Crónica de los mudos

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人間らしいバーバラが好き

2021-01-29 | 映画
 この時期は家にこもりがち、しかも向こう数年は海外渡航が長期のオフシーズンに入るから、余計に家の周囲3キロ以内で完結する日々がしばらく続くのに違いない。街へ出れば人の増えた場所と減った場所があるのに気付く。減ったのはもちろん繁華街全般で、平日の夕刻に散歩がてら梅田方面まで歩くと阪急百貨店前のコンコースが旧ソ連のダンスホールみたいになっている。かつてのゴシックスタイルの回廊であればドイツの教会を連想させていたかもしれないが、安普請とか悪趣味(というより無趣味)とか悪名高いあの新ビル下の殺風景な巨大洞窟ですら、人がいなくなればそれなりに荘厳に見えるから不思議なものだ。
 堂山町界隈のアーケード街からは背広姿のサラリーマンや酔客が消え、いるのは呼び込みの従業員たちと「おじさん、息抜きは?」と声をかけてくる制服やメイド姿の生白い女子ばかりで、そこは荒野というよりむしろ、焼き尽くされていない焼き畑に生き残った生物が点在している光景に近い。
 郊外に住んでいると見えてこないかもしれないが、このあたりに住んでいるとこういう不況下で人が明らかに増える場所もあり、昨今は高齢者が多いのも気になる。夜と朝しかそこで見ない人もいる。そことはいろいろなそこで、川沿いのベンチでもあり、高架下の梁と梁の隙間だったりする。意図的に人目につく場に座っている年寄りもいたり、自転車が実質上の住処になっている人もいる。その人が一日をかけて少しずつ移動しているのを知っている。ときどき立ち止まるポイントがあるのだが、特にそこでなにかをしているわけでもなく、ただ立ち止まるために立ち止まる。立ち止まるためだけに立ち止まる。そういう行為を豊かだという人もいるかもしれないが、別に豊かでも貧しくもなく、ただそうしているだけに見える。
 商店街にはのぼりが立っている。
 新型コロナに負けない。私たちは人間だ。
 人の手と手が握り合う写真の下のフレーズだ。
 この言葉はいずれも正しいが、いずれも無意味だといつも思う。
 感染症の話題が日常化してからイーガンの短篇「銀炎」を読み直した。癌よりも交通事故よりも稀で、都市によっては銃に撃たれるよりも稀だが、感染すると確実に、しかも急速に死に至る感染症の感染ルートを追う学者のクレアは、十八の息子を死なせてしまい、自分の軽率さを謝り続ける母親を前にこう思う。
わたしは彼女を部屋の隅にでもつれていって、まっすぐ視線をあわせながら、いい聞かせてやるべきだったのだろう。「あなたはなにも悪くないの! こうならないように、あなたにできたことはなにもないのよ!」
 あるいは、わたしはこういうべきだったのだ――今回のことは、ただこうなったというだけの話。人はなんの理由もなく、こんな風に病気になるものよ。息子さんの人生が損なわれたことに、なにかの意味が見出せるわけではない。このことに意味を見つけることはできないの。これはランダムな分子のダンスでしかないのだから。(『TAP』山岸真編訳、河出書房新社、163)
 ウィルスに勝ち負けの基準はない。ただ存在しているだけであって、存在する限りは生存を目指すが、それが不可能になることを負けと認めるような思考回路(彼らの生の全般を意志とみなしたなら)はないだろう。私たちはたしかに人間だが、人間も生物のひとつなのであって、ウィルスに代表される自然は、いや宇宙のすべては、私たち人間にそこまで特殊な関心を寄せていないだろう。
 購読している新聞二紙は、昨年来、ほぼ1紙面を様々な学者や文筆家たちの新型ウィルスをめぐる論考に提供してきた。いちいち熟読し、いろいろなことをいろいろな人が考えていることを知ったが、多くの人がパンデミックを自然界からの攻撃と捉え、おりしも増加していた熊被害などとも合わせて、人間と自然との共生バランスが崩れた(というより私たちが崩した)結果が現況なのだという「大きな生物観の枠組み」を共有していことに気付いた。その主旨には私もさほどの異論はないけれど、人間は果たして自然と「共存する」などと偉そうなことを言える生物なのかという疑問は消えない。
 自然は人間を攻撃などしないと思う。
 なぜなら人間もまた自然なのだから。
 自分たちが攻撃されるほど特別な存在だと思える幸福。
 幸福というより錯乱といったほうが正確だろう。
 私たちは人間だ。
 メッセージの意図は分かる。人間は「他の生物とは違う」という意味だ。人間にはほかの生物にはないもの、人を人として成立させている自由意志があるという確認だ。ボルヘスの「バベルの図書館」を読んでいた時、あの閉鎖空間を成立させているのは自由意志の(成立に対する)幻想と(喪失に対する)不安を意味へのアディクトが支えている場として捉えるといいような気がしたのを思い出す。
 私たちは自然というランダムな分子のダンスに意味を見出すから人間である。だが、無意味(ランダム)に意味(リーズン)を見出すのが人間だとするなら、そんな自然の生物たちにとっては人間の単なる自己満足にすぎない、それこそ「まさに無意味な行為」のみを存在価値とする生物に、たとえばウィルスは(に好悪の感情があると仮定して)共感してくれるだろうか? 宇宙は人間に同情するだろうか?
 鳥たちは今日も空を飛んでいる。
 スズメは餌探しに精を出している
 カラスは居酒屋から出る唐揚げ混じりのゴミが急減している情報を早朝から交換し合っているように見える。毎年7月26日の早朝は大阪中のカラスが大川沿いに集まってくる。あれは彼らが何らかの方法で大量の食糧がうまれるのを情報として共有しているからだと思っていた。しかし、いま空を行き交うカラスを見ても、彼らが下界の環境に何かの意味を見出しているとはとても思えない。カラスはただ見る。そこに唐揚げがある、食べよう。時には袋ごとかっぱらってビルの屋上で物色するという知恵を発揮することはあっても、人間の棲息域から残飯が減少したことに重大な解釈をいくつも展開することは永久にあるまい。
 気分転換に、人ではない人を主人公にした映画の続編を見てきた。
 たぶんガル・ガドットさんも含めた製作者たちは、ドナルド・トランプにもあの偽石油王にそっくりな結末を迎えさせてやりたかったのだろう。
 しかし現実はそれと程遠いものだった。何かを信じたい、何かに意味を見出したい、ただし普遍の真理ではなく俺の、あたしの、僕の「好きな意味だけを証明してほしい」という人間特有の強烈で切ない欲望を(映画のような魔法の石によってではなく)SNSというツールで吸い取ったまま彼は退場し、いまも一部からは吸い取り続けているらしい。そういう意味でこの映画は一種の「願い」なのかもしれない。
 80年代マニアには笑えるディティールがいくつもあるが、最近だめ女にはまっている私はバーバラの造形に夢中になってしまった。バーバラの最後の描き方がまた無慈悲で、この映画で私がいちばん気に入った場面かな。

