快談爺流離日記

思いの儘に記す自然を好み手近の被写体を撮り歩く暇爺。

重原三井戸「佐治次兵衛井戸」

2010年09月29日 09時34分48秒 | 公園・風景・その他
昨日下り松川から薬師川を散歩し・・・予てから気に留めていた、重原弘法大師霊場「佐次兵衛井戸」へお参りして見学に行ってまいりました。毎年彼岸花の咲く頃には行っていますがお参りして拝観したのは初めての事です。
佐次兵衛井戸の場所は三つ又橋北西に位置して田圃と畑の中に有り、農道で徒歩でなければお参りも出来ない場所です。

重原三井戸と言うのは、乞井戸(こ)・佐次兵衛井戸(さじヘえ)・慕井戸(した)と呼ばれる3つの井戸があり弘法大師が重原を訪れた時、
飲み水に困っている村人のために、祈って杖で土地に穴をあけると清水がこんこんと湧き出たという伝説の井戸が三つあります。

  重原弘法大師三つ井戸 縁起

そもそも当地に遺る三つ井戸の由来を案ずるに、人皇五十二代嵯峨天皇の御宇、弘仁13年6月(822年)大師四十九歳の御時富士権現にご参詣の帰途、重原の里へ巡鍚あらせられし折、しきりに渇きをおぼえて、とある家に立ち寄りあらせられ、水を請わせ給いける。

老翁即ち家の裏手に行きしばらくして冷水を汲みて奉りしに、大師こはよき水なりとご賞味あらせられ、尚問い給うに、今汝の水汲み来る事の餘りに遅かりしは何故にやと仰せらる。
老翁答えて当地は土地高きが故に井戸深く、綱釣瓶によりて汲むより外せん方なければ、甚だ手間のかかりてかつ難儀の由申し上げたり。

大師は、そは定めて困ることならむ、我汝に良き水を近くに得させんと、家の前のやや低き所におり立ち、しばし瞑目して加持し給い、杖にて大地に穴を穿ち給うに、忽ち玉の如き清水滾々として流れ出でにけり。

老翁随喜の涙にむせび永くご留錫を請い三十七日の間お溜りあらせられ、その折里人の請いにまかせ、他に二つの井戸をお授けあらさられる。口碑に遺る「乞井戸」「佐次兵衛井戸」「慕井戸」即ちこれなり。

その後星移り年変わるにつれて人家も多くなり、水を汲む術も講ぜらるるに至りしより、各戸毎に井戸を設けしため、大師の井戸は徒に荊棘の覆うところとなれり。

今回かかる由緒あるご遺跡の廃滅に近き有様を嘆き、その地を清浄にして尚小宇を建立して大師の尊像を安置し、永くその御徳を伝え奉らんとす。

希はくば十方有縁の輩よ、大師の霊場に詣りこの霊水によりて心垢を洗滌せられんことを。

   三河国  
        重原弘法大師三井佐次兵衛井戸  執事


「寿覚山・ 浄福寺」山門左脇に弘法大師の御尊像は「三井戸弘法堂」として祀られ一応寺預かりと言う形になっている。

乞井戸、慕井戸は民家の土地の中にあったり、池のそばにあったたり詳しい場所は定かではない。
二つの井戸は乞(こ)井戸は重原本町、慕(した)井戸は一色町にあると、刈谷市教育委員会の案内碑に記されている。

1~3画は、佐次兵衛井戸弘法大師霊場として守られている。

4画は、井戸の蓋を開けて撮影して来て現時点でも水は満々としています。(1188年前の造り)

5画は、刈谷市教育委員会の案内碑、

重原三井戸「佐治次兵衛井戸」の画像

重原三井戸「佐治次兵衛井戸」の画像

重原三井戸「佐治次兵衛井戸」の画像

重原三井戸「佐治次兵衛井戸」の画像

重原三井戸「佐治次兵衛井戸」の画像