26.5. 諦めないフビライ
フビライは日本を属国化することを諦めていなかった。
フビライは遠征軍の首脳部を叱責した記録がない。
「優勢に戦っていたが、敵の抵抗が予想より強かったので一旦、休んで出直そうと船に戻ったら、嵐に遭ってしまい、大被害を受けた」というような報告でも首脳部はしていたであろう。
フビライも「それじゃ、仕方ないか。まぁ今回は4万の兵隊しか送らなかったからなぁ。ちょっと、日本を甘く見すぎたか」といったかもしれない。
建治元年(1275年、至元12年)2月、フビライは杜世忠を正使とした通訳を含め5人の使節団(第7回目)を派遣する。
4月15日使節団は九州ではなく、長門国室津(下関市豊浦町)に上陸した。
使節団は、一旦大宰府に送られ、8月に鎌倉に送られた。
北条時宗は使節団を、9月7日龍ノ口刑場(江ノ島付近)において、杜世忠以下5名を斬首に処した。
外交使節を殺すという異常な出来事である。
これは、使節団から日本の内情が元に漏れることを防ぐことと、日本の決意を固めるという目的があったという。
侵略を仕掛けてくる相手に、情報を与えることの危険性を理解していたと思われる。
実は、蒙古(元)はチンギス・カン以来、周到すぎるほど周到な計画性をもっていた。
外征に先立ち、自軍に対しては徹底した準備と意思統一、敵方については、これまた徹底した調査と調略工作をおこなった。
これは、2年間ぐらいかけて準備し、できれば、戦う前に敵が崩れるか、自然のうちになびいてくれるように仕向けた。
しかし、フビライは日本を甘く見ていたのか、それほど用意周到ではないようである。
<矢田一嘯画伯 使者を斬首する画>
高麗遠征計画
文永の役で元軍を撃退したにもかかわらず、直ぐにまた使者を送ってきたことは、先の敗戦をいささかも気にかけていないのではないかと、時宗は思った。
そして、今度は日本を容赦なく属国にしようと思っている、と感じた。
また、第7回目の使節団が九州ではなく長門国室津に上陸したことは、今度は長門・石見の海岸から攻めてくるのではないのか、使節団はその偵察のために長門に上陸したと疑った。
「負けるわけにはいかない」と時宗は思った。
幕府内では、元が攻めてくる前に先手を打とう、という構想が出てきた。
つまり、日本侵攻軍の拠点になるであろう高麗を先に制圧し、ここで元の遠征を阻止しようというのである。
建治元年(1275年)11月、金沢実(北条家一門)が異国征伐のために鎮西に下向した。
さらに翌月には安芸国の守護である武田信時に異国征伐に関する関東御教書が出された。
これには、「明年3月を目途に異国征伐を行うこと、鎮西で水手が不足した場合には山陰・山陽・南海各道から調達するため、御家人・本所(公家領・寺社領)を問わずに水手を募って博多への派遣準備を進めるように」ということが書かれてあった。
準備は着々と進められたが、突然出兵計画は中止となる。
これは、本来鎌倉幕府の支配が及ばない筈の本所にも動員がかけられたことに対する抵抗で、戦力が思うように整わなかったこと、それと同時に行われていた博多湾での石塁構築に多大な費用と人員を要したことから、一方を諦めざるを得なかった、といわれている。
しかし、この計画を中止した大きな理由は、
戦に一番重要な兵站(兵や物資の補給、戦闘施設の構築)を考えると、待ち受けて戦うほうが有利である。
と考えたのではないかと思う。
恐らく、高麗を攻めていたら、日本軍は元の二の舞になっていたに違いない。
これも、歴史の曲がり角の一つであった。
防衛体制の強化
北条時宗は、防衛体制の強化に全力を注ぐ。
次は、前回より格段に大量の兵を送ってくると考えた。
元軍は騎馬の力で、世界征服を実現している。
だがいくら、兵力が多くても、騎馬戦が強くても、上陸できなければどうにもならないだろう。
この戦に勝つには、徹底して敵の上陸を防ぐことである。
時宗は、前回の戦の経験から学んだ次の対策を実施した。
1.新たな武士の導入
文永の役で戦ったのは鎌倉幕府の御家人であった。
しかし、国家の非常事態であるということで、朝廷や寺社が抱えていた武士を幕府の指揮下に置くという総動員体制を引いた。
2.西国の守護を入れ替え
幕府の統制を徹底させるため、西国の守護を北条一門に大幅に入れ替えた。
この結果、九州や長門・石見に関東からの武士が増えていった。
3.異国警固番役の強化
九州北部など、元の襲来が予測される沿岸の警備を増強するため、地域を割り振り3ヶ月交代の警備を義務付けた。
有事の際は、当番でもなくてもすぐに駆けつけるよう義務化した。
4.石築地の設置
元軍の上陸を徹底して防ぐための防塁を造った。
<生の松原防塁>
26.4. 石見十八砦
その防衛体制の一環として、石見国に石見十八砦と呼ばれる砦が築かれた、という伝承がある。
「石見由来記」(文化8年(1811年)著)には、弘安の役にさいし、石見の豪族益田氏の庶家多禰兼政・末本兼通が鍋島・岩崎にそれぞれ出張りして防衛に当たったこと、石見の海岸に十八箇所の砦が築造されたことなどが記されている。