ドン・キホーテを殺した男

2020-02-01 | 映画
 という題が日本では『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』に。監督の名前を冠した邦題は『フェリーニのアマルコルド』あたりに始まるのだろうか。ほかには『ゴダールのマリア』など。可愛い子ちゃん女優の名を冠する邦題もむかしは多かった。『フィービー・ケイツのトライアングル・ラブ』とか。あの美しかったフィービーさんもいまや56歳、いったいどんなレディーになっているのか想像もつきません。関係ないけど『マルコビッチの穴』という映画もありました。
 妄想を抱く人間を描くことに執着してきたギリアムにとって『ドン・キホーテ』の映像化は人生の集大成だったに違いない。といっても仕上げるのに30年。ギリアムは今年で80歳、ということは50代から60代における仕事で極度の困難に直面し、それを乗り越えて(というより、しぶとくあきらめずに何度もチャレンジして)結果を出したということに。私も今後の人生で目指すべき先輩のひとりとして覚えておきたいと思う。今年90歳になるクリント・イーストウッドもいますけど。
 1998年に企画が立ち上げられたときは、ドン・キホーテ役にフランス人の俳優が予定されていた。アメリカ人映画監督役はジョニー・デップ。当初はジョニデによるドン・キホーテ映画だったのである。ところがスペインの撮影地上空を米軍機が飛び交うなど、様々なトラブルが続いて最初のとん挫。この経緯がドキュメンタリー映画『ロスト・イン・ラ・マンチャ』として先に公開された。
 2003年にふたたび企画がもちあがったときのドン・キホーテ役は、やはりフランス人のジェラール・ドパルデュー。しかし作品の権利問題でやはりとん挫。
 2008年には米国人俳優ロバート・デュヴァルをドン・キホーテ役に三度目の企画が立ち上げられるも、すでにスターとなって海賊の映画などで忙しかったジョニデが降板するなどして、またもやとん挫。
 2010年にはジョニデの代役にユアン・マクレガーをキャスティングするも、資金繰りに失敗し続けてまたもやとん挫。
 2013年、73歳になったギリアムが「ドン・キホーテの仕事で人生の多くを無駄にした」と発言。2014年にやはりあきらめきれなかった監督が英国人俳優ジョン・ハートをドン・キホーテ役に再び企画を立ち上げるも、クランクイン直前にハートが癌にかかってとん挫。2016年、76歳になった監督が「映画が死ぬ前に自分が死ぬのでは」と発言。
 そして2017年、ギリアムは77歳、かつて『未来世紀ブラジル』でタッグを組んだジョナサン・プライスが、ちょうどドン・キホーテにふさわしい年齢になっていた。ジョニデの役はアダム・ドライバーでついにクランクイン、わずか3か月でクランクアップ。
 面白いのは、この30年間の製作難航そのものが作品内に織り込まれていること。もともとセルバンテスの小説自体がもっていた二重、三重の入れ子構造そのものが全編にトレースされている。個々のエピソードもすべて原作に基づくもので、そこのところを詳しくパンフに紹介してほしかったところです(スペイン文学専門家の文章がどこにも載っていないのはどーゆーこと?!)。ほかにもガルシア=ロルカの詩やゴヤの絵など小道具にもスペインネタが満載(なのにスペイン系の専門家のコメントがどこにも載ってないのはどーゆーこと?!)。多少なりともドン・キホーテを読んできた者なら思わず見直したくなる映画になっている。
 パンフを見ていて驚いたのがロッシ・デ・パルマ。アルモドバルの『神経衰弱ぎりぎりの女たち』で知られるスペインの変顔女優、お元気そうでよかったです。ちなみに原題の意味は最後に分かります。

