25. 先島群島作戦(続き)
25.1.作戦準備(続き)
25.1.3.水上特攻戦隊の配備
宮古島にも水上特攻隊が配備された。
宮古島に配備された特攻隊は、陸軍の水上特攻隊は海上挺進第四戦隊と第三十戦隊、海軍の水上特攻隊は震洋型一戦隊だった。
海上挺進第四戦隊
陸軍の海上挺進第四戦隊の水上特攻隊は、下崎地区、荷川取地区の海岸に、基地壕や特攻艇秘匿壕を構築し駐屯した。
第四戦隊は昭和20年1月上旬、慶良間列島の座間味島から船団を組んで宮古島へ向かった。
しかし、途中悪天に災いされてバラバラになり、一部は台湾へ漂着するという不首尾で、主力が宮古島に集結した頃は㋹艇数は20乃至30隻に減じ、人員も60名足らずとなっていた。
同隊は基地大隊の協力を得て平良町下里沿岸に秘匿壕を堀り、艇を格納して戦闘に備えた。
平良港方面に敵が上陸を企図した場合、体当たり出撃の段取りだった。
海上挺進第三十戦隊
海上挺進第三十戦隊の水上特攻隊は大浜地区一帯に秘匿壕を構築したが、宮古島に向かう洋上(奄美大島近辺)で米軍機の攻撃を受け、輸送船が全部沈没し進行不能となり、宇品に引き返したため、結局宮古島には着任しなかった。
海軍の水上特攻隊
一方狩俣の西海岸八光湾近くに海軍第三一三設営隊が秘匿壕を構築し、震洋型特攻艇八木部隊が駐屯していた。
<当時の宮古島の軍施設地図>
25.1.4.水上特攻設備のその後
25.1.4.1.海上挺進第四戦隊
海上挺進第四戦隊駐屯地
第四戦隊の駐屯地は平良市街地にあった。
かつては荷川取公園の方から海岸に向けて小川が流れていた。
(現在その小川に沿って荷川取公園に通じる遊歩道がある)
その小川の畔に第四戦隊の駐屯地がありその近くに㋹の秘匿壕を設けた。
今も荷川取海岸の付近には26の壕が残されている。
荷川取公園に通じる遊歩道の周辺には16の壕があるが、現在は、雑草におおわれて、多くは分かりにくくなっている。
現在、荷川取漁港入口から荷取川公園方向に凡そ100mくらい行くと、その駐屯地跡に石碑が建っており、説明碑もある。
平成10年(1998年)10月11日記念碑の除幕式が行われ、この除幕式の模様を宮古新報と宮古毎日新聞が報じている。
<宮古新報の記事>
以下の写真は令和2年(2020年)10月1日に撮影したもの。
<記念碑の説明文>
<説明文>
元陸軍海上挺進基地第四大隊基地壕および第四戦隊特攻艇秘匿壕の大略
この地図に朱色で示す数多くの壕は、陸軍海上挺身隊(通称・水上特攻艇)の宮古島配備に伴い、第四戦隊(**少佐率いる隊員63名、舟艇47隻)が昭和20年1月に上陸し、下崎地区、荷川取地区の海岸に西江大尉率いる海上挺進基地第四大隊と伴に、基地壕や特攻艇秘匿壕を構築し駐屯していた。
この第四戦隊は、長さ約6m、幅約2mの木製一人乗りモーターボートに240kgの爆雷を装着し、敵艦隊に体当たり攻撃を任務とした17〜18歳の少年を隊員として構成された部隊であった。基地第四大隊は、第四戦隊の秘匿壕構築や後方支援を任務としていたようである。
昭和20年8月まで島の守備に従事していたが、出撃することなく終戦を迎えた。しかし、復員するまでの間には、空襲やマラリア、栄養失調などにより約63名(正確な数字は不明)の尊い命が失われたという。
平良市には、この地区のほかに久松のトゥリバー地区、大浜地区一帯に陸軍海上挺進基地第三〇大隊が構築した秘匿壕や狩俣の西海岸八光湾近くに海軍第三一三設営隊が構築し、震洋型特攻艇八木部隊が駐屯していた秘匿壕が存在する。久松の2地区の秘匿壕については、戦況により特攻艇が配備されないまま放棄された。
戦後、一部の秘匿壕が諸事情により失われたが、多くの秘匿壕が54年経った今も残されている。
平成12年3月設置 平良市教育委員会
【無駄話】
