憲法改正反対!国際法違反の現行憲法凍結!大日本帝国憲法再生!

いろいろなブログを貼っていくつもりです。
いわゆる、「他人のふんどしで相撲を取る」他力本願寺ですね。アニメ、特撮

三沢基地壊滅

2016-08-08 20:05:06 | 拡散希望
農と島のありんくりん〜さんのブログです

http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/610475/515571/85674300

引用


お分かりでしょうか。ノドンの着弾地点の先には、空自と米空軍が共同使用している三沢基地があります。

米空軍がこの三沢に基地を構えている軍事的理由は、北朝鮮とロシアの沿海州側に対しての抑えです。

つまり、北朝鮮はこう言っていることになります。

「おい、日本人。オレたちはいつでも自由な時に、自由にお前らに核ミサイルを打ち込めるんだ。今回は三沢の米帝の基地で試してみたが、今度はどこにしようかね」



引用以上



マスコミはどこも、朝鮮民主主義人民共和国の「飛翔体」が日本領海近郊に着弾した事は報道しても、それ以上は言わないのです。

人体実験

2016-08-08 19:02:11 | 拡散希望
農と島のありんくりん〜さんのブログです
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/610475/515571/85686048

引用

1945年8月6日午前8時15分、広島市島病院上空で何があったのかをみていきましょう。

上空580メートルで炸裂した原爆から照射されたガンマ線、中性子線を中心とする高エネルギーの放射線は、直下の人々の頭上に降り注ぎました。TNT換算で15キロトンでした。

その結果、当時の広島市の人口35万人(推定)のうち約半数に当たる9万から16万6千人が被爆後2カ月から4カ月以内に死亡したとされています。

ではなぜ、この広島に原爆が投下されたのでしょうか。もちろん韓国中央日報キム・ジン記者が傲岸に言うように「神の懲罰」などではありません。

1945年(昭和20)年6月の検討会議で、原爆の使用については、「労働者の住宅に囲まれた軍需工場に、事前の警告無し」で投下すべきだと決定されました。

この会議では開発に携わった科学者の一部から無警告の原爆投下に反対する発言が相次ぎましたが、結局押し切られてしまいました。

後に、これに関わった多くの科学者は終生、良心の咎めを受け続けることになります。

実際、当時の我が国には継戦能力はほとんど失われており、政府、軍部内にも和平を模索する動きが強くなってきていました。

軍事的に見ても、まったく広島・長崎への2発の核攻撃は不要なものだったのです。

もし軍事的な攻撃目標が必要ならば、広島の近隣にある呉軍港を標的にすればいいのであって、非戦闘員が大部分を占める都市に対しての核攻撃にはいかなる正当性も見いだせません 。

百歩譲って軍事的圧力により日本を降伏に追い込みたいのならば、後にさんざん核実験をしたような無人島で実験してみせればいいのです。それだけで、当時の日本政府は降伏を決意したでしょう。

米国は、大戦の後にくるであろう対ソ戦に備えて核兵器の実戦データを欲していました。砂漠などの実験では威力が読みきれなかったからです。

ですから、現実に人が大勢住む都市で、無警告に落としてみる「必要」があったのです。このようなことを人体実験といいます。

広島・長崎合わせて約21万人の犠牲者は、生きながらにして人体実験に供せられたのです。

言う必要もないですが、非戦闘員の大量殺戮だけを目的とした明白な戦争犯罪です。

これを戦争犯罪と呼ばなければ、なにを戦争犯罪と呼ぶのですか。

「だけ」と書いたのは、先程述べたように広島市には師団司令部があるのみで、軍事目標は皆無に等しかったからです。



引用以上


日本人は虐殺しても構わない。当時の米国首脳はそう考えていたと思います。

ソ連が参戦するという情報を得たからこそ、その後に世界戦略を優位に進めることを目的として、原子爆弾を広島、長崎に投下しました。




五輪と人民戦争

2016-08-08 18:10:41 | 中華人民共和国
農と島のありんくりん〜さんのブログです

http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/610475/515571/85699833

引用

これが中国特有の「人民戦争」戦術です。

「人民戦争」という言葉は聞き慣れないかもしれませんが、毛沢東が定理化したもので、正規軍だけが戦うのではなく、「人民を組織し、人民に依拠して戦う」という戦争のやり方です。