たそがれるまえに働け

2019-12-28 | 映画
 2月の研究系の仕事を中心に年末年始のスクランブル体制に入るべきところが、諸事相次ぎ、なかなかうまくいかず。職場の忘年会とか、年末の大掃除とか、家族と黒門市場に買い出しとか、そういうこの時期らしい行事から遠ざかってもう10年以上になるだろうか。今年は秘書が欲しいと心から思った一年だった。
 セルジオ・レオーネの名画を原題カタカナ表記でノーカット上映。約3時間。これくらい贅沢しても許されるはず。幼いころのクエンティン・タランティーノがこれを見て映画をつくろうと思い立った名作。西部の進展(鉄道が象徴)に伴って開発の周縁にあった暴力(ガンマンたちが象徴)が過去の遺物と化してゆくという、ウェスタンのひとつの主要テーマ、滅びの美学だけに特化して物語をつくれたのは、イタリア的な外部の目線、現実の核心にある虚構だけを取り出す冷静な眼差しがあったからにちがいない。ヨーロッパという存在自体が巨大な過去の遺物ですもんね。ちなみに脚本を書いているのはベルナルド・ベルトルッチとダリオ・アルジェントだった。すごいタッグです。
 私ら語学屋さんももうじき過去の遺物になるだろう。翻訳機というマシンの進化で社会に居場所がなくなる。私自身は無用と思われ捨てられるのには慣れている。過去の遺物になるのもそう悪くはない。結局のところ人の一生とはすべからく過去の遺物への変容過程に他ならないのだから。
 とか、ああ、黄昏ている前にさっさと仕事をしてほしいものである。自分に。

すべての記憶もいつかは消える

2019-08-06 | 映画

 オランダの俳優ルトガー・ハウアーが亡くなった。ハリソン・フォード主演の『ブレードランナー』のアンドロイドで記憶している人が多いと思うが、実は出世作はこっち。『ロッキー』後『ランボー』前のシルベスター・スタローンと共演していたのです。ヨーロッパ人のテロリストがニューヨークで特に大義もなくテロをするという、今から考えれば、後の様々な事件を予見するような内容で、犯人は国籍不明のなんとなく胡散臭い俳優、共犯者はインド系のパーシス・カンバータというインド系の美女が演じていた。

 ヨーロッパのテロリストというイメージはその後も『ダイハード』などに受け継がれていくことになる。ツインタワー事件もなかった時代から、アメリカって、いつかよその大陸の危険分子に襲われるという危機感を共有していたのですね。その発端はパールハーバーかもしれませんけど。

 ちなみにスタローンの元妻役はバイオニック・ジェミーのリンゼイ・ワグナー、今も昔もこれだけ背が高いのに美人という女優は稀有かもしれません。私も大好きで、スタローンも昔から「大柄のヤンキー」が好きだったんでしょうか、改めて親近感を抱くなあ。