人皇九十代後宇多院御宇將軍惟康親王執事北條時宗 弘安四年辛巳八月元之賊軍襲来るの事あり、云々雖然襲来之聞有之西国津々浦々の堅め、国主郡主に至迄出張あり、益田家よりは両山道地頭多種伊豆守兼政鍋島に出張あり、濱田は末元兵衛兼直岩崎に出張有り、此時共備として 石見國十八ヶ所之砦を築き俗に是を石見十八城と云けるよし云々、
しかし、十八砦の個々の地名について、当時の資料はもとより、江戸時代の地誌類の中にも見出すことはできなかった。
長い間、その砦の場所は謎のままで、実際に存在したのかと、疑問視もされていた。
ところが、浜田の郷土史家大島幾太郎が、初めてそれらの砦を具体的に指摘した。
「那賀郡史」(昭和十年刊)、「浜田町誌」(昭和十年刊)に、次のように十八箇所の城砦を列記したのである。
これは大島幾太郎が、数々の伝承を研究して辿り着いた成果と思われる。
弘安前後石見国防備十八城砦
1、 美濃郡飯浦(小野村) 前益田領後吉見領
2、同 鍋島(高津町) 前多禰兼政、後高津長幸
3、同 久城 (吉田町) 益田領
4、同 七尾(益田町) 益田兼時
5、同 からうと(鎌手村)
6、那賀郡碇石(岡見村) 三隅領
7、同 針藻(三保村) 三隅領
8、同 高城(三隅町) 前三隅信時後三隅兼連
9、同 鳶巣(周布村) 前周布兼定後周布兼政
10、同 熱田(長浜村)周布領
11、同 岩崎(浜田松原) 益田領末元兼直
12、同 飯田(二宮村) 前伊藤氏後原氏
13、同 おとしめ(都野津町江津町和木) 津野神主
14、同 北江津 (江津町)
15、同 なら浜大火矢 (都治村黒松村) 平田宗貞
16、邇摩郡櫛島 (温泉津町)福屋領
17、同 大浦 (五十猛村)
18、安濃郡 石弩城 (鳥井村久手町) 周布福屋相持
外に周布領那賀郡ない村(美川村)に祈祷場を建つ、護国山長福寺という。
この十八の城砦はいずれも益田氏一族が所有している領地に築かれており、益田一族の領有する海岸沿いの地域の防備の責任体制を示したものである。
益田氏以外の海岸防備体制
石見沿岸で十八の城砦のない所は、益田氏一族以外の氏族の防備責任地域である。
それは、次の十六カ村であった。
安濃郡 (大田市):波根西・波根東・朝山
邇摩郡 (大田市):福浦・大浜・湯里・馬路・仁万・宅野・静間
那賀郡(浜田市、江津市): 大麻・下府・国分・川波・渡津・浅利
安濃郡 :波根西・波根東・朝山
安濃郡の波根西・波根東・朝山には、出羽氏の一族富永氏が防備にあたっていた。
「石見誌」に「弘安中石見東海岸警備ヲ富永氏ニ命ゼラレ、同族ノ此地二出シト云」と、その伝承を記している。
邇摩郡 :福浦・大浜・湯里・馬路
邇摩郡の福浦・大浜 ・湯里・馬路方面の防備は、出羽氏の一族が担当していたようである。
出羽氏には当時の事態に関する直接の伝承はないが、邑智郡君谷の地頭所に有力な支域をもち、祖式から湯里・福光に進出していた伝承がある。
邇摩郡 :仁万・宅野・静間
仁万・宅野・静間方面には宅野氏とともに佐波氏が防備を行なっていた。
「石見誌」の佐波氏系図の佐波暉連の項に、「弘安四年、幕命により筑前に赴きしが、至ればすなはち夷賊すでに去り帰国して石見東海岸の防備に任ず。」とある。
また同じく、神社の項邑智郡天津神社の条に、「弘安の役、佐波暉連出征に臨み退敵を祈る。」などの伝承があるとしている。
那賀郡: 大麻・下府・国分・川波・渡津・浅利
那賀郡内で、渡津・浅利方面の防備については、まったく伝承がない。
下府・国分・川波方面は国府の在庁官人の責任で防備を行なっていたと思われる。
大麻については大麻村折居に下居城があり、城主は下居五郎であった。
下居氏は武田信時(安芸の守護武田氏の一族)の子で、安芸から石見の沿岸防備に来援したものと思われる。
小笠原氏と吉見氏
小笠原長親と吉見頼忠が、石見の沿岸防衛に来援したとの記録がある。
(この小笠原氏と吉見氏の経歴については後で触れる)
小笠原長親が沿岸防衛した場所については明らかでない。
ただ、「沿岸警固のため石西に出張、妻は益田兼時の女美夜」であったこと、「その功により邑智郡に加封、村の郷(邑智郡美郷町)に南山城を築いた」ことが伝わっている。
小笠原氏の場合は、益田氏の防備の支援をしていたものと思われる。
益田氏との親交があったからこそ、益田兼時の娘美夜との結婚のはこびにもなったものと思われる。
従って、益田氏の支援であるから、功による加増の封地も、防備した縁の土地(益田氏の土地)というわけにもいかず、邑智郡村の郷が与えられたものと思われる。
吉見氏については「石見海岸防御のため出兵、弘安五年に石西で三百町歩の地を賜って、鹿足郡木曾野に来住した」ことが伝わっている。
吉見氏の場合は、益田一族の十八城砦のうちに数えられている高津・小野から長門阿武郡江崎方面の防備を独立して担当したために、その縁故の土地として鹿足郡内に領地を得たのである。
以上、さきに述べたとおり建治元年(1275年)に元使が長門地内に上陸したことは、幕府にとって大きな衝撃であった。
そして、これは 次回の侵攻上陸地の偵察ともとれないことはなかった。
そのため、石見国沿岸防御体制の強化に地頭たちを動員してこれにあてた。
それでも不安な地域へは他地域からの応援を命じたのであった。
<続く>