なんのこっちゃと思われるでしょうが、今の全世界でISが仕掛けているテロを思い出して下さい。

ISには正規軍もいますが、それ以上に私服を着て一般市民のような顔をしたテロリストがいきなり爆弾を投げたり、機関銃を乱射しますね。

それも政府や軍の施設ではなく、一般市民の生活の場でそれをやります。

パリ同時テロやバングラディシュのテロなどが典型ですが、あのような世界中のテロリストの教典を作った教祖が、実はこの毛沢東という男です。

中国は軍が近代化するに従って、人民戦争戦術からだんだん離れて行くようになりましたが、どっこいゴリゴリの毛沢東主義者を自認する習近平は、この人民戦争戦術を手放そうとはしていません。

まずは、現在の21世紀初頭という時期を中国はどう捉えているのか知っておきましょう。

参考になるのは、毛沢東の「持久戦論」です。

「持久戦論」は戦争を三段階に分けています。

第一段階は、圧倒的に近代化が進んだ日本に対して、経済的にも遅れて、軍事的にも弱かった頃の時期で、これを「戦略的防御」の時期と考えました。

そして第二段階は、ホントかウソか知りませんが、とにもかくにも世界第2位の経済大国になり、ジャブジャブと軍備に金をかけられる段階に到達したただ今現在、と中国は認識しています。

しかし、日本やその同盟国の米国相手に戦って必ず勝つという確信まではありません。

ですから、この時期を「戦略的対峙」の時期とします。

ちなみに、この第2段階で、彼我の力関係を逆転すると第3段階の「戦略的的反攻」時期になります。

それぇ、行けぇ、という大号令がかかるというわけです。

現在の戦略的対峙の時期には、敵が最も危険だと感じているところや、弱いところに向けて行動を起こし、敵を弱体化し牽制します。

つまり鼻面をかき回して苛立たせるのです。

先日ご紹介した毛沢東語録がいう、「 敵進我退、敵駐我攪、敵疲我打、敵退我追(敵が進めば退き. 敵が止まれば撹乱し. 敵が疲れれば攻め. 敵が退りぞけば追撃する)」のうちの「敵駐我攪」の時期です。

この第2段階の時期のキモは、大きい力を集中して敵の小さい部分を攻撃することです。

尖閣海域侵攻の場合は、圧倒的多数の漁船を集めて、それを護衛させる形で海警を大量投入します。

つまり中国流にいえば大量の民間漁船という「人民の海」に紛れ込んで、彼らを侵攻させ、日本の弱点を叩くという仕掛けです。

もちろん、この漁船に乗っているのはただの漁師ではありません。

「今回も漁船に乗り込んでいるのは「射撃などの軍事訓練を受けた漁民」(中国軍事研究者)で、中国当局や軍の意を受けて動く民兵の一種とみられる。」(産経 同)

この漁民に似せた中国の民兵のことを、中国は「海上民兵」と呼んでいます。

これは陸軍の民兵の海上版です。



引用以上





日本としては、中華人民共和国の「戦略的的反抗」を何としても阻止しないといけないと思います。230隻もの「漁船」が尖閣諸島の排他的経済水域に出没する現況の意味を、日本人全てが認識して欲しいと思います。

お言葉

2016-08-08 16:05:01 | 拡散希望
戦後70年という大きな節目を過ぎ、2年後には、平成30年を迎えます。
私も八十を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。
本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。

即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

そのような中、何年か前のことになりますが、2度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。

私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。

始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。 
国民の理解を得られることを、切に願っています。