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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−55(治承・寿永の乱に関する逸話ー落人伝説2)

23.2. 平家落人伝説(続き)

 

23.2.3.程原の傳説

平教経

文治元年(1185年)壇ノ浦の合戦で平家は滅亡した。
この合戦で源義経を追い詰め、八艘飛びをさせて退かせるほど勇猛な武将が平家方にいた。
平教経(平清盛の弟、教盛の次男)という武将である。
平家の敗北が決定的となった時、教経は、「ならば、敵の大将と刺し違えん」と義経を追った。
しかし義経は舟から舟へ八艘彼方へ飛び去ってしまった。

残念・無念もはやこれまでと死の覚悟を決めた教経は「われと思わんものは組んで来てこの教経を生け捕りにせよ」と大声をあげた。

教経に組み付いたのは、土佐の住人安芸兄弟であった。
しかし教盛は安芸兄弟を左右の脇に抱えて締め付け「貴様ら、死出の山の供をせよ」と言うなり、兄弟を抱えたまま海に飛び込んだという。享年26であった。

程原にはこの教経の側室に関する伝説がある。

「平教経には教経の子を身ごもった奥方がいた。
平家滅亡を知ると、この奥方は源氏の追及を逃れ八人のお供の者と、中国山地を越え程原の地にたどり着いた。

住人はこの姫を暖かく迎え入れ、ゆうな(「他人にしゃべってはならない」の意)御前と呼び、かくまった。

程なく御前は元気な男の子を産んだ。
豪傑な青年に育ち、能登守程原入道教本と名のった。

その後、長徳寺を建立し、集落の発展に力を注ぎ、母とともに幸せに暮らしたという。」

この程原入道には
「米俵を矢の先に付けて場内に射入れ、兵糧攻めに苦しむ兵を救った」
「大きな臼を片手で持ち4里先まで届けた」
「牛の代わりに大きな鋤を引いて牛のいない農家を助けた」
など、たいへんな力持ちだったという言い伝えも残っている。

現在でもこの集落には程原入道神社をはじめ遊那(有名)御前の墓、八人塚など、伝説にゆかりの場所がたくさん残っている。

 

(邑智郡誌より)

雲・石・備三ヶ國に跨る中國山脈中の三國山の麓、四面山に聞まれ他部落を去る一里の山間に程原といふ小部落がある。

此の部落開拓の祖先は恰も九州五箇庄の如く、文治元年平家滅亡の時、 其の一族の隠遁せるものにて、古老の傳説に能登守教経の室有名御前(世を忍び本名を明かさざりし爲め、世人呼んで有名御前といひしとか)の懐妊四月なりしを、従臣輔佐して深山幽谷を越えて終に此の地に遁入し、文治元年四月男子を誕生す。

成長するに随ひ剛力強弓を好む。

出家して一寺を建て、門脇本程原入道と云ふ。其の子孫數代程原入道を繼承し、土地を開拓して農事と狩猟を職した。其の數代の墓地は部落内に散在し、何れも巨大なる自然石の墓標である。

其の子孫繁榮して現在戶數十三戸の部落をなすに至つたといふ。

初代門脇教本入道の墓石は部落の中央小高き山上にありて、其の墓石の上に社殿を造営して程原神社稱して居る。


この側室は寿永2年教経が中国地方で転戦し、備後に進入したときに親しんだ女性であろう。平家滅亡後その縁故者として追求されたものと思われる。

 

入道神社

飯石郡飯南町井戸谷に伝説にある「入道神社」がある。
もともと、この神社は山上にあったそうであるが、平成13年にこの地に社殿を移したと、由来記に記載されている。

  

入道神社由緒記

雲 石 備 三国に誇る三国山の麓、四面山に囲まれた程原は恰も九州五箇之庄の如く元暦元年平家滅亡の時、豪将能登守教経の奥方 遊那御前(世を偲び本名を明らかにせざる為 世人呼んで遊那御前)といった由 。
懐妊中で従臣達の輔佐に依り 深山幽谷を越え 山深き木地屋のもとに辿り着いた。
 
そして茲に留まり住み、やがて男の子の生を見た。
成長するに従い 父教経の血を受け剛力で剛弓、集落開拓に力を致した数々が伝 説として言い伝えられている。
やがて門脇教本程原入道と名乗り、農事と狩猟を職として現在の程原の起源をつくった。

初代門脇教本程原入道の墓が集落中央の小高い山上に在り、過ぎし年、程原集落の里人達が社殿を覆い造営し、入道神社と称し尊敬し長年に渉り春秋の祭典を続行し、程原集落の人々を始め、集落に縁ある人、又近所の村人の参拝が現在に至る。

最近集落の人達も高齢化し集落外からの参拝者も減少したので茲に協議の上、永年鎮座の山上から此の処を清浄な適地と定め社殿を移し鎮座して集落の守護神として崇敬するに至った。

