さて、一週間ばかり積み残した、仙台の写真集もここいらで作成をば。
今回の旅の始まりは、北への旅立ちにふさわしい舞台、上野駅中央改札からスタートすることに。
北海道へはもはや飛行機を使うのが当たり前になり、北日本方面へも新幹線を使うのが主流、それも東京駅から出ているから、上野駅からの旅立ち…というシーンは、組み立てようと思っても、なかなかおいそれと組み立てるわけにはいかない。
それでも、夜行列車が使える北海道や北東北、北陸地方への旅立ちなら、迷わず夜行列車を選択すれば、上野駅地上ホームからの、昔ながらの長距離列車の旅情が味わえる、数少ない旅のスタートを切ることが出来るけれど、南東北の仙台辺りとなると、その旅立ちを設定することすらなかなか難儀する。
それでも、上野駅地上ホームから旅立とうと思えば、上野8時発の常磐線経由仙台行き「スーパーひたち7号」が定期列車として存在する。この列車には途中松戸にも止まるから、家からこの列車に乗るとすれば、京成で上野まで行ってもいいし、気が向けば京成津田沼から新京成に揺られて松戸から乗ってもよい。
ただしこの列車、11両の堂々たる編成で走るのは途中のいわきまでで、いわきから仙台までは4両、しかも指定席2両、自由席2両と半々だから、いわきからは確実に混みそうな気配。もちろん指定を取っておけば立たされる心配はないのだけれど、以前、仙台からの帰りに、鈍行を乗り継いで常磐線を上っていったら、原ノ町で待ち受けていたのが極悪701系ロングシート車、夏休み期間中でローカル志願のお客さんも多く、座れるかどうかすら危ぶむ状況だったから、こんなのに揺られるのはまっぴらごめんと、どうせこの後で特急が来るのなら乗っちまえと、原ノ町から仙台始発の「スーパーひたち」に乗ったらこれが通路まで一杯で、デッキでいわきまで立たされて、這々の体でいわきから増結された基本車両に逃げ出した…という思い出があり、更に常磐線は、鈍行乗り継ぎで仙台から千葉へ帰ろうとする時に度々乗っており、たまには東北線回りの旅も楽しみたかったのだ。
事実、東北線の久喜以北は、実に1996年春か夏以来、全く乗った記憶すらない有り様で、これは東北線筋だと、細切れの乗り継ぎが多くなることもさることながら、12年前の1996年の時点で、黒磯までロングシートの701系の影が忍び寄ってきており、常磐線系統にはまだあまり701系が入らず、旧国鉄急行用455系などが主力で頑張っていた時代、クロスシートに揺られようとすれば、自然と常磐線を選択していた時代だったことが大きい。仙台から駅弁片手に鈍行に乗っても、東北線筋は701系が主流だからとても開けたものではないし、原ノ町止まりでも、455系や417系なら、堂々と駅弁を開けられるもんね。
そんな東北線筋に、丁度おいらのおあつらえ向きに運転されるのが、郡山から磐越西線に入る、喜多方行き臨時特急「あいづ」。
会津若松や喜多方へ行こうとするなら、郡山まではまず新幹線が当たり前で、どうしても郡山での乗り換えが必要になるが、この列車に乗れば乗り換え要らずで会津地方へ連れて行ってくれる算段。
加えておいらのような「鉄」には、東北新幹線開業後、もう20年以上も永らく失われた、東北線筋の昔の特急列車の走りを堪能できる列車としても、ひじょーに有り難い。
この「あかべえ」は、普段は郡山と会津若松を結ぶ快速列車「あいづライナー」に使用されているのだけれど、もちろん「あいづ」運転の際は、「あかべえ」自らが宣伝役となって関東地方に現れる。
車内はヘッドカバーにまでご覧の通り。
この臨時特急「あいづ」は、上野を7時26分に発車。途中赤羽・大宮・小山・宇都宮・黒磯に止まり、郡山には10時10分に着く。
これが臨時列車の泣き所…と言ってしまえばそれまでだけれども、郡山到着がもう3分早くなれば、郡山から10時08分発の福島行きに乗り継げ、こいつに乗れば福島で8分乗り継ぎで11時00分発快速「仙台シティラビット3号」に乗り継げ、仙台には12時16分に着けるのに、そのまま東北線を下ろうと思えば郡山で50分待ちを食らい、仙台到着は13時25分になってしまう。
