心の御柱(こころのみはしら)

毎日、八方拝を行い、光の柱を建てましょう。

講や御師の復活を!

2013年02月20日 | その他

 

 かつて江戸時代には伊勢神宮をはじめ全国の大きな神社は講(こう)御師(おし)といった神社外部の組織に支えられていたものでした。伊勢講とか諏訪講とかいって、地方にいる崇敬者達が、今でいうサークルのようなものを作り1年に一度くらい巡礼の旅に出るわけです。それをお世話するのが、神社の周辺に住む御師さん。今で言う旅行ガイド兼神社の御神徳(ごしんとく)を説いて全国を回る神社の宣伝役のようなものでしょうか。伊勢神宮が幕末には全日本人が知ることになったのも御師さんのお陰であったでしょう。また、御師さんが地方でを作ることを積極的に勧めて、今、全国に散らばる有名神社の分社なんかは、このが母体となって地元でも神様をお迎えしたいからと、創設されたものも結構あります。

 

 残念ながら、御師のシステムは明治に入って神道が国教化されるに当たり廃止され、もほとんどが解散の憂き目に会いました。そして戦後、信教の自由のもとに多くの新興宗教が設立されましたが、やはりこれなどはが果たしていた日常生活における緩やかな宗教活動にとってかわり、心の支えが希薄になった部分を埋める役割もあったことでしょう。

 

 ですが、この御師のシステムと新興宗教の決定的な違いは、その組織の在り方です。新興宗教の場合、一部例外を除いてほとんどが、教祖を中心としたピラミッド型の組織です。そこでは教祖の発言は絶対で役員も下部に行けばいくほど本部の意向に逆らうことができません。また他の宗教団体に信者が移行することを極端に嫌う、完全なクローズした組織体系なのです。

 

 それと比べると御師のシステムでは、御師さんの神様への解釈には、その人独自の考えを反映させる余地もあり、またの参加者も何種類も掛け持ちしても、いっこうに差し支えないわけです。

 

 本部中心の締め付けのきついピラミッド型組織緩やかなネットワークによるオープンな組織。二つを見比べると時代はどちらに向かっているか一目瞭然です。今や企業においても前者のような組織は完全に機能不全に陥りつつあり、今多くの旧態然とした大会社が崩壊しつつありますね。現代のようにネット社会に移行するということはテクノロジーだけでなく人々の考え方や行動パターンもネットワーク型になっていくのです。そういう点で、今、選挙のときに大々的に活動しているような締め付け型の宗教組織は、今後、恐竜のように滅んでいく運命にあります。まああと20年はかかるので、時代の反動でそういう団体が前面に出てくるようなこともあるかもしれませんが、大きな時代の流れには逆らえないものです。

 

 21世紀に日本人が豊かな精神性をとりもどすためにも、この御師のシステムの復活は必要でしょう。もちろん装いも新たに出てくるかもしれません。臨床心理学を導入して巡礼の旅に癒しの要素を取り入れたり、宿泊施設とのタイアップで町おこしと組み合わせたり。SNSでを組織したり。いずれにせよ、江戸時代に日本人はかなり先進的なシステムを構築しており、これをリニューアルすればいいわけです。緩やかな宗教性、これこそが日本人の特性なんだと思います。

 

毎日、八方拝十一方拝を行いましょう。

 


御神木を枯らすと

2013年02月07日 | その他

 

 最近TVでも報道されていますが、四国などで神社の御神木をわざと枯らして買い取る業者があるようですが、本当に哀れな輩で、その後どのような人生が待ち構えているか解っていないのでしょう。御神木にそのような行為をした連中に待っているのは倒産のみならず、命も取られることになるとは、後から悟ることでしょう。ただ可哀想なのはその家族で、たとえ何も知らなくても神罰が及んできます。このあたりは現代の法律からすると、理不尽なようですが、目に見えない世界の法則は古来から一貫して一族全体で責任をとらされるものです。

 

 昔なら、地域の古老がかつてあった罰当たりの話を伝えていたもので、人は畏敬の念を自然と持ったものでした。業者の連中は神なんか存在しないと思って行為に及んだのでしょうが、最悪の形で神の存在を知ることとなるでしょう。

 

 京都の新しいマンションやビルの一角によくお地蔵さんがあるのを見かけます。最近ではコンビニや、はたまたラブホテルの一角にまでありますが、これは建設予定地にもともと祠があったからで、うっかり退かすと災いが及ぶことを、地主さんも建築業者さんも経験から良く知っているので、また丁重にお祭し直すのです。

 

 バブル景気に日本中が湧いた頃、よく悪徳不動産業者が神社の神主さんに働きかけて、騙して境内地の一部を売りはらったり自分の名義に替えたりという事件が、京都でも少なからずありました。まあ、騙される神主さんも悪いのですが、一般に神主さんは世間知らずの方も多く、業者に夜の接待なんかを受けるとついつい気を許してしまったのでしょう。京都は、わりと狭い社会なので、噂でどの業者がやったかも、すぐ耳に入るのですが、でも不思議なほどそういう業者は全て倒産、それだけでなく当人の突然の事故死や重病、家族にも変死が相次ぐなど、神罰ははっきりと他人にもわかるほどでした。まあ、こうなると「神何するものぞ」と強気だった業者も藁をもつかむ思いで霊能者のところに走ったりするのですが、もちろん効果あるどころか、食い物にされて終わりです。まさに自業自得とはこのことでしょう。

 

 神社に関してこれほどまでに、神罰が強いのは、それほど神社という場所が、どんなに寂れている神社も、聖地として非常に重要だからなのでしょう。地域の運命はもちろん、個々の神社の集合体が日本の運命を司っているわけです。ですから四国なんかで御神木を枯らしている業者は、日本全体の国運を低下させていることになります。古い御神木は樹齢数百年とかになるでしょうから、本人はもちろん、子孫の三代先いや七代先まで影響が及ぶでしょう。改心されて、残りの人生は枯らした神社は勿論のこと各地の神社に植林をされるべきです。

 

 神罰があるということは、逆もしかりで、神社のためにいろいろお世話することは、これはもうお陰がたくさんあるわけです。京都にたくさん神社があっても経営が楽なのは全国的に有名な大きな神社だけです。小さい神社は神主さんが平日は会社員とかされながら御奉仕していらっしゃるのですが、どこも経営は大変です。亡き父の話になりますが、父は生前こういう小さな神社二社ばかり経営が成り立つよういろいろお世話をしていました。小さいながらも父の会社はオイルショック、バブル崩壊も、数々の助けがあり無事に乗り越えてきました。やはりお陰があったと考えざるを得ないのです。

 

毎日、八方拝十一方拝を行いましょう。