旅する骨董屋 喜八

チベット圏を中心にアンティークや古民芸・装飾品を旅をしながら売買する喜八の、世界の様々な物や人その文化を巡る旅のブログ。

難民チベット人二世に会って想う事

2023年07月06日 | 日記



難民チベット人二世と、それに関わる話題です。

書くかどうか悩みました。

チベットに関して、
何も知らない、
何も分かっていない僕が、
書いて良い話題だろうかと。

あまりにも複雑で、
深い事情を含んだ事だからであって、
部外者であり、
チベットに関して日本人の僕が、
安易に発信して良いかどうかを考えていました。

そして、
難民に関する事は日本にとっても、
昨今、賛否両論、繊細な話題でもある。

ここでは、
日本での難民問題とは別の話です。
状況や歴史等が違いすぎるから。


書くのを決めた理由は、
ある時、チベット人の友人が、
「君がチベットの事を日本へ伝えているのは良い事だ」と
僕に言ってくれた事があるからです。

まぁ、お世辞でも嬉しいよね。

また、
現地へ実際に足を運んでいる人間として、
少なくとも、
チベットのアンティーク売買を通しては、
日本人で、そんなに多くの人数が居るとは思えない。

そこで、個人的な実体験と、
友人達からの会話からの事、
それに関して、
極力、事実に近づける事を心がけ書こうと思う。

もちろん、
僕が知れるのは、
彼ら彼女らの表面的な事に留まります。

本当に深い心は分からないのです。


※長文です。
興味がない方はスルーしてくだされ。


--------

ネパールのチベット人地区には、
チベット仏教に傾倒する欧米人が多く見られる。

なかにはチベット仏教そのものではなく、
単に、オリエンタルな価値観が好きなだけな人や
ファッション感覚で触れる人も多い。

チベット仏教を学ぶ欧米人も居るが、
その多くはチベット本土へ渡航した事がない人が殆どだ。

チベット本土に行くのは何かと面倒だからね。

ビザや許可証の問題、
交通インフラ、言葉や宿泊の問題もある。
一般の旅行者が気軽に行けるには情報も不足している。

実際に、僕が東チベットへの渡航で、
単独の欧米人旅行者に出会った回数はごく僅かで、
自治区内ラサであってもツアーとおぼしき団体を目にする位だ。

そこで、比較的容易に行けて、
滞在環境も良いネパールを選ぶのだろう。

ネパールのチベット人地区に居ると、
民族衣装を着たチベット人を多く見かけたり、
チベット語も目に入る上、
著名なチベット仏教寺院もあるので
「まるで、チベットですや〜ん」と思いがちだが、
チベットではない。

それは、現インド領ラダックやザンスカールやスピティも同様であるが、
ラダックやザンスカールは自分達をラダック人、ザンスカール人と自認している。
色々と例えられるが、正確にはチベットではない。
もちろん、ダラムサラもチベットではない。
(いずれの場所も、生粋のチベット人が居るのも事実だが)

因みに、
中国四川省の一部等の通称、東チベットをチベットとするか否かですが、
隔てるのは、チベット自治区内外という線引きに沿ったものであり、
チベット発行の地図では東チベットと呼ばれるカムやアムド等もチベット。
もっとも、チベットという国は今や国際上は無いし、
今や中国人(漢民族)と文化も人も混じり合っているが、
現地へ何度も行けば諸々感じる事はあるかもしれない。