…まあ、「土・日きっぷ」だから当然郡山から新幹線なんだけどさあ(笑)。
そして、今日「あいづ」を選んだのには、「東北線筋の特急の走りを堪能する」事に関連して、もう一つある。
今日30日の試合は、仙台のロッテ応援団の呼びかけで、オリオンズユニが推奨されている。1974年にロッテが優勝した時、準本拠地は仙台だったことを受けてのこの企画。
ならば当時、1974年頃、仙台への移動手段の主流だった在来線特急で、選手たちの仙台への移動をそのまま体感してみよう…という意図もあった。もしかすると羽田~仙台間の飛行機だったかもしれないけどね。
ロッテが日本一になった1974年秋当時の資料は残っていないけれど、これがまた偶然というかおあつらえ向きというかなんというか、家の本棚に、1974年7月号の時刻表がありましたよ奥さん(爆)。
偶然とはあまりにも恐ろしや…。
すげえな。
湖西線が開業した時の時刻表なのかこれ。
その昔、北陸線はみんな米原・長浜回りだったのよね。
これはいつだったか、神保町に立ち寄った時、たまたま古本屋で、山陽新幹線博多開業前の時刻表が安値で売っていて、丁度おいらが生まれるか否か…という頃だよな…ということに思いを馳せながら買ったんだっけ。間違っても、ロッテが日本一になった時の資料として買っておこうとはこれっぽっちも思ってません。
というより、多分これを買ったのは、ロッテにまだ全く興味がなかったころじゃないかなあ…。
この時刻表を紐解くと、この臨時特急「あいづ」と同じような時間帯に、上野7時30分発の青森行き特急「はつかり1号」がある。
この列車はこんな走り。
上野7:30-大宮7:53-8:41宇都宮8:42-9:56郡山
交直切り替えの黒磯も通過扱いだから、もしかすると車上切り替えで通り過ぎていたのかもしれない。
ちなみに「あいづ」の走りはこんな感じ。
上野7:26-赤羽7:34-7:47大宮7:48-8:24小山8:25-8:44宇都宮8:45-9:18黒磯9:22-10:10郡山
当時より14分ほど余計にかかっている計算。
停車駅が増えているし、黒磯でも4分止まるから、このロスは致し方ない面もあるだろうが。
さて、黒磯駅では直流1500ボルトから、交流20000ボルトへの切り替えを行う。
電源の切り替えでメジャーなのは、常磐線の取手~藤代間あたりだろうが、常磐線も含めて、切り替えは走行中の線路に無電源区間のデッドセクションを設けて、その区間をだ行で通過中に交直切り替えを行うパターンが一般的だが、ここ黒磯駅では、駅の停車中に、駅で架線に流す電流を直流と交流に切り替える、「地上切り替え」を行っている唯一の存在で、旅客列車ではこの臨時「あいづ」の他、郡山まで延長運転される時の快速「フェアーウェイ」号など、臨時列車でしかお目にかかることは出来ない。
黒磯に到着したら、まず電車のパンタグラフを一斉に下げます。
写真右下の方向幕を観ると、蛍光灯がついていないのが分かりますね。
架線の電流が交流に切り替われば再びパンタグラフを上げ、そそくさと発車します。
1974年当時のロッテ戦士の活躍を思い出しながら、列車は途中4~5分遅れながらも、黒磯から先で取り返したらしく、ほぼ定刻に郡山に到着しました。
ここ郡山で、これも国鉄時代を彷彿とさせる並びが実現したけれど、この先はまたのお楽しみ。(以下続く)
今回の旅の始まりは、北への旅立ちにふさわしい舞台、上野駅中央改札からスタートすることに。
北海道へはもはや飛行機を使うのが当たり前になり、北日本方面へも新幹線を使うのが主流、それも東京駅から出ているから、上野駅からの旅立ち…というシーンは、組み立てようと思っても、なかなかおいそれと組み立てるわけにはいかない。
それでも、夜行列車が使える北海道や北東北、北陸地方への旅立ちなら、迷わず夜行列車を選択すれば、上野駅地上ホームからの、昔ながらの長距離列車の旅情が味わえる、数少ない旅のスタートを切ることが出来るけれど、南東北の仙台辺りとなると、その旅立ちを設定することすらなかなか難儀する。
