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川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

福島原発反対同盟 石丸小四郎さん

2011-04-11 08:57:45 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

昨夜は久しぶりに近所の中国家庭料理「家園」を訪ねて家族3人で食事をした。意見交換をしているうちに東電のやりたい放題(原発至上主義)をやめさせるためには①電力産業の「独占」をやめさせ、誰でもが自由に電力を買う会社を選べるようにすること②東電の責任追及と補償要求をばんばんやること などが大事だという結論になった。

 今朝、パソコンで40年間福島原発に反対してきた石丸さんの記事を読むことが出来た。「中日新聞」系列の各紙に出ているようだ。こんな方がやはりおられたのだ。「無力感にさいなまれている」と言われながら、子供たちのために何とかしなきゃいけない」と闘いの炎を燃やし続ける。

 皆さんにもぜひ読んでもらいたい。

 

故郷危機 怒りと無力感


         交付金特需→財政悪化→原子炉増設  雇用と引き替えに

      

 福島原発の地元反対同盟  闘い40年 石丸小四郎さん


深刻化こそすれど、一向に収束の見通しが立たない、東京電力福島第一原発の事故。
その原発の目と鼻の先に住み、原発反対運動を40年続けてきた男性がいる。
福島県富岡町の元郵便局員石丸小四郎さん(68)。
避難先で、「故郷を失って流浪の民になった怒りと悔しさを、原発を日本からなくす活動につなげる」と話す。

  
石丸さんはいま、秋田市内にある姉のマンションに孫2人と身を寄せる。
避難指示が出た自宅は、第1原発から約4キロ。
富岡町の沿岸部は津波で全て流されたが、町内の高台にあった石丸さん宅は難を逃れた。
「だが、生きてるうちには二度と戻れないと覚悟した」

最近の新聞記事に「避難指示地域で発見された遺体は、高濃度の放射線に汚染されており、収容できていない」とあったからだ。
亡き妻が気に入っていたログハウス、故郷の森…。もう一度見たい、といういちるの望みが消えた。

石丸さんは1970年代から原発反対運動を始めた。現在は「双葉地方原発反対同盟」の代表を務める。
学習を重ね、放射能の怖さを身に染みて知った。
自分たちが住んでいた町は、病院の中にある「放射線管理区域」と同じだと例える。

「放射能は痛くもかゆくもねえし、臭いもしねえ。地元のじっちゃ、ばっちゃには『被ばく量を測りながら入る仕事場と同じで、まま(飯)も食われねえ場所なんだよ』と説明するんだが…」

事故発生後、知り合いから「あんたは反対運動してたから『それみたことか』と思ってるべ」と言われる。
「けれど、そうじゃない。40年も反対して止められず、こんなことになってしまった。ものすごく無力感にさいなまれている」

石丸さんが富岡町に移り住んだのは64年。第1原発の建設工事が始まる直前だった。
「原爆のことを考えたら、夢のエネルギーといわれても半信半疑」だった。
後に双葉町長になって推進派に転じた岩本忠夫氏に誘われ、第2原発建設の反対運動に参加した。
しかし、反対運動はあっという間に切り崩された。


もともと、福島県双葉郡は産業がなく出稼ぎが多い。
ところが原発建設が進んだ70~80年代、地元は“原発特需”に沸き返った。
喫茶店や居酒屋、下宿屋などが林立。町には交付金など数千億円が流れ込んだ。

「飲み屋の主人が『こんなに金もうけていいもんだべかな』というくらい。そのうち仙台のようになるといわれた」
子や孫が原発関連の仕事に就職するようになり、反対派は1人消え、2人消えしていった。

しかし、特需は建設工事が終わると去った。
それにもかかわらず、地元自治体は体育館や温泉施設などをどんどん建設した。
しかし、夢物語はいつまでも続かない。
「電源三法交付金は建設後10年もたてば急減する。借金と施設維持費で首が回らなくなり、財政再建団体寸前に陥った」

 
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 労働は過酷でも「戻る」人件費削減→事故多発 悪循環止まらず


地元自治体が向かったのが、原子炉の増設だった。原発は地元民の働く場でもある。
福島県双葉郡の6町2村で、人口約7万6000人のうち、1万人が原発関連の仕事に就いているという。
今回の事故で避難したが「会社から呼び出しがあったら戻りたい」と話す人は多い。
失業するわけにはいかないからだ。

「しかし、労働者たちは守られてるとは言えない。東電は一流企業と思われているが、一時は売り上げの2倍の借金を抱えた企業だ。特に2000年以降は修繕費と人件費を削り続け、事故が多発するという悪循環に陥っている」

 
 
原発は、設備投資やメンテナンスに膨大な経費がかかる。
福島第1原発は、稼動当初から燃料被覆管に穴が開く事故や、配管の継ぎ目にひびが入る事故などが多発。
専門家に「性能は実験炉なみ」と言われてきた。

原子炉を止めると1日1億円の損失が出るとも言われる。
「なるべく損失を減らそうと定期点検の間隔を長くする。さらに点検期間を短縮する。そのために作業員は昼夜を問わぬ過酷な作業を続けることになり、危険にさらされる」

地元の下宿屋のおかみから「原発の仕事から帰ってくる人らが食事時に食べながら眠っている」と聞いた。
最近では、東京で失業した若者が「清掃作業」の募集で福島に来てみたら、原発の仕事だと初めて知ったという相談も受けた。

労働の過酷さは協力会社と呼ばれる下請けの労働者にとどまらない。
「東電の社員も合理化で、乾いたぞうきんを絞るように過重勤務だ」
石丸さんは「原発が抱える困難は全て放射能に由来する。発電のために湯っこ沸かすのに、なんで原子力なんて危ないもの使わなきゃいけねえんだべ」とつぶやく。

「日本は資源に乏しい国だから」という言葉が魔法の言葉となり、国民が思考停止に陥っていると感じている。
原発は“トイレなきマンション”。
青森県六ヶ所村の使用済み核燃料再処理工場は止まったままで、使用済み核燃料の処理すらままならない。
英仏で再処理された使用済み核燃料が日本に戻ってきているが、その中のごみにあたる高レベル放射性廃棄物をガラス固化する技術はうまくういっていない。
埋没する場所も決まっていない。

現在の事故がうまく収束しても、処理には数十年かかるともいわれる。
「今の事故で放射性物質は東京にも流れていく。故瀬尾健助手(京大原子炉実験所)が福島での大事故を想定した試算では、首都圏で200万人以上が著しい健康被害を受けるという推計もある。
自分たちだけは安全なんて場所はない」

「責任追及し原発なくす」
 
いま、石丸さんは生涯かけて成し遂げる目標を立てている。
ひとつめは、刑事責任を含めた国と東電の徹底的な責任追及。
そしてドイツのように国を挙げて「脱原発」の計画を立てさせ、原発以外のエネルギーへの転換を目指すこと。
東電などの電力10社の寡占を防ぐため、一般家庭で複数の民間電力会社から購入先を選べるように自由化を進める。
そして今回の事故について、国や東電に徹底した個人補償をさせることだ。


「