・・・さて、話を戻すと、
ネパールでは、
チベット仏教とチベット人の生活に触れられる。

ポカラにはチベット難民キャンプも幾つかある。

その結果、
異文化への観光対象としてだけでチベットを捉える人も多い。
むしろそれが主だと思う。

良いとか
悪いとかは
僕は分からない。

でも、
僕らが接している多くのチベット人は、
祖国を失った難民・移民なのである。

単に同一民族が集っているだけではない要素があるのです。

しかし、
僕が知る限り、
現地のチベット人は本音を簡単には口に出さない。

彼らが外国人観光客をどういった目で見ているか、を。

そして、それは外国人観光客への思いと共に、
ネパール政府の在ネパールのチベット人に対する現状に対してもです。

あるチベット人の友人は、
「僕の人生に置いて、
チベット仏教に感化された沢山の欧米人に会った。もう知り合うのは十分だよ」と言う。

続けて彼は言う。

「チベット人は長い生涯をかけてチベット仏教を学んでいく。
でも、彼ら(外国人)は突然、学ぶのを辞めてしまう。
まるで飽きたかの様にね」と。

普段は朗らかな彼だが、
難民チベット人二世として生きてきて、
色々な事を見てきたのだろう。
彼を何年も前から知っているが、
初めて彼の本音を垣間見た気がしたのです。


前回の渡航時、
ある中国人の女性と出会った。

彼女はインドに滞在していて、
その流れでネパールに来たという。

彼女は観光業のビジネスを考えてるとの事だった。

彼女はチベットには行った事がないらしい。
チベットに関する知識や見解もほぼ無いと見て取れた。

彼女は言う。
「ダラムサラ(ダラムシャーラー)への中国人ツアーを考えているの」と。

僕は聞いた。
「中国人観光客をダラムサラへ?」
「ところで、なぜ、ダライ・ラマがダラムサラに住んでいるのか君は知っているの?」

彼女はハッとした表情を浮かべた。

質問の答えは知っていたらしい。

説明は不要だろうが、
(様々な見方や意見はあるだろうが)
現ダライ・ラマは大国から命を狙われ過酷な旅の後、
亡命した先が、インドのダラムサラ(正確にはマクロード・ガンジ)なのです。
チベットを追い出されてしまったのです。
そして多くのチベット人達も祖国を後にし、
最終的には国ごと無くなってしまった。

その亡命先である、そこへ、中国人観光客を送るビジネスだって?

もちろん、
お客となる人に知識や見解、
各々の意見や、
見方の選択肢を広める等の目的があったのならば、
ある種の深い意味があるかもしれないが
おそらく彼女は、
チベット人の感情など一切省き、
「金を目的とした商業的ビジネス」という観点で見ていたのだろう。

僕は何も言わなかった。

当たり前だが、
僕が何かを言える立場ではない。

彼女は英語を流暢に話すので、
それなりに知識層で頭も良い人なのであろう。

すぐに状況を理解した様だった。

僕だって、
仕事や旅を通しての、
様々な体験や、チベット人からの話、
チベット人の友人達が居なかったら、
実情を知る事は無かったであろう。
同じ目的の行為をしていてもおかしくはない。

そんな事が重なった滞在の日々のなか、
アメリカに住むチベット人とも仲良くなった。

彼の親はチベットからネパールへ逃れ、
息子である彼はネパールからアメリカへ渡った難民チベット人の二世だ。

カフェで偶然居合わせたのだが、
同世代という事もあり、意気投合して毎日会うようになった。

出会って数日は政治的な話題はしなかった。
それぞれの仕事や生活などを話し合った。

特に僕が興味を持ったのは、
アメリカでのチベット人コミュニティや生活、
アメリカ人との関係性などの話であった。

日本ではチベット人というと、
大自然の中での遊牧民的な素朴な生活や、
宗教観を強く思い浮かべるかもしれない。

それらも事実だが、
個人的には、
それが、日本人が期待するチベット人の姿という側面を感じてしまう。

もちろん、
それを悪いとは思わない。

現実にそういった生活や人生があるのは事実だし。

しかし、
現代では彼らの生活は変化している。
イメージと実情は異なる部分もある。

多くの外国人が日本へ期待する(見たいと思う)のは、
日本の伝統的な姿や風景であり、
アニメや漫画のオタク・カルチャーだろう。

それらは、日本全体として見た時、
大部分を占める要素ではない。

今や一般的には日本人は着物を着ないし、
現代的な家やマンションに住み、
一部を除いて、
大人になった忙しい社会人の多くはアニメを日常見ないだろう。
また、
日本は超ハイテクな国と思っている外国人も居るだろうが、
いまだにFAXとかが実用されてたりする。
想像と現実のギャップがある。

