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旅する骨董屋 喜八

チベット圏を中心にアンティークや古民芸・装飾品を旅をしながら売買する喜八の、世界の様々な物や人その文化を巡る旅のブログ。

僕らは死について語る必要がある。

2025年04月10日 | 日記




僕は死の議論をタブーとしていないです。

このテーマを書くという事は、
世間の怪しげな商売やスピリチュアル系と勘違いされ、
ヤバイ人と思われるかもしれない。

始めに言っておきますが、
それらとは僕の意図は全く異なります。

あくまで日本での
『死に関しての議論の必要性』
を言いたいのです。

興味のない方はスルーしてくださいませ。
真面目に書きたいと思うのです。

--

厚生労働省が公表している資料を見た。
令和5年(2023)人口動態統計月報年計(概数)の概況
という長い名前のページである。

添付されたPDF資料の、
第七表「死亡数・死亡率(人口10万対),
性・年齢(5歳階級)・死因順位別」にあった重要な項目である。

下記の順位は僕にとって驚く結果報告であった。

第一位
10〜14歳、15〜19歳、20〜24歳、25〜29歳、30〜34歳、35〜39歳

第二位
40〜44歳、45〜49歳

第三位
50〜54歳

上記は年齢別の死因の順位である。

では死因は何であろう。

答えは「自殺」である。

年齢別の死因である自殺の順位(男女総数)です。

10歳から39歳の死因(死亡数・死亡率)の、
一位は自殺なのである。

信じられない結果です。

「概況」という資料を読んでみたら、
「年齢別死因」の項には、
90歳以上(男性は95歳以上)の死因は老衰が多く..とか書いている。
90歳以上の多い死因が老衰なのはアホな僕でも想像できる。

並列して、男性は10〜44歳、女性は10〜34歳では自殺が多く..
とかサラッと書いています。
悪性新生物(腫瘍)が多いとも分析しているが、
それはだいぶ前から広く知られた事だとは思う。

年齢別の死因で見ると自殺が上位にくるが、
全年齢での死亡者数の死因総数で見ると、
腫瘍や心疾患とか病気が多い。
若者の人数の絶対数が少ない日本。
なので、全死亡者の数だけで見ると
自殺者数は相対的に上位に来ない。
若者は病気で死ぬ確率も高齢者や中年に比べて、
少ない事も要因かもしれない錯覚と思えた。

ともかく、
40歳前までの人間の死因は自殺が圧倒的に多いのです。

数年前にも確認した、
この資料(表を含む)が僕の認識や見間違いでなければ、
この数字は恐るべき事だと実感する。

人数で言うと、2万人以上が一年で自殺で亡くなっている。

今、日本人の三大死因と言われるのは、
悪性新生物(腫瘍)、心疾患、脳血管疾患、
となっているらしいが、
そこには自殺という文字はない。

しかし、実際には自殺は統計上、多い。

また、自殺は認定されないと自殺と記載されないとも聞きます。
表に出ない実数はどれくらいあるのでしょうか。

ここで重要な事を言っておかなければならないが、
僕は決して様々な病気による死を軽んじている訳ではないです。
事故死や他の要因での死も軽んじてはいない。

自死の権利は、推奨しても否定してもいないです。

僕は「死の捉え方の議論の必要性」
を書いているだけなのです。

---

今のところ「死」というのは、必ず全員に訪れます。

仏教的には諸行無常とある様に、
一切の物事は常に変化するので、
いつかは死(または死に対する概念)は変わるかもしれないが、
少なくとも現時点では人は死ぬ。
(肉体的に死ぬが魂は...とかの意見はここでは置いておこう)

しかし、日常的な話題としては一般的ではないと思える。

一方で、著名人の死でも見られる様に、
誰かが「亡くなった後に」各々の見解や意見は爆発的に発信される。
それが自死であった場合は特に。

その反応を見ていると、
多くの人は死に間して本来は興味がある事、
または、重要な意味を持つと思えてならないのです。

それらはすぐに社会の様々な問題や話題の中に埋もれてしまい、
死に対する話題や議論はすぐに消費されてしまいます。

---

それにしても、死ってのは一体、何なんだろうか。

誰しもに訪れる事。
人によっては、
いや、前述の統計から見ても多くの人は自ら選ぶ事。

しかし、報じる事はあまりない。
戦争や疾病や事件や事故などは大々的に報じるのに。
何処かに閉じ込めておくように感じられる。

本来は、一人自ら命を絶てば大ごとなのに、
世界ではミサイルを打ち込んでいて膨大な人数の人間が亡くなっている。
その数字だけを読み上げるアナウンサー。
無機質な空気が流れる報道ニュース。

