42.足利直冬(2)
42.2.石見銀山
「石見銀山旧記」に、石見国銀山開発の経緯が書かれており、それを以下に示す。
42.2.2.「石見国銀山旧記」
抑(そもそも)石見国銀山開起の由来を尋ぬるに、
人皇九十代後宇多院建治二年(1276年)に、蒙古の使者日本へ来しに、いか成故有之歟、
鎌倉二て彼使者を殺しける、
其後五年過弘安四年五月廿一日蒙古の軍勢弐拾四万人、兵艦四千を以日本を攻んと、九州に寄せ来る、
帝大に驚かせ給ひ、急きょ官軍を繰出し、九州二て防かしめ給ひけれ共、
蒙古勢強ふして、官軍打負しかば、いよゝ 勝に乗し、都へ攻上らんとせしに、
我国の神力に依て神々波を揚け給ひし故、蒙古の賊船悉く破れて、我国恙(つつが)なかりけり、
=弘安の役
其後人皇九十四代花園院の御宇、
在位:延慶元年8月26日(1308年9月11日)〜 文保2年2月26日(1318年3月29日)
将軍守邦親王、執権北条相模守貞時也、周防の国守大内之介弘幸鎌倉を恨むる事ありて、
謀反して軍を起し、軍兵を蒙古に請ひけるに、蒙古昔のうらみをはらさんとて、軍兵廿万騎数千艘に乗り、石州に着岸す、
将軍は守邦親王、北条貞時が執権の時、幕府に恨みがあった周防の大内弘幸は、謀反を起こして蒙古に援軍を頼んだ。
蒙古は鎌倉幕府への昔の恨みを晴らそうと、軍兵2万騎が数千艘に分乗して石州に上陸した。
貞時大に恐れて和睦をこひけれ共、弘幸聴さりし故、帝に此由申上けれハ、
帝陽録門院を弘幸の子修理大夫弘世に妻合せ、石州を賜りけれハ、弘幸やかて和睦しける、
時貞はこれを恐れ、和睦を請うたが弘幸が聞き入れなかったため帝に相談した。
帝は陽禄門院を弘幸の子、弘世に嫁がせた上、石州を領地として渡した。
依之弘幸蒙古の軍兵を帰さんとすれ共、蒙古鎌倉にうらみ有ゆへに戦を好て帰らす、
弘幸為方無けり、爰に防州氷上山に祭る北辰星ハ代々大内家の守護神たり、
大内之介に託宣して日、石州の仙山に多く銀を出す、 彼銀を取りて百済の軍兵に与へ、
宥め帰らしめよ、彼山又銀峯山ともいふ、 我応現の地なり、
故に生銀を湧し本朝の危き時を救ハんと、新に託宣有り、弘幸神のお告に任せ、
石州銀峯山に登り見れハ、山下山上皆皓々然として、冬の日白山の雪を踏か如く、
大に枠銀を得、百済の軍兵に与へけれハ、蒙古憤りを宥、悦び国へ帰りけり、
弘幸は和解に応じ、蒙古軍を帰そうとしたが、幕府に恨みがある蒙古軍は戦を続けようとして帰らなかった。
困った弘幸は、大内家代々の守護神である防州氷上山に祭る北辰星(北極星)に祈り託宣を受けた。
託宣は、石州の仙山は多くの銀を出す。
この銀を採って百済の軍兵に与えてなだめ帰らせよ。
またその山は銀峯山とも言い、我が応現の地である。
弘幸が神のお告げにしたがって銀峯山に登ったところ、山の下から上まで白く輝き、積雪した冬山の雪を踏むかのようであった。
弘幸は多量の粋銀を得て百済の軍兵に与えたところ、蒙古は怒りを鎮め、喜んで国へ帰った。
是ゟ(これより)銀峯山相続て銀を出し、大に盛んなりけれハ、隣国の大小名是を取らんと、其間を窺ひけ、是を以山吹に城郭を築て銀山を守る、
それから銀峯山は引き続き銀を産し、大いに繁栄した。
隣国の有力者達がこれを奪おうと狙ったので、山吹山に城を築いて銀山を守った。
其後建武延元の大乱に、足利右兵衛佐直冬当国を攻めて、四十八城を陥れ、銀山を押領す、此時悉く銀を取尽しけり、
此時迄ハ地を掘り、間を開事をしらさりしゆへ、上弦の鏈(くさり)を取尽し、如此山衰へたり、
その後、建武延元の大乱に足利直冬が石見国を攻めて48城を攻め落とし、銀山を押領し、ことごとく銀を採り尽くした。