それでも、上野駅地上ホームから旅立とうと思えば、上野8時発の常磐線経由仙台行き「スーパーひたち7号」が定期列車として存在する。この列車には途中松戸にも止まるから、家からこの列車に乗るとすれば、京成で上野まで行ってもいいし、気が向けば京成津田沼から新京成に揺られて松戸から乗ってもよい。
ただしこの列車、11両の堂々たる編成で走るのは途中のいわきまでで、いわきから仙台までは4両、しかも指定席2両、自由席2両と半々だから、いわきからは確実に混みそうな気配。もちろん指定を取っておけば立たされる心配はないのだけれど、以前、仙台からの帰りに、鈍行を乗り継いで常磐線を上っていったら、原ノ町で待ち受けていたのが極悪701系ロングシート車、夏休み期間中でローカル志願のお客さんも多く、座れるかどうかすら危ぶむ状況だったから、こんなのに揺られるのはまっぴらごめんと、どうせこの後で特急が来るのなら乗っちまえと、原ノ町から仙台始発の「スーパーひたち」に乗ったらこれが通路まで一杯で、デッキでいわきまで立たされて、這々の体でいわきから増結された基本車両に逃げ出した…という思い出があり、更に常磐線は、鈍行乗り継ぎで仙台から千葉へ帰ろうとする時に度々乗っており、たまには東北線回りの旅も楽しみたかったのだ。
事実、東北線の久喜以北は、実に1996年春か夏以来、全く乗った記憶すらない有り様で、これは東北線筋だと、細切れの乗り継ぎが多くなることもさることながら、12年前の1996年の時点で、黒磯までロングシートの701系の影が忍び寄ってきており、常磐線系統にはまだあまり701系が入らず、旧国鉄急行用455系などが主力で頑張っていた時代、クロスシートに揺られようとすれば、自然と常磐線を選択していた時代だったことが大きい。仙台から駅弁片手に鈍行に乗っても、東北線筋は701系が主流だからとても開けたものではないし、原ノ町止まりでも、455系や417系なら、堂々と駅弁を開けられるもんね。
そんな東北線筋に、丁度おいらのおあつらえ向きに運転されるのが、郡山から磐越西線に入る、喜多方行き臨時特急「あいづ」。
会津若松や喜多方へ行こうとするなら、郡山まではまず新幹線が当たり前で、どうしても郡山での乗り換えが必要になるが、この列車に乗れば乗り換え要らずで会津地方へ連れて行ってくれる算段。
加えておいらのような「鉄」には、東北新幹線開業後、もう20年以上も永らく失われた、東北線筋の昔の特急列車の走りを堪能できる列車としても、ひじょーに有り難い。
この「あかべえ」は、普段は郡山と会津若松を結ぶ快速列車「あいづライナー」に使用されているのだけれど、もちろん「あいづ」運転の際は、「あかべえ」自らが宣伝役となって関東地方に現れる。
車内はヘッドカバーにまでご覧の通り。
この臨時特急「あいづ」は、上野を7時26分に発車。途中赤羽・大宮・小山・宇都宮・黒磯に止まり、郡山には10時10分に着く。
これが臨時列車の泣き所…と言ってしまえばそれまでだけれども、郡山到着がもう3分早くなれば、郡山から10時08分発の福島行きに乗り継げ、こいつに乗れば福島で8分乗り継ぎで11時00分発快速「仙台シティラビット3号」に乗り継げ、仙台には12時16分に着けるのに、そのまま東北線を下ろうと思えば郡山で50分待ちを食らい、仙台到着は13時25分になってしまう。
…まあ、「土・日きっぷ」だから当然郡山から新幹線なんだけどさあ(笑)。
そして、今日「あいづ」を選んだのには、「東北線筋の特急の走りを堪能する」事に関連して、もう一つある。
今日30日の試合は、仙台のロッテ応援団の呼びかけで、オリオンズユニが推奨されている。1974年にロッテが優勝した時、準本拠地は仙台だったことを受けてのこの企画。
ならば当時、1974年頃、仙台への移動手段の主流だった在来線特急で、選手たちの仙台への移動をそのまま体感してみよう…という意図もあった。もしかすると羽田~仙台間の飛行機だったかもしれないけどね。