平成十三年十一月吉日

 

   

   

   

入道神社に掲げられている教経が義経を追っていく板絵

 

 

社の横に墓があった。
「建暦元年卒 南無阿弥陀佛 戸田能登守教経 嫡子 教本 入道」の文字が読み取れる。 

この伝説に因んで、飯南町谷地区の飯南神楽団は平成30年(2018年)に、程原の平家落人伝説を神楽化した創作神楽「程原入道」を発表している。

 

23.3.4.田原の開拓者

治承4年(1180年)に高倉天皇の兄宮である以仁王(後白河法皇の第三皇子)と源頼政が、打倒平氏のための挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した。
しかし計画は準備不足のために露見して追討を受け、以仁王と頼政は宇治平等院の戦いで敗死、早期に鎮圧された。

これを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である治承・寿永の乱が始まる。

この乱で敗れた源頼政の家臣俵佐満国という武将が落人となって田原(現邑智郡川本町)に落ち延び、ここで開墾したと伝わる話である。

この伝説は平家の落人ではなく、源氏の落人の話である。

 

(邑智郡誌より)

田原(大字川下)がまだ連亘する高い山麓を繞って、わずか に細い各川が流れて、住む人とては更になかった時、一人の落武者が、江川を渡ってやってきた。 それは源頼政の家臣、横田氏俵佐満国という武将であった。

頼政宇治川合戦(注釈参照)に一敗地に塗れて扇芝の露となって後、部下の部将は、或は死し、或は落人となった。

落人となった者は、厳しい平家の詮議の眼の下をくぐって、各地に落ちていった。佐満国もその一人であった。彼はせまじきものは宮づかえ、武士の苦しさを厭うた。

そこで彼はこの寒村に入って、鍬を友とした。 彼の努力は漸く現われた。

現今の田原開墾の基礎は、彼によって遂げられたのであったという。 

もとより年代古く旧記は失せて今はでは、伝説として伝わっているのみであるが、それでもその後裔 なりという家系は現に三原村にあって、 祖先創業の地たる高丸は、その菩提寺浄福寺に寄進され、永く墓所掃除と年忌の弔いを受けている。 

田原という地名は、いうまでもなく俵氏の苗字 をとったのである。

 

俵佐満国が田原までやって来た理由

ところで何故、俵佐満国は石見の山奥まで落ち延びたのであろうか、という疑問が湧いてくる。
何の当てもなく、落ち延びていくことはないであろう。
どこかで知り得た知識や情報を基に落ち延びるはずである。

この田原は甘奈備佐木庄に属しており、また大家庄に近い場所である。
ここで、思いつくのは、大家庄の領家は皇嘉門院藤原聖子であったことである。

皇嘉門院は崇徳院の皇后であり、父は藤原忠通である。
保元の乱では、夫と父が敵味方にわかれ板挟みとなり、苦悩したという。

一方源頼政は保元の乱では、藤原忠通と同じく後白河天皇側にたって戦をしている。

これらの関係から、源頼政が藤原忠通を通じて大家庄や甘奈備佐木庄について知り得たのではないだろうか。

「そうそう聞いたところによると、聖子が領家となっている、大家庄というのは、石見の国の山奥に有り、京から行くには大変なところだそうだ。
その隣の甘奈備佐木庄というのは、それに輪を掛けた狭隘な場所で田畑を作るような平地が殆どない所らしい。
良う分らんが、多くは峡谷の合間の小さな平地を耕しているそうで、滅多に人が行かないので知る人も少ないらしい」

などと、荘園の話になったとき、大家庄などが話題になったのではないかと思う。

そして、藤原頼政の家臣俵佐満国もこの話を知っていたのではないだろうか。

俵佐満国は、落ち延びる時に、このことが頭に浮かび、山陽道から三次に入り、江の川を下って現在の因原に辿り着き、ここから木谷川を上り田原に辿り着いたのではないかと思う。
あくまでも、全く根拠のない想像である。

<菩提寺である浄福寺>

   

 

源頼政 

源頼政は清和源氏として、初めて従三位(貴族)に叙せられている。
摂津源氏の流れで畿内近国に地盤を持ち中央に進出し、朝廷や摂関家近くで活動する京武士だった。
(摂津源氏の祖は鬼退治(酒天童子や土蜘蛛)で有名な源頼光である。)

皇嘉門院藤原聖子と九条家

聖子の父忠通は保元の乱においては勝者側である。聖子は忠通の後ろ盾によって、保元の乱以後も皇嘉門院は朝廷で尊重された。
忠通の六男が九条家の祖九条兼実である。
兼実から数えて4代後に鎌倉代4代将軍九条頼経が出ている。

なお、大家庄は皇嘉門院藤原聖子から九条家に伝領され、九条家の支配が続いていった。

 

<続く>

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