22. 高まる武士の地位
22.1. 伊勢平氏
昌泰元年(898年)、上総に下った高望王が平氏の祖であり、その曾孫維衡は伊勢の国に地盤を築いた。
維衡から4代後の平正盛は、伊賀国の荘園を白河上皇に寄進したりして政界進出の基盤を築いていった。
正盛は、検非違使・追捕使として諸国の盗賊を討伐するなどして活動する。
正盛は出雲で横行している源義親(源義親の乱)の追討使に任じられ、あっけなくこれを鎮圧し名をあげる。
白河法皇はこれを喜び、異例にも正盛の帰還を待たずに行賞を行い、正盛は但馬守に任じられた。
白河法皇は、この正盛を従四位下まで昇進させている。
正盛の子平忠盛は瀬戸内海の海賊平定などで白河法皇の信任を得た。
白河法皇亡きあとも、鳥羽上皇、持賢門院の北面武士、追討使として武力面での役割を果たす。
天承2年(1132年)、平忠盛は上皇勅願の観音堂である得長寿院造営の落慶供養に際して、千体観音を寄進し、その功績により内昇殿を許可された。
殿上に昇ることが許され、武家という貴族の身分を獲得し、院近臣としても重く用いられるようになる。
忠盛は一方で諸国の受領を歴任し、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄えていく。
忠盛は正四位まで昇進し、公卿(三位以上)昇進を目前としながら、58歳で死去する。
その武力と財力は次代に引き継がれ、後の平氏政権の礎となる。
その平氏の勢力をさらに飛躍的に伸ばしたのが、忠盛の子平清盛である。
平氏のめざましい出世に対して、源氏も巻き返しをはかり、義親の子で義家の養子となった源為義は摂関家と結びつき、さらに為義の子の源義朝は東国に下って鎌倉を根拠地にし、広く関東の武士との主従関係を築きあげていった。
摂関家の内紛
白河院政下で不遇であった摂関家は、鳥羽院政が開始されると藤原忠実の女・泰子(高陽院)が鳥羽上皇の妃となり息を吹き返した。
関白の藤原忠通は後継者に恵まれなかったため、異母弟の頼長を養子に迎える。
しかし康治2年(1143年)に基実が生まれると、忠通は摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望み、忠実・頼長と対立することになった。
22.2. 保元の乱
「保元の乱」は、崇徳上皇と後白河天皇が皇位継承をめぐる争いに、摂関家の内紛が加わった争いで、武家である源氏と平氏の武力を利用した政変である。
22.2.1.鳥羽法皇の崩御
保元元年(1156年)7月2日に鳥羽法皇が崩御する。葬儀は酉の刻(午後8時頃)より少数の近臣が執り行った。
鳥羽院が崩御すると、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す(崇徳上皇と藤原頼長が軍を率いて反乱を起こそうとしている)」という噂が流れ始めた。
この噂は、白河天皇側近の藤原通憲(信西)が流したものと言われている。
この噂に対応して、後白河天皇は頼長が兵を集めないように手をうち、さらに財産も没収する。
これにより、崇徳院と頼長は挙兵するしかない状態に追い詰められる。
崇徳上皇は7月9日の夜、少数の側近と鳥羽田中殿から脱出して、洛東白河にある統子内親王(崇徳上皇の妹で後白河天皇の姉)の御所に押し入った。
源頼長は宇治から上洛して白河北殿に入り貴族や武士を集め始める。
源為義・平忠正らの武士が集まってきた。
これに対して、鳥羽法皇の立場を引き継いで朝廷の実権を握った後白河天皇は、近臣の藤原通憲(信西)を参謀にして、平清盛や源義朝らの武士を動員し、先制攻撃(夜襲)を仕掛けて上皇方を破った。
その結果、崇徳上皇は讃岐に流され、頼長や為義らは殺された。
崇徳院は讃岐に流された後は讃岐院と呼ばれることになった。
この乱は武士が政争に使われたことで、時代の大きな転換を人々に印象付けることになった。
のちに延暦寺の天台座主となった摂関家出身の僧慈円は、その著『愚管抄』でこれ以後『武者の世』になったと記している。
頼長の子息や藤原教長といった貴族、源為義や平忠正、平家弘といった武士には罪名が下され、特に武士に対する処罰は厳しく、忠正、為義、家弘は一族もろともに斬首にされた。
天皇方は乱に勝利したことで反対勢力を排除することができたが、数百年ぶりに実施された死刑は人々に衝撃を与えることになった。
天皇や上皇の島流しは、淳仁天皇の淡路への島流し以来、およそ400年ぶりのことである。