ロッテが日本一になった1974年秋当時の資料は残っていないけれど、これがまた偶然というかおあつらえ向きというかなんというか、家の本棚に、1974年7月号の時刻表がありましたよ奥さん(爆)。
偶然とはあまりにも恐ろしや…。
すげえな。
湖西線が開業した時の時刻表なのかこれ。
その昔、北陸線はみんな米原・長浜回りだったのよね。
これはいつだったか、神保町に立ち寄った時、たまたま古本屋で、山陽新幹線博多開業前の時刻表が安値で売っていて、丁度おいらが生まれるか否か…という頃だよな…ということに思いを馳せながら買ったんだっけ。間違っても、ロッテが日本一になった時の資料として買っておこうとはこれっぽっちも思ってません。
というより、多分これを買ったのは、ロッテにまだ全く興味がなかったころじゃないかなあ…。
この時刻表を紐解くと、この臨時特急「あいづ」と同じような時間帯に、上野7時30分発の青森行き特急「はつかり1号」がある。
この列車はこんな走り。
上野7:30-大宮7:53-8:41宇都宮8:42-9:56郡山
交直切り替えの黒磯も通過扱いだから、もしかすると車上切り替えで通り過ぎていたのかもしれない。
ちなみに「あいづ」の走りはこんな感じ。
上野7:26-赤羽7:34-7:47大宮7:48-8:24小山8:25-8:44宇都宮8:45-9:18黒磯9:22-10:10郡山
当時より14分ほど余計にかかっている計算。
停車駅が増えているし、黒磯でも4分止まるから、このロスは致し方ない面もあるだろうが。
さて、黒磯駅では直流1500ボルトから、交流20000ボルトへの切り替えを行う。
電源の切り替えでメジャーなのは、常磐線の取手~藤代間あたりだろうが、常磐線も含めて、切り替えは走行中の線路に無電源区間のデッドセクションを設けて、その区間をだ行で通過中に交直切り替えを行うパターンが一般的だが、ここ黒磯駅では、駅の停車中に、駅で架線に流す電流を直流と交流に切り替える、「地上切り替え」を行っている唯一の存在で、旅客列車ではこの臨時「あいづ」の他、郡山まで延長運転される時の快速「フェアーウェイ」号など、臨時列車でしかお目にかかることは出来ない。
黒磯に到着したら、まず電車のパンタグラフを一斉に下げます。
写真右下の方向幕を観ると、蛍光灯がついていないのが分かりますね。
架線の電流が交流に切り替われば再びパンタグラフを上げ、そそくさと発車します。
1974年当時のロッテ戦士の活躍を思い出しながら、列車は途中4~5分遅れながらも、黒磯から先で取り返したらしく、ほぼ定刻に郡山に到着しました。
ここ郡山で、これも国鉄時代を彷彿とさせる並びが実現したけれど、この先はまたのお楽しみ。(以下続く)
小馬様…、74年の東北線ネタ‥懐かし過ぎであります(泣)。
…ていうか、私自身=この世に生を受けてホヤホヤの頃で‥かつ!関東・東北方面には、とうてい縁なんぞ無かった身柄なんで…、当時‥全盛期だった東北特急を生で見た事すら、全くありませんが…。
当時の東北線絡みの長距離列車で知ってる列車名は…
⇒ひばり号、はつかり号、やまびこ号、つばさ号・やまばと号(←これは、仙台は通らなかったかな?)、ひたち号、みちのく号、夜行では…北星号、ゆうづる号、はくつる号、八甲田号、十和田号、……もう~分かんなくなってきた…(笑)。
そんな旅情溢れる列車達が上野駅地上ホームからジャンジャン!発着してた時代ですよね。
そんな時代に思いを寄せながら‥東北在来本線の旅をするのは、正に!「正統派・乗り鉄党」⇒の“鉄の中の鉄!!”正しい“鉄”の楽しみ方でしょう(納得)。
なんか、そんなジャンジャン!走ってる特急を“東北3羽ガラス”って呼ばれてませんでしたっけ?(笑)。
とにかく!懐かし過ぎますよ。
とにかく!良い遠征でしたね。
天晴れ!!\(^O^)/。
ひたち、みちのく、ゆうづる、十和田は常磐線回りです。
昔は常磐線回りの特急や急行がばんばん走っていたんですがねえ…。
これも往時をしのぶのも「スーパーひたち」に乗る以外に手だてが無くなってしまいました。