次に示す、写真−1は平成10年(1998年)10月12日(除幕式の翌日)に撮影された「駐屯地跡」の写真で、写真−2は、令和2年(2020年)10月1日に筆者が撮影した「駐屯地跡」の写真である。
写真を見比べると、明らかに記念碑の高さが違うのである。
写真−1では記念碑の高さは、除幕式の新聞記事には1.82mとあり、また写っている人の身長と比べてもそれを確認できる。
写真−2の記念碑の高さは、1.2mぐらいであった。
理由は分からないが記念碑は建て直されたものと思われる。
<写真−1>
<写真−2>
荷川取海岸秘匿壕群・ウプドウマーリャ 特攻艇秘匿壕群
「沖縄県立埋蔵文化センター」による調査報告書(2005年3月)「沖縄県戦争遺跡詳細分布調査(Ⅴ)宮古諸島編」に、「荷川取海岸秘匿壕群・ウプドウマーリャ 特攻艇秘匿壕群」という記載がある。
これは第四戦隊の特攻艇秘匿壕に関する記載である。
この一部を記す。
・・・・
荷川取漁港東側の谷部から荷川取海岸にかけて特攻艇の秘匿壕が現在も残る。谷部に掘られた壕は北側 斜面に 9ヶ所、南側斜面に 7ヶ所と計16ヶ所確認することができた。内部は平均輻 3m内外で天井や壁面 を粗く削り込んでいる。一部、北側に「く」や「コ」の字状となるものがあるが、殆どが直線状に掘られ ている。それらの壕が向かい合う中央は谷底状となっている。
かつては雨水が流れ込んで小川となり荷川 取海岸へ流れ込んでいたことから、特攻艇を秘匿し、迅速に出撃するのに適した地形となっていた。
最大 規模を有する壕でも奥行25mとあまり規模が大きくないことから、この周辺の壕はあくまで特攻艇を格納 するのが主な目的であったと思われる。
・・・・中略・・・・
これら荷川取海岸周辺に見られる壕は現在、上記の 3ヶ所で見ることができる。
かつてはこの沿岸部に 多くの壕が残っていたとの聞き取りが得られ、戦後の海岸埋め立てによって破壊、若しくは埋没したとのことである。
荷川取沿岸に掘られたこれらの特攻艇秘匿壕は旧日本陸軍船舶隊、及び海上挺進基地第30大隊が造営したとされ、平良港方面に米軍が上陸することを想定していたのは勿論のこと、対岸の伊良部島には一個旅団が守備することから、米軍による正面攻撃される恐れがないという特攻艇を秘歯する上での地 理的優位性を有していた。
構築の際には当初、火薬を使用して掘削を行っていたが、火薬が底を尽きると 人力で十字鍬や円匙を使用して掘り込んだとされている。
構築後は、今井好房大尉が指揮する第二中隊がこの場所に陣地を構築している。
これらの壕には㋹型特攻艇が配備され、有事に備えて出撃する予定であったとされる。
㋹型特攻艇は全 長1.8m、高さ 1m、長さ 5.6mで、荷川取にある個々の秘匿壕の何れにも十分格納することができる。
壕は一部、掘削途中のものも見られることから、未完成で放置された壕がいくつかあったものと考えられる。 聞き取りによると、荷川取海岸周辺には47隻の舟艇を秘匿、待機していたとのことである。
<秘匿壕と連隊駐屯地場所>
<秘匿壕>
<㋹特攻艇>
25.1.4.2.第三十戦隊の秘匿基地
第三十戦隊の秘匿基地は第四戦隊の基地から約3.5Km南西方向の大浜地区にある。
この第三十戦隊は宮古島に向かう洋上(奄美大島近辺)で米軍機の攻撃を受け、輸送船が全部沈没し進行不能となり、宇品に引き返した。
この攻撃による第三十戦隊の戦没者は16名だった。
<秘匿壕内部>
25.1.4.3.海軍の秘匿壕
一方海軍の震洋型はおよそ50隻が城辺村友利海岸に配置され、下地村南岸に上陸する敵に備えていた。
この水上特攻艇が初めて使用されたのは米軍が比島リンガエン湾に上陸した時からだが、船体が脆く、防御力皆無、一発でも敵弾を受けると行動の自由を失なうので、期待された戦果は上らなかった。
沖縄では、慶良間列島に相当数配備されたが、敵が先を制して同列島に上陸したため、殆んど無為のまま全滅した。
<海軍の秘匿壕>
<震洋特攻艇>
<続く>