環境によっては、死は身近にあり、
環境によっては、遠くの出来事

命の意味とは何なのでしょうか。
命の価値は場所によって変わるのでしょうか。

死とは、今のところ全員に必ず来る数少ない出来事なのだが、
自身に死が現実的に感じられて初めて、
その対極にある「命の価値」を自覚する不思議な出来事。

---

何年も前、インドのバラナシ付近のガンジス川では
普通に屍体が流れていた。
その川縁には死にゆく人が集まり行き着く建物が当時は有った。

昔、僕が滞在していた聖地プリーでも生と死が混濁していた。
普通に人や動物の糞尿や屍体と共に、
日常に生と死が混濁していた。
彼らにとって生と死は、
日常生活の延長線である様に感じられて、
僕は感情と価値観に影響を及ぼした記憶がある。

.

また、ネパールのチベット圏で、
コルラ(巡礼)する人々を眺めながら、
チベット人の友人が言った言葉を思い出す。

「彼らは死ぬ準備をしているんだ」と。

チベット仏教的には輪廻転生という考え方があり、
それを信じるか否かは個々の自由なのだけど、
しかし少なくとも彼らは死(または生)という事を、
日常的に触れているのだと思える。

時として、ヨーロッパでは自死を容認するか否かの議論がある。
勿論、彼らにとっても繊細な話題でもあるとは思うし、
宗教上な事や道徳観まで幅広い議論が必要だろう。

フィンランド人の旅行者と、
海外で一緒に酒を飲んだ事があるが、
彼もまた「僕の国では自殺の話題はタブーだ」と言っていた。
北欧では自死が多いと以前から聞いていたが事実のようだ。

---

日本では、時として、自死の権利の主張が微かに出ては消えていく。

上記の正式な統計上の数が多い自死。

そして、全ての人に今は必ず訪れる死。

本当は、これらの議論はタブーではないと思えるのは僕だけだろうか。

自死が多い今の日本の現実。
高齢者大国でもある日本。
問題が山積みな日本

死に関しての議論、自死の賛否など、
公で広い範囲で一般的に論じ合う事は後回しになるのかもしれない。
答えも出ない死の事を議論するより、
日常生活に直結する話題を優先する事は当たり前だろう。

または、生の側の人間が無意識的に
「拒否反応」に近い感覚を覚えているからかもしれない、
とも個人的には思えるのです。

今、日本で見られるのは、各々の心の悩みの相談等の対応であり、
死そのモノに関して若い時から広い範囲で、
論じ合われてはいない様に思えるのです。

個人的に「命の電話(悩みの相談電話)」を開設した人が居ると聞いたが、
今、その電話は鳴り止まない、と聞く。

日常生活が充実すればするほど、人ってのは死を忘れてしまう。
老後の生活は気にするかもしれないが、
果たして、日常を生きる人々は、死を意識するのだろうか。

もし、普段から頻繁に死に関して口に出してら
「アイツ、メンタル大丈夫?」と思われるだろう。
もしくは「お前、ヤバめの宗教に傾倒しとるのか?」と
心配されてしまうかもしれない。
だから、この話題は普通は避けるだろう。
因みに、僕はいかなる宗教にも属してはいない。

しかし、死そのものを、もっと議論または発信しても良いと思うのです。

それが「生きる事」にも繋がるとは思うのです。

その上で、各々の判断や準備をする事があっても良いと思えるのです。

死が自分にとってどういうモノなのか。

心の準備をする事は大切であり、
自分の考えと、
他者の経験や考え方との議論がもっとあっても良いと思えるのです。

そしてそれは、双方向的かつ、
自身の経験や、広い視点で客観的に、
老若男女の様々な立場の多くの参加者と共に、
議論を成熟させていく必要があると思えてならないのです。




10周年を迎えられました。感謝

2025年04月08日 | 日記




おかげさまで、
この仕事をプロとして一本でやってきて、
10年の節目を迎えられました。

僕の品物を買って頂ける方々、
お声を掛けて頂ける方々、
興味を持って頂ける方々、
家族や友人

世界各地での
多くの出逢いや、
素晴らしい風景

偶発的かつ必然的な
不思議な出来事

言葉では表せない、
美しいモノの数々

文字では表現できない、
美しい旅

それら全てに助けられて、
今、僕は
生きさせて頂いております。

それらがなければ、
今ごろ僕はどうなっていたか分かりません。

生きているかどうかも怪しいです。

嬉しい事も、
きつい事も、
悲しい事も、
笑う事も、
怒る事も、
お金の無い事も(今も)、
ありました。

それら全てを経て、今の自分が在ります。


僕を嫌いな人も居るのは、
僕の「人に嫌われる才能ゆえ」でしょう。

でも大丈夫です。

僕を嫌いな奴を、
僕は100倍嫌いです。

僕を好きな人は、
あなたが思っているより
僕はあなたを好きです。

.

