日経新聞朝刊の連載小説を、朝起きて一番に読む習慣が、ずっと前から続いている。現在進行系の連載小説が、伊集院静の「ミチクサ先生」だ。ミチクサ先生とは、かの文豪、夏目漱石のことである。
この連載小説が実に良い。まだ時代は、一校時代。江戸っ子でスタイリッシュなシティ・ボーイ漱石と、地方(松山)から出て来たスケールのでかいカントリー・ボーイ蕪村の会話が、特に好きだ。二人は、お互いを「畏友」と思っている。「畏友」とは、友人の中でも、最も尊敬すべき存在である人のことだ。単なる仲良しではない。後世ともに偉大な名前を残す才人が、素直に邪心のかけらもなくお互いを認め、刺激を受け合い、相手を思い遣る優しい姿が美しい。
色々な本を読んで来たけど、この人は特別だという作家が幾人かいる。その中でも、僕にとって、特別中の特別な作家が、夏目漱石なのである。
夏目漱石こそが、僕を読書に目覚めさせてくれた。その、記念すべき一冊が「坊っちゃん」である。アンデルセン童話でもなく、グリム童話でもなく、ファーブル昆虫記でもなく、トム・ソーヤの冒険でもなく、十五少年漂流記でもなく(こういう本を手に取ってみたけど、読んでも10ページ続かなかった。)、夏目漱石こそが、読書への扉を開く機会を与えてくれた。
過去、何度もテレビ化されている「坊っちゃん」だが、そのひとつを子供の頃に観て、すっかり坊っちゃん先生が好きになり、毎週、放送の時間が来るとテレビに噛り付いた。連続ドラマが終わった後、原作は大作家のものと知っていて敷居が高かったけど、思い切って読んでみたら、これがテレビ以上に面白くて、一気に読み切ってしまった。それが、僕の人生に於ける読書の始まりである。
数あるテレビ化された「坊っちゃん」だが、僕が観たのは日テレの竹脇無我主演のもの。記憶だと、自分が小学生の時に見たと思い込んでいたけど、ウィキペディアで調べると70年放映。既に、僕は中学1年生だ。遅い読書デビュー。奥手だった、全てに。
話しが、逸れるけど、柔道道場に少し通っていたことがある。これも、同じ時期に僕っちゃん=竹脇無我が主演で「姿三四郎」を演じていたから。「坊っちゃん」は、どうやら中学1年生の僕にとって(あくまで小学生時代と自分史には刻まれているが)、僕のアイドルだったようだ
「僕っちゃん」によって、読書に目覚めた僕は、続いて、「三四郎」、「それから」、「門」、「こころ」と読み継いでいくことになる。
物語は、どんどん深くなっていく。
でも、僕にとって主人公はいつも「坊っちゃん」その人。彼が名前や姿を少し変えて、大人になっていく物語として、漱石を読んできた。単純に正義漢として善悪を割り切って振る舞っていた青年が、大人になることによって自分自身も大きな罪を背負うことになり、その罪と葛藤しながらも、生きていく(最後に、「こころ」の先生は、葛藤に破れ、自死を選んでしまうが。その死をも含めた)一人の男の人生ストーリーとして捉えてきた。だから、子供の時に読んでも、初老に足を踏み入れた今読んでも、その時、その年代の自分に応じて漱石の物語は僕の心の底にあるクレバスに染み込んでいく。
坊っちゃん(敢えて、そう言う)が、原罪の様な罪を負うのは、一人の女性のせい。それは、同僚の大人しい英語教師、うらなりの婚約者マドンナ。マドンナに横恋慕した教頭の赤シャツはマドンナを横取りしようとしたり、うらなりを遠くに左遷しようとする。これに義憤を感じた坊っちゃんは、赤シャツに天誅を加え、マドンナがうらなりの元へ戻る手助けをする。
美しいけど、生身の女性としての実感に乏しいマドンナが、はっきりとした情念と個性、生身の肉体を持った美禰子という女性として登場するのが、三四郎である。
ことあるごとに無自覚のまま三四郎を魅了する美禰子のことを、三四郎は、無意識的偽善者(unconscious hypocrite)と呼ぶ。高校時代、僕は好きな同級生の女の子が、他の男と親しく会話し、楽しそうに振る舞うのを見て、親友にあいつは無自覚的偽善者だと苦悩を大いに愚痴ったのも漱石の影響。三四郎に気がありそうな素振りの美禰子は、あっさりと三四郎以外の男の元に嫁いでしまう。僕も、あっさりと同級生に振られた様に。
この美禰子を、自分の元に取り戻すのが「それから」(=三四郎のそれから)だ。相手は、既に既婚の身であり、しかも嫁ぎ先が親友の所だ。自分の元に取り戻す行為とは、姦通という大きな罪であり、同時に親友への致命的な裏切りである。それを自覚しながら、自分を止めることが出来ない。かくて、三四郎(「それから」では、代助)は、大きな罪を背負い、彼女と生きていくことになる。罪に怯えながら日陰の中で世捨て人の様に生き(「門」の宗助)、遂に自死を選んでしまう(「こころ」の先生)。
この様に、僕なりのかなり勝手な一連のストーリーとして、漱石を読んできた。漱石が、真にテーマとしたものは、僕には分からない。僕にとっては、罪と知りながらも一人の女性を奪った男の、無邪気な青年時代から沈思黙考の晩年に至るまでの生涯を通じ、抱いてきた愛の物語である。だからこそ、「こころ」の先生みたく老成した人が主人公でも、その境遇の源にある若き日の無謀な情念に想いを馳せる。浮かび上がるのは、若き日の先生だ。
即ち、僕は漱石を青春大河小説として読んできた。その切なさと、苦しさは、今になっても褪せることはない。
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