
僕は死の議論をタブーとしていないです。
このテーマを書くという事は、
世間の怪しげな商売やスピリチュアル系と勘違いされ、
ヤバイ人と思われるかもしれない。
始めに言っておきますが、
それらとは僕の意図は全く異なります。
あくまで日本での
『死に関しての議論の必要性』
を言いたいのです。
興味のない方はスルーしてくださいませ。
真面目に書きたいと思うのです。
--
厚生労働省が公表している資料を見た。
「令和5年(2023)人口動態統計月報年計(概数)の概況」
という長い名前のページである。
添付されたPDF資料の、
第七表「死亡数・死亡率(人口10万対),
性・年齢(5歳階級)・死因順位別」にあった重要な項目である。
下記の順位は僕にとって驚く結果報告であった。
第一位
10〜14歳、15〜19歳、20〜24歳、25〜29歳、30〜34歳、35〜39歳
第二位
40〜44歳、45〜49歳
第三位
50〜54歳
上記は年齢別の死因の順位である。
では死因は何であろう。
答えは「自殺」である。
年齢別の死因である自殺の順位(男女総数)です。
10歳から39歳の死因(死亡数・死亡率)の、
一位は自殺なのである。
信じられない結果です。
「概況」という資料を読んでみたら、
「年齢別死因」の項には、
90歳以上(男性は95歳以上)の死因は老衰が多く..とか書いている。
90歳以上の多い死因が老衰なのはアホな僕でも想像できる。
並列して、男性は10〜44歳、女性は10〜34歳では自殺が多く..
とかサラッと書いています。
悪性新生物(腫瘍)が多いとも分析しているが、
それはだいぶ前から広く知られた事だとは思う。
年齢別の死因で見ると自殺が上位にくるが、
全年齢での死亡者数の死因総数で見ると、
腫瘍や心疾患とか病気が多い。
若者の人数の絶対数が少ない日本。
なので、全死亡者の数だけで見ると
自殺者数は相対的に上位に来ない。
若者は病気で死ぬ確率も高齢者や中年に比べて、
少ない事も要因かもしれない錯覚と思えた。
ともかく、
40歳前までの人間の死因は自殺が圧倒的に多いのです。
数年前にも確認した、
この資料(表を含む)が僕の認識や見間違いでなければ、
この数字は恐るべき事だと実感する。
人数で言うと、2万人以上が一年で自殺で亡くなっている。
今、日本人の三大死因と言われるのは、
悪性新生物(腫瘍)、心疾患、脳血管疾患、
となっているらしいが、
そこには自殺という文字はない。
しかし、実際には自殺は統計上、多い。
また、自殺は認定されないと自殺と記載されないとも聞きます。
表に出ない実数はどれくらいあるのでしょうか。
ここで重要な事を言っておかなければならないが、
僕は決して様々な病気による死を軽んじている訳ではないです。
事故死や他の要因での死も軽んじてはいない。
自死の権利は、推奨しても否定してもいないです。
僕は「死の捉え方の議論の必要性」
を書いているだけなのです。
---
今のところ「死」というのは、必ず全員に訪れます。
仏教的には諸行無常とある様に、
一切の物事は常に変化するので、
いつかは死(または死に対する概念)は変わるかもしれないが、
少なくとも現時点では人は死ぬ。
(肉体的に死ぬが魂は...とかの意見はここでは置いておこう)
しかし、日常的な話題としては一般的ではないと思える。
一方で、著名人の死でも見られる様に、
誰かが「亡くなった後に」各々の見解や意見は爆発的に発信される。
それが自死であった場合は特に。
その反応を見ていると、
多くの人は死に間して本来は興味がある事、
または、重要な意味を持つと思えてならないのです。
それらはすぐに社会の様々な問題や話題の中に埋もれてしまい、
死に対する話題や議論はすぐに消費されてしまいます。
---
それにしても、死ってのは一体、何なんだろうか。
誰しもに訪れる事。
人によっては、
いや、前述の統計から見ても多くの人は自ら選ぶ事。
しかし、報じる事はあまりない。
戦争や疾病や事件や事故などは大々的に報じるのに。
何処かに閉じ込めておくように感じられる。
本来は、一人自ら命を絶てば大ごとなのに、
世界ではミサイルを打ち込んでいて膨大な人数の人間が亡くなっている。
その数字だけを読み上げるアナウンサー。
無機質な空気が流れる報道ニュース。
環境によっては、死は身近にあり、
環境によっては、遠くの出来事
命の意味とは何なのでしょうか。
命の価値は場所によって変わるのでしょうか。
死とは、今のところ全員に必ず来る数少ない出来事なのだが、
自身に死が現実的に感じられて初めて、
その対極にある「命の価値」を自覚する不思議な出来事。
---
何年も前、インドのバラナシ付近のガンジス川では
普通に屍体が流れていた。
その川縁には死にゆく人が集まり行き着く建物が当時は有った。
昔、僕が滞在していた聖地プリーでも生と死が混濁していた。
普通に人や動物の糞尿や屍体と共に、
日常に生と死が混濁していた。
彼らにとって生と死は、
日常生活の延長線である様に感じられて、
僕は感情と価値観に影響を及ぼした記憶がある。
.