単なる金銭売買に退屈さを感じて、久しいです。

何処かの空へと長い旅がしたいと思いますが、
常に、まだ見ぬ美しい物語を求めている自分がおります。

旅の中毒者であると共に、
古い物の中毒者である自分には、
自分の人生とは、
切り離せない事なのでしょう。

.

この世界で関わる事ができる、
この世界で繋がる事ができる、
人とモノと旅

それらに面白さを感じてやっております。

全ての物事に、
心から感謝しております。

10年分の感謝を込めて、
ありがとうございます。


喜八





人の振り見て、我が振り直すで候

2025年03月31日 | 日記




先日、登山用品店に行きました。

行き先は、本気系の登山用品店。
多店舗展開するチェーン店ではなかったです。

僕は靴を見ていたところ、
その横に小柄な年配の女性が来て、

「これ、散歩で履きたいの」

70代と思えるその女性は、
そう言って展示されていた靴を店員に聞いてました。

中年の屈強そうな店員は返します。

「これは、散歩で履くには勿体無い靴です」と。

そして、
その年配の女性に対して、
リスペクトを欠いた言葉を並べます。

・・あら、やだ。だいぶ上から目線ですね。

僕は横目で見て思いました。

日本の山岳会系や、山屋と呼ばれる人々の間には、
過度な上下関係や、
謙虚さを欠く態度が見られるのは、
よく聞く話だ。

プロのアスリート以外では、
山を本気でやればやるほど、
時にはそれらは顕著らしい。

僕自身もアンナプルナ近隣で、
日本人の年配者の山岳会系の団体に出会い、
その傲慢さに距離を置いた経験もある。

山小屋で、同じ日本人だと分かった途端、
初対面でタメ口で酒を勧めるなよ。

僕は速攻でタメ口で断りましたが。

それはさて置き、
その登山店の店員は、
ネルシャツを着た、その女性を見下してました。

しかし、彼女が聞いていたのは、
アルトラのローンピーク9+に関してです。

山をやらない普通の年配の女性は、
その靴の事を聞きませんし、
知らないでしょう。
そもそも、そのお店には来ません。

店員はその時点で見抜くべきでした。

山の経験がある人だ、と。

女性が言ったその「散歩」とは「低山を楽しみたい」を表すと。

結局、その女性は、会話の中で、
経験豊富な昭和の山好きだと判明し、
店員の態度はガラッと変わりました。


また、反対側の隣では初心者とおぼしき若い男性に、
すっごい雑な対応をしている別の若い店員さんも居ました。

「あー、靴の保存はですねー、靴箱にしまっておかないで〇〇」

とかボソボソと小馬鹿にするような対応です。


山を愛するがあまり、
接客にも横柄さが滲み出す時もあります。

山道具屋あるある、かもしれません。

ある意味、店側の気持ちも、
個人的には分からなくはありません。
山は最悪は生死に関わる事故もあり、
特に昨今は山ブームですし。


僕は思います。

これはイカン、と。

僕はどうであろう。

僕は販売時に失礼な態度をとっていないだろうか。

販売に置いて、売り手の態度は重要です。

それを改めて思いながら、
居心地が悪くなり(山はド初心者なので)、
買い物をせずに店を後にしました。

--

僕に対して、謎のマウントを取ってくるメッセージは、
珍しい事ではありません。

最近は少なくなりましたが、
以前は骨董市でも、
すっごい上から目線で話してくる人もおりました。

つまりは、
「お前より知っている」と
彼ら彼女らは言いたいのでしょう。

「なんだよもー、ぷんぷん」

そう思ってました。

昨今のSNSでもそれらの自己承認欲求で溢れております。
自分を優位な立ち位置にしたい言葉で溢れております。

僕に対しての内容は、
チベットのアンティークや、
チベット仏教文化圏での事、
旅の経験に至るまで様々です。

それは、購入の意思や、
物語の共感があるのではなく、
単に、彼ら彼女らは、
自分の優位性を強調したいだけかもしれません。

現実世界というのは奇妙なものです。

僕は表向きの言葉ではなく、
本質を見たいのです。

一方で、販売を仕事とする以上、
多くの方との出会いや会話、
多くの場面を経験します。

多くの方々から、
色々な事を学ばせて頂いております。

その場面場面や、販売時に、
僕は無自覚なうちに失礼な態度はとっていないだろうか。

僕は思った事を直接口に出す性格です。

しかし、
どの業界であれ、
いくら経験しても、
専門知識を持っていても、持っていなくとも、
お金があろうが無かろうが、
どんな立場の違いはあろうと、
僕らは同じ人間であります。