それと同じで、
実際には、
多くのチベット人、特に都市部の若者は今風である。

大型バイクに乗ったり、
タトゥーを入れたり、
欧米の音楽を趣向し、
現代的な価値観で生きている。

プロのカメラマンをしている彼の撮った素晴らしい写真の数々の中には、
BMWに乗る民族衣装を着た、アメリカに住むチベット人も映っていた。

祖国とは遥か離れた地で、
自国の伝統文化を残しつつ、
現代と融合したチベット人の姿を映した素晴らしい写真であった。

僕は、多くの日本人にも彼の写真を見て欲しい、と
本音で思ったのです。


ある日、僕らは酒を飲みに行った。

ビールを三杯飲んだ後、
彼は言う。

「チベットへ行くのが夢だ」と。

彼はアメリカのパスポート(正確には永住許可証の類かもしれないが詳細割愛)を
持っているが、
チベットには行けない。

正確に言うと、
行く事は可能だろうが、
到着後には彼の立場上、現実的なリスクを伴うからだと言う。
(名前で判別され身元や職業を調べられるとの事だった)

これは過剰な心配ではなく、事実であるだろう。

ネパールのチベット人地区で同宿だった若い中国人女性は、
チベットに関して知識や経験や興味を持っていて、
彼女(英語はネイティブ並に流暢、フレンドリーで面白い女性であった)は、
以前、中国に帰る時に空港で、
パスポートにダライ・ラマの写真を挟んであったのを見つかって、
別室行きだったそうだ。

東チベットの知人と現地の街中のカフェでお茶をしている時には、
ダライ・ラマという名前を口に出す事も躊躇していて、
「彼」と呼んでいた。

まるで、ハリー・ポッターのヴォルデモートと同じ扱いである。
名前を呼んですらいけない。

それが現実である。

また、チベット人同士であっても、
ダライ・ラマを信仰(様々な派があるが愛国主義側とあえて表現する)する人側と、
そうでない側との、仲が悪い関係がある事も以前から聞いている。
分断が起きていると思える。


ここまで話せば、もう十分かもしれない。


彼との飲みの場で、
色々な話や、
難民としてネパールに渡ったチベット人に起きた、
チベット人達とタマン族との争い(その話は壮絶で生々しかった)など、
彼の数奇な人生を聞いたのです。

それらは、
遠い昔の事ではなく、
自分の生い立ち上での出来事や、
自分の親の世代の話である。
数十年前の事なのです。

その本人たちが、自分のルーツや祖国と、
どう向き合っているかは、
日本人である僕には到底実感する事はできないが、
チベット人地区に来る観光客を見ていると、
僕にとって複雑な感情が出てくるのです。

深夜、飲んだ帰りに寄った仏塔の周りで、
人知れず五体投地で祈る人を見て色々と感じる事がある。

もっとも、
僕もその外国人観光客の一人であるのです。

しかも、
僕は、
何も知らないくせにチベットの古い物の売買を生業としているのです。

どんなに言い訳しても、
僕はチベット人ではないし、
商売だからと割り切れないほど、
現地の人達と会ってしまっている。

そして、
己の無知を自覚しているのです。

無知なのに、
チベット人でもないのに、
チベットの事を何も知らないのに、
勝手な発信や売買をしているのです。

この、金にまみれ、確信犯の嘘や噂話が溢れるアンティーク業界で、だ。

おぉ、なんてこった。

「どの面さげて発信や売買してるのか」と言われれば、
返す言葉もない。


その葛藤を抱えながらやっているのです。


僕にできる事は何だろうか。


そんな事を思うのでした。


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