

昔、何かで読んだか
何かで知った記憶がある。

事実は間違っているかもしれんが、
興味を持った記憶がある。

樹木は人類が誕生する遥か以前から存在し、
姿形をあまり変えずに、
今なお、地球上に無数に広く繁栄している。

そして、その存在感は大きい。
年齢が数千年の樹木も存在する。
数千年間、同一生命体が生きているのである。

もちろん、
進化の歴史から見ると、
様々な説や見解があるかもしれないが、
種族存続が生物の第一目的だとすると、
少なくとも、
木は成功した生物の一つなのだろう。

また、
「樹木は移動しない」と思われがちだが、
よくよく木を観察していると、
種子を作り、
時には、鳥や風で種を飛ばして、
移動している様に思える。

人間社会の概念の定義上での、
「移動」とは異なるかもしれないが、
確かに、
それは種族、
生命の移動であると思えてならない。

そう、
移動に関する概念ですら、
人間が勝手に決めた事かもしれないのです。

では、
樹木にとって「死」とは何か?

樹木は、
自身の死や生を意識しているのか。

すぐ隣に新しい芽が芽生えていたら、
どう感じるのだろうか。

根を伸ばした先に、
新しい生命が芽生えていたら
どう感じるのだろうか。

それらを意識してみると、
木にとって死とは、
いや、
もしかしたら、
全ての生物にとっても、
次の生命へ繋がる単なる通過点かもしれない、
と思ってしまう時もあるのです。


だ、大丈夫?
ここまでの話、追いてこれてる?
ヤバイかしら、俺。
ま、まぁ、続けよう。


もちろん、
木自体が、どう、死生観を意識しているかは、
僕は樹木と話せないので分からない。

縄文杉(推定樹齢2000年〜7200年)にでも、
「よー、兄弟、生きるって何よ?」と聞きたいが、
答えは聞こえないだろう。

ただ、
彼らは、
僕らが考える「死」または「生」とは
異なった概念で、
地球上に存在しているかもしれない。

逆説的に考えると、
人間が言う一般的な「死」と言うのは、
「人間のみの勝手な概念」かもしれない、
と思えてくるのです。

ただ、
人間を個の生命体の集まりと考えると、
確かに、
一個人(個体)は死ぬ。
今の所、誰しも確実に死ぬ。

しかし、
もし、
「個としての死」と捉えず、
「皆として生」と捉えると、
死生観の概念は
変化してくるのではないだろうか。


人は、
基本的には自分と他者と比較して、
幸せ度合いと同時に、
死(または生)を感じるだろうが、
もし、
元々は皆、同じだと考えると、
自分個人の、
死ぬ事や生きる事の意味は、
どうなるのだろうか。

死を極端に恐れ、
個人の生にしがみつく理由は、
どうなるのだろうか。


単に、肉体的な完全停止が「死」で、
肉体(細胞)が活動しているのが「生」である。
それ以上の理由は無い。
と言うのも、
簡潔な見解かもしれません。
専門的な学問は全く知りませんが。

医療が進んだ現代なので尚更、
「死の定義」が現代医学に沿った常識と
なっているのかもしれない。

だが、
遥か以前から、
死というものに
根源的な「何か」を感じていた人が
居たのは感じるのです。

不死の薬を求めてきた歴史も、
死を恐れていたからかもしれません。

一方で、
死をもっと広い概念で捉えていた
一部の人が居たのだろう、
と思える時があるのです。

人が死んだら、
生ある鳥や動物に食べさせる、
と言う思想行為も、
単なる人間の個体のみとしての生命体の
死と生をも越えている思想からの行為
とは思えないだろうか。

また、
死の先を想い、
現世と、もう片方の世界、という概念を見つけ出したのは、
何故だろうか。

そこには、
「死=悲しみ」
という感情のみに留まらず、
もっと広い視点で視ている様に感じてしまうのです。


答えは分かりません。

僕は答えを探しているのです。
例え、
答えのない旅だとしても、です。

単に
僕はソレを、
「死に魅了されている」と表現しているのです。

それは決して、
後ろ向きな価値観ではなく、
先を見据えた前向きの価値観であり、
ある種の楽観的な、
死に対する見方でも
あるように思えるのです。

それは、
言葉や文字では、
頭で整理するに留まり、
心で感じるに至る事は難しいとも
思えるのです。

だからこそ、
僕は、
死生観を感じるモノに、
心を惹かれているのかもしれません。



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