また、ネパールのチベット圏で、
コルラ(巡礼)する人々を眺めながら、
チベット人の友人が言った言葉を思い出す。
「彼らは死ぬ準備をしているんだ」と。
チベット仏教的には輪廻転生という考え方があり、
それを信じるか否かは個々の自由なのだけど、
しかし少なくとも彼らは死(または生)という事を、
日常的に触れているのだと思える。
時として、ヨーロッパでは自死を容認するか否かの議論がある。
勿論、彼らにとっても繊細な話題でもあるとは思うし、
宗教上な事や道徳観まで幅広い議論が必要だろう。
フィンランド人の旅行者と、
海外で一緒に酒を飲んだ事があるが、
彼もまた「僕の国では自殺の話題はタブーだ」と言っていた。
北欧では自死が多いと以前から聞いていたが事実のようだ。
---
日本では、時として、自死の権利の主張が微かに出ては消えていく。
上記の正式な統計上の数が多い自死。
そして、全ての人に今は必ず訪れる死。
本当は、これらの議論はタブーではないと思えるのは僕だけだろうか。
自死が多い今の日本の現実。
高齢者大国でもある日本。
問題が山積みな日本
死に関しての議論、自死の賛否など、
公で広い範囲で一般的に論じ合う事は後回しになるのかもしれない。
答えも出ない死の事を議論するより、
日常生活に直結する話題を優先する事は当たり前だろう。
または、生の側の人間が無意識的に
「拒否反応」に近い感覚を覚えているからかもしれない、
とも個人的には思えるのです。
今、日本で見られるのは、各々の心の悩みの相談等の対応であり、
死そのモノに関して若い時から広い範囲で、
論じ合われてはいない様に思えるのです。
個人的に「命の電話(悩みの相談電話)」を開設した人が居ると聞いたが、
今、その電話は鳴り止まない、と聞く。
日常生活が充実すればするほど、人ってのは死を忘れてしまう。
老後の生活は気にするかもしれないが、
果たして、日常を生きる人々は、死を意識するのだろうか。
もし、普段から頻繁に死に関して口に出してら
「アイツ、メンタル大丈夫?」と思われるだろう。
もしくは「お前、ヤバめの宗教に傾倒しとるのか?」と
心配されてしまうかもしれない。
だから、この話題は普通は避けるだろう。
因みに、僕はいかなる宗教にも属してはいない。
しかし、死そのものを、もっと議論または発信しても良いと思うのです。
それが「生きる事」にも繋がるとは思うのです。
その上で、各々の判断や準備をする事があっても良いと思えるのです。
死が自分にとってどういうモノなのか。
心の準備をする事は大切であり、
自分の考えと、
他者の経験や考え方との議論がもっとあっても良いと思えるのです。
そしてそれは、双方向的かつ、
自身の経験や、広い視点で客観的に、
老若男女の様々な立場の多くの参加者と共に、
議論を成熟させていく必要があると思えてならないのです。