36.南北朝動乱・石見編
36.3. 攻防戦
36.3.1. 横山城の戦い
建武3年(1336年)5月10日上野頼兼に率いる足利方の軍勢は、美濃郡上黒谷の横山城(黒谷城)を攻めた。
横山城には美濃地黒谷地頭波多野氏の一族波多野彦六郎が拠っていたが、城は攻め落され、城主波多野彦六郎は逐電する。
高津長幸、三隅兼連の嫡男・兼雄、波多野彦六郎、難波中務入道、周布兼茂、内田兼家らの宮方が応援に駆けつけたが、攻め落とされた。
石見では益田、 小笠原らの武家方と三隅兼連を主力とする宮方の間に、那賀美濃両郡を中心に各地で合戦が継続していた。
36.3.2. 敷山城の戦い
このころ、周防の大内弘直(周防権介大内重弘の子)が河本郷の小笠原長光(小笠原長親の子)と謀り、周防国府の小目代摂津助公清尊、検非違使の助法眼教乗らと共に、周防の大内長弘(周防守護、大内弘直の叔父)、長門の厚東武実(長門の豪族)らが石見入の虚に乗じ、防府国府の近くの北方にある矢筈岳の敷山験観寺(山口県防府市牟礼)に拠って武家方反撃の挙に出た。
石見に入って宮方と相対していた上野頼兼は形勢の容易ならざるを見て、石見在陣の防長芸石の兵を率い、引き返し敷山を攻撃した。
7月4日敷山城は落城し、弘直と長光は三隅を頼って石見に走った。
36.3.3. 大山城の戦い
山内弘直らは、三隅兼連の支援を受け、益田氏の七尾城の出城である大山城(益田市金山町)を占拠した。
出城とはいえ、城を奪われた益田氏は大いに憤慨した。
7月7日、益田兼世は上野頼兼らと共に猛然と襲いかかり大山城を取り返した。
この大山城の戦いで、大内弘直、小笠原長光は討ち死にする。
大山城跡の丘陵から約1Km西方の道路脇に「大内新介弘直の墓」があり、益田市指定文化財となっている。
大山城を取り返した上野頼兼は田村盛泰らと共に宮方の中心地とも言える那賀郡に向かった。
36.3.4. 七尾城の戦い
三隅兼連は益田氏への報復戦を行う。
長男の兼知を大将にして、一族の内村地頭である周布兼茂らを率いさせ、建武3年(1336年)7月21日益田七尾城に向かった。
この時益田七尾城には大将二郎太郎兼行をはじめ、舎弟の三郎、乙吉十郎以下数千騎の軍勢が立てこもっていた。
7月21日は、折しも郷を挙げての祭りであったため、城内のそこかしこの兵舎にも酒肴が振る舞われていた。
全城がこぞって乱酔している虚をついて、七尾城に迫った三隅軍は、同城の北に当たる尾崎の大手門を襲撃した。
益田方の武将大森代大進房は、周布兼茂に首級をあげられた。
この間の消息は 「萩閥周布家文書」にうかがわれる。
<七尾城縄張り図>
<続く>