4.4. 人麻呂と渡の山
白石昭臣の、鴨山は甘南備寺山であった、という話からある妄想が湧いてくる。
鴨山が甘南備寺山であったとは言わないが、人麻呂と甘南備寺山に何らかの関係があったとすれば、面白い。
ひょっとしたら、甘南備寺山の山頂に社を作ったのは、人麻呂だったのでは?
<人麻呂、渡の山の山頂に社を造る>
人麻呂は邑智郷の郡庁矢上の行き帰りには、渡村で江の川を渡ることが多かった。
人麻呂は、江の川を渡る時いつも興味深そうに渡の山を眺めていた。
江の川を挟んで対岸から見る渡の山、岩城山、奥寺山と続く連山は威圧感があった。
その中でも渡の山の急峻な山裾の絶壁がそのまま江の川の淵瀬となっており、これが雄大な景観を作っていた。
人麻呂はある日、渡村に来た時この山に上ってみようと思った。
この山に霊気を感じたからだ。
柿本一族は山に籠もる死霊、祖霊の鎮魂と祭祀をあずかっており、人麻呂もその務めを果たす立場の者であると自覚していた。
この一族の血が人麻呂を行動させたのである。
人麻呂は、お供の者に渡村の保長を連れてくるように命じた。
(保長とは律令時代の制度で、五家相保して一人を長とし、以て犯罪や逃亡の防止などの相互監視をおこなわせた。保長はその責任者である)
保長がやって来た、坂元という男だった。
国守から呼び出されて、何事なのかと怖がっている様子であった。
人麻呂は坂元に言った。
「あの山は名は何という?」
坂元は少し考えて首を傾げて言った。
「私達は御山とも渡の山と呼んでいますが、本当の名前は良くわかりません」と答えた。
「いまからあの山に上ろうと思うのだが、誰か案内してくれないか」と人麻呂は坂元に言った。
坂元は国守の目的が分かって安心したが、すこし驚きながら、「分かりましたご案内します」といった。
坂元他村人3人が道案内と荷物持ちとして随行した。
登山口は渡し場の近くにあった。
登山道は尾根伝いに造られており、急峻であった。
登山道は何度も折れ曲がり高度を上げていく。
人麻呂はこのような山道には慣れているようで息を切らさずに一定の歩調で上って行く。
その様子を見て坂元は驚いていた。
『これじゃぁ何の世話もいらぬ、もっと面倒なことになると思ったが、拍子抜けする』
と心のなかで思った。すると、
「心配は無用じゃ、儂は山登りには慣れておる」と人麻呂は独り言のように言った。
坂元は、ビックリした。『この人は、他人の心が読めるのか!』
やはり、国守とは偉いものだ、と感心した。
山の中腹あたりは平地になっていた。
この中腹から下を見ると江の川が真下に見えた。
江の川が東から西に悠々と流れていた。
中腹から山頂までは更に急峻な坂が続いている。大きな岩が点在していた。
人が通ったような道はなく、点在する大岩の間を上ることもあった。
山頂は平地になっていたが、雑木が生い茂っていた。
麓の村人たちは中腹の平地までは来ることがあっても、山頂にはめったに来たことがないようだった。
人麻呂は山頂の平地を雑木を縫って歩き回り、頻りに何かを調べているようだった。
暫くすると、人麻呂はお供の者と坂元達を集めて言った。
「ここに、祠を造り、熊野本宮から勧請したいと思う」
突然の話に皆は驚いた。
しかし、人麻呂は皆の驚きを気にせずに言葉を続ける。
「そこで、渡村の人々でここの地の雑木を伐採し整地して社を建てて欲しいのだ。
これから2ヶ月の間に完成してほしい。
どのように整地するのか、またどんな社を建てるかは後で絵に書いて渡す。
この役務を果たすために、今後の1年間は無税とする」と言った。
2ヶ月後に再び人麻呂がお供達を連れて坂元を訪れた。
坂元が出迎え、山頂へと案内した。
登山道は少し整備されて、かなり歩きやすくなっていた。
山頂の入り口には鳥居が立っており、それに続く敷地は整地されていた。
敷地の中央に石台座があり、その上に祠が建っていた。
祠は、高さ5尺、奥行き4尺、屋根幅3尺の大きさであった。
人麻呂は祠の回りを歩いて周り、出来具合を調べ、「よくやった、神が御座すにふさわしい」と人麻呂は満足そうに坂元に言った。
人麻呂は持ってきた御神体とする鏡を祠の中に安置した。
人麻呂は「今後、村人が亡くなった時はその遺体をこの山に埋葬すればよい。そうすれば神と一体となり霊として村人の守り神となってくれる」と言った。
こうやって、山頂に社ができ、神が御座する山として、いつしか神奈備山と呼ばれるようになったのである。
以上、湧いてきた妄想を書き留めてみた。
<続く>