 この映画でスライの上司を演じている俳優はロッキーの元締めヤクザだった人、この時代のニューヨークが舞台の映画でよく見る役者です。最初の高架鉄道の場面、途中の地下鉄での追っかけなど、監督は明らかに『フレンチ・コネクション』を意識していて、また、下手を打つと三流以下の映画になっていたのを救っているのが絶妙の編集と音楽であろう。

 キース・エマーソンのサントラのカバー。

 だけでもカッコいいですね。

 ルトガー・ハウアーは、たしかにブレードランナーのレプリカントで一世を風靡した。あの映画は3年前に続編もつくられ、こちらも好評だった。しかしながら、元の監督リドリー・スコットがロイ・バティのその後を託したのは、彼のライフワークであるエイリアンの最新作『コヴェナント』である。この映画でマイケル・ファスベンダーとマイケル・ファスベンダーがキスをするグロテスクな場面があるが、その直前のやり取りこそが真の『続ブレードランナー』。

 ところでナイトホークスでスライの相棒をしていたビリー・ディー・ウィリアムス、あの有名な映画のランド・カルリシアンですけど、年末公開の『スカイウォーカーの復活』に登場するのだとか。ハン・ソロの若いころスピンオフでは若手俳優が演じていました。このシリーズは往年の役者を一人ずつ殺していく……のではなく、上手に葬っていく仕儀になっていて、その延長で残るは彼だけということでしょうか。

 ルトガー・ハウアーはその後パッとしなかったが、ヨーゼフ・ロートの小説を映画化した『聖なる酔っ払いの伝説』は彼の持つ無国籍的な雰囲気が主人公の造形に似合っていて、なかなかいい感じでした。このあいだイタリア語の吹き替え版というのを見ていたのだが、なんだか他人事と思えなくて切ない気持ちに。


アルフォンソ・クアロン『ローマ』

2019-03-21 | 映画

ペルーなどでムチャチャと呼ばれる住み込みの家政婦を軸にした群像劇。ローマとはイタリアのそれではなくメキシコ市の住宅街を指す。そういう白人の暮らす高級住宅街に se necesita muchacha とステッカーが貼ってあれば家政婦募集中の意。彼女らはたいてい屋上の小さな部屋に住み込み、衣食住をあてがわれ、一定の給料ももらい、家事洗濯炊事、そしてこの映画のように一家の子どもの面倒も見たりする。

 映画の家の構造が、私が30年前に暮らしたリマの家のそれにきわめてよく似ていて、とても懐かしかった。あそこで出会ったムチャチャたちのことはいまでも覚えているし、彼女らと家人との独特の距離感、そしてアジアから来たよそ者である私との微妙な関係など、映画を見ながら昨日のことのように思い出していた。

 カメラワークも物語構成も秀逸で、作家性の光る映画、各種の賞で評価が高いのも頷ける力作だ。イタリアのネオリアリスモの味もあれば、メキシコ時代のブニュエルのセンスも透けて見える。

 人間関係のポイントを一言でいえば「消える男と残された女たちの紐帯」に尽きるのではなかろうか。消えるお父さん、消える彼氏。そして残された女たちがかろうじて維持してく家。きわめてメキシコ的な人間模様だが、こうやって凝縮した形で見せた作家はあまりいない。

 主人公の家政婦は先住民語を話す。

 ここの字幕はカッコつきで分かるように。

 マリンチェのドラマでもやっている、いまの中米文化の主流となりつつある手法で、ラテンアメリカの言語的複数性(スペイン「語圏」じゃなくってさ!)を知らしめる意味でも素晴らしい傾向と思う。

 いくつかのイメージがずっと気になる。

 ガレージの犬の糞とか数えればきりがない。

 白人のおばあさんが病院で主人公との関係を聞かれて何も言えず、最後は「雇い主だ」としか言葉が出てこず泣き出す場面とか、もう無数にその背景を語りたくなる映像にあふれている。

 ネットフリックスでの配信だが、私は茨木イオンモールで見た。カメラは俯瞰に移行せず、人の目線で並行に回転だけし、ときたま空を見上げるが、その空には必ず着陸するジェット機が映りこんでくる。映画というメディアをどういう環境で見るべきか、私は特に意見を持たないのだが、このショットだけはスクリーンで見たほうがいいかも。

 近くにいた女性の観客が、ベビーベッドを購入しにいくあたりからずっと身を乗り出していた。手を握り締めてじっとみいってしまい、誰でも勝手に泣いてしまう。なかなかつくれない作品だと思う。