また、これ以来崇徳上皇は二度と京の地へ戻ってくることはできず、島流しから8年後の長寛2年(1164年)にこの世を去ることになる。
保元の乱では朝廷での内部抗争を解決するために、平清盛や源義朝といった武士の力を借りることになった。このため、この乱以降、武士の存在感が増すことになるのである。
そしてこの保元の乱が、この後の約700年にもわたる長い武家政権へとつながるきっかけとなった。
保元の乱の戦力比較
後白河天皇と崇徳上皇の戦力には圧倒的な差があった。
史書によると
後白河天皇側 1,105騎
平清盛(300騎)、平延兼(75騎)、平惟成(70騎)、源義朝(200騎)、源義康(100騎)源重成(60騎)、源季実(100騎)、源頼盛(100騎)
崇徳上皇側 200騎
平忠正(100騎)、源為義(100騎)
崇徳上皇側には興福寺・吉野等の摂関家の援軍約1,000騎が来る予定であったが、間に合わなかったようである。
図に表すと兵力差は一目瞭然である。
22.2.2.摂関家の凋落
この乱で最大の打撃を蒙ったのは摂関家だった。
摂関家の事実上の総帥だった忠実が管理する莫大な所領は、忠通の所領となり、頼長の所領は没収された。
また、公卿以外(武士・悪僧)の預所を改易して国司の管理下に置かれた。
所領や人事についても天皇に決定権を握られることになり、自立性を失った摂関家の勢力は大幅に後退することになる。
忠通は保元3年(1158年)4月、後白河上皇の寵愛を受けていた藤原信頼との騒擾事件では一方的に責めを負わされ閉門処分となった。
同年8月の後白河天皇から守仁親王(二条天皇)への譲位についても全く関与しないなど、周囲から軽んじられ政治の中枢から外れていく。
乱後に主導権を握ったのは信西であり、保元新制を発布して国政改革に着手し、大内裏の再建を実現するなど政務に辣腕を振るう。
信西の子息もそれぞれ弁官や大国の受領に抜擢されるが、信西一門の急速な台頭は旧来の院近臣や貴族の反感を買い、やがて広範な反信西派が形成されることになる。
さらに院近臣も後白河上皇を支持する集団(後白河院政派)と二条天皇を支持する集団(二条親政派)に分裂し、朝廷内は三つ巴の対立の様相を呈するようになった。
権力を手中にした信西は国政改革推進のため平清盛を厚遇する。
平氏一門は北面武士の中で最大兵力を有していたが、乱後には清盛が播磨守、平頼盛が安芸守、平教盛が淡路守、平経盛が常陸介と兄弟で四ヶ国の受領を占めてさらに勢力を拡大した。
この平氏の武力は、荘園整理、荘官・百姓の取り締まり、神人・悪僧の統制、戦乱で荒廃した京都の治安維持のためにも、不可欠の存在となっていく。
平氏側はこのように手厚く恩賞をうけた。
しかし、一方の源氏側は源義朝が昇叙(正五位下)し左馬頭の役職を得ただけだった。
22.2.3. 崇徳院の怨霊伝説
崇徳院の怨霊伝説は、菅原道真、平将門と並んで日本三大怨霊の一つとされている。
『保元物語』によると
崇徳院は讃岐国での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経(『法華経』『華厳経』『涅槃経』『大集経』『大品般若経』)の写本作り、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出した。
しかし後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返す。
この屈辱に激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込んだ。
そして崩御するまで爪や髪を伸ばし続けて夜叉のような姿になり、後に天狗になったとされている。
崇徳院は長寛2年(1164年)8月26日46歳で崩御。
その後しばらくは、崇徳院の怨霊についても意識されることはなかった。
ところが、安元2年(1176年)には建春門院・高松院・六条院・九条院が相次いで死去する。
後白河や忠通に近い人々が相次いで死去したことで、崇徳や頼長の怨霊が意識され始める。
さらに、安元3年(1177年)になると延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとなった。
精神的に追い詰められた後白河院は怨霊鎮魂のため保元の宣命(岩清水八幡宮に、保元の乱の勝利の報告した宣命)を破却し、8月3日には「讃岐院」の院号が「崇徳院」に改められ、頼長には正一位太政大臣が追贈された
<続く>