お互い、尊敬をし合うべきだと思えます。

良い方々には、
可能な限り真摯に向き合い、
謙虚さを忘れずに努めたいです。

上述の登山店の店員を見て、
自分を戒めようと改めて感じております。




猫と犬とアタシ

2025年03月28日 | 日記




僕は、ぷにぷにの感覚が好きです。

動物の。

近所にハチと名前の猫がいる。

額の模様が八割れしてるのに由来するらしい。

このハチ、
日中は外を自由に散歩して、
夕方頃に自宅に帰る。

街路樹に登って、
人間を見下ろしてたり、
ニャーと鳴き、人間の気を引いている。
助けようと誰かが寄ると、
サッサと自分で木から降りる。

ハチは自由だ。

道端で出会うと、
「ハチ〜」と呼ぶと寄ってきて、
その、ぷにぷにした身体を触らせてくれる。

たまらーん

猫の後頭部は
神が創りし芸術だ。

.

また、近所にフレンチブルが居る。
白いフレンチブル。

散歩している時に出会うと、
触らせてもらう。

人間が大好きらしく、
ブヒブヒと言って遊んでくれる。

僕は、ぷにぷにの顎周りを触りまくる。

たまらーん

動物のぷにぷに感って何故、
あんなに愛らしいのか。

人間の中年のたるんだ顎周りなど、
絶対に触りたくはない。

.

古代エジプトでは猫神も居たそうだ。

コペンハーゲンの美術館には、
紀元前7世紀の猫の姿の神の像も残されている。
・参考:National Geographic
・正確には、
初期は雌ライオンの頭部姿の女神バステトで、
猫の姿になったのは紀元前1000年頃らしい。

日本でも狼(オオカミ)を祀った神社は存在し、
古来より大口真神(御神犬)として神格化され、
聖獣とされていたと聞く。

ちなみに、狼はイヌ属の哺乳動物。

仏教では、六道輪廻で人間以外の動物は、
畜生とされ、
畜生道は人間より下位に位置しているが、
僕はそれには同意できない点がある。


ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーも、
背に翼をもつ姿で描かれている。

古の文化では、鳥やライオンなど、
神格化した動物が見られるのは、
人間は動物に対する憧れがあったと思えるのは
僕だけだろうか。

人間は自然造形の完成度に置いて、
動物の有する美しさを必要としているのです。


全ての動物は、美しく強く逞しく。

そして、無限に純粋で愛らしい。


イギリスには、
首相官邸ネズミ捕獲長のラリーという猫がいて、
2024年のイギリス総選挙前の、
ラリーの好感度は44%で、
首相(当時)リシ・スナクの22%、
最大野党の党首キア・スターマーの34%を上回った、とある。

人間の政治家より、
猫の方が人気があるのだ。


日本の公邸や国会にも
猫を座らせておくべきである。
クソな政治家より遥かに役に立つだろう。



犬猫 LOVE




そうか、あの人はもう。

2025年03月24日 | 日記




先日、知人が亡くなった。

親密な関係ではなかったが、
長い長い付き合いだった。

その知らせを聞いた時には、
僕はショックを受けた。

昨年、偶然会った時には、
笑顔で話してたっけ。

ちょっと辛そうだったな。

そうか

あの人とは、もう二度と会えないのか。

そう思うと、
漠然とした悲しみが込み上げた。

.

人生ってのは、あっという間だな。

話したい人とは、
話せるうちに
話しておきたい。

会えるうちに
会っておきたい。

さよならを
言われるより、
さよならと
言う方が楽だ

.

昨日、僕は用事があり、
渋谷の街を歩いていた。

普段は絶対に避ける、
渋谷のスクランブル交差点をあえて通る。

人混みに紛れると、
気持ちも紛れる。

こんなに人が居るってのにさ。
もう、あの人は居ないんだよな。


イスタンブールの友人から
「4月に日本に行くわ」とメッセージが入った。


いく人が居れば、
くる人も居る。



人間交差点