その時までは地を掘って間歩を開けることを知らなかったので、地表にある鉱脈を採り尽くして銀山は衰退してしまった。
大永中に大内之介義興、当国 を領有する時、筑前博多に神谷寿亭と云うものあり、
雲州へ行かんとて、一つの船に乗り石見国の海を渡る、はるか南山を望むに嚇然(かくぜん)たる光有り、
寿亭船子に南山のあかるくあきらかなる光あるは何故やと、問いければ、
船郎答えて申すけるは、是は石見の銀峰山なりと語り伝う、
彼の峰銀を出せしが、今は絶えたり、唯観音の霊像のみありて、此の山を鎮護し、寺を清水寺と申、時々この応現あり、
此山ふたたび銀を出す奇瑞なるか、 今夕の霊光常の時ゟ十倍す、
量り知るに貴公の信心観音大王に通しけるならんと、懇にこそ語りけれ、
大永年間(1521年〜1528年)、大内義興が石見国を領有している時、筑前の博多に神谷寿亭(神谷寿禎)という人物がいた。
彼が雲州(出雲)へ向かう途中、船で石見の海を航海し、暗闇に南方の山を眺めると眩いばかりに輝く光を見つけた。
寿亭は船子に「あの山に赤く明るい光があるが、あれは何か」と尋ねた。
船子は次のように語った。
「あれは石見の銀峯山という山であり、昔あの山では銀が採れたが今は絶えてしまった。
今は清水寺という寺に観音像だけが祭られ、この山を鎮護していて、時々姿を現す。
この山が再び銀を出す吉兆なのか、今夕の霊光はいつもの10倍もの輝きである。あなたさまの信心が観音様に通じたのであろう」
寿亭大いに悦び、帆を巻、纜(ともづな)を繋ぎ、 温泉津湊に入て夫ヨリ銀峰山に登り観音を拝し奉り、
又船に乗て雲州の鷺浦銅山主三島清右衛門ニ逢て、石州銀峰山の霊光の事を物語けるに、三島是を聞いて申しけるハ、定て白銀ならんか、
弐百年前周防国主大内之介弘幸、北辰の託宣に因て、大に銀を得た事有り、今に至迄言伝ふ、
いかにも疑へからす、願くハ彼峰に登りて、銀なりや否やを試ミ、又霊仏をも拝せんとて、神谷、三島相共に大永六年丙戌三月廿日、三人の穿通子吉田与三右衛門、同藤左衛門、於紅孫右衛門を引連て銀峰山の谷々ニて石を穿ち、地を掘て大に銀を採り、寿亭皆収め取り九州に帰りけり、
是ゟして石見国馬路村の灘、古柳(古龍)鞆岩の浦へ船多く来り、 銀の鏈を買取て、寿亭が家大に富ミ、従類広く栄へけり、銀山へも又諸国ゟ人多く集りて、花の都の如くなり、
・・・・<以下略>・・・・
寿亭は大変喜び、帆を巻いてとも綱を繋いで、温泉津湊へ入港し、そして銀峯山に登って観音へお参りした。
また船に乗って雲州の鷺浦に入港した。ここで、鷺浦銅山主の三島清右衛門に会って石見の銀峯山の霊光のことを話した。
これを聞いた三島はこう言った。
「それは白銀ではないだろうか。200年前、周防の国主大内弘幸が北辰の託宣でたくさんの銀を採ったことがあるとの言い伝えがある。
その山へ登って銀であるかを確かめ、また霊光を拝みたいものである」
大永6年(1526年)3月20日、神谷寿亭と三島清右衛門は三人の大工を引き連れて銀峯山の谷々で、石を穿ち、地を掘って銀を採った。
その後、石見国馬路村の灘、古柳(古龍)や鞆岩の浦へ船が多く来るようになり、銀鉱石を買い取って、寿亭の家は大に富み、一族は広く栄えた。
銀山にも又諸国から人が多く集まり、花の都の如くなった。
<温泉津・仁摩 体験型観光パンフレットより>
写本
この銀山旧記なるものが数多く残されている。
次の画像は、そのうちの一つで、天保7年(1836年)に写し書かれたものである。
その一部を次に載せる。
「石見国銀山旧記」には色々矛盾もあり、またフィクションも盛り込まれている。
それについては、次の話で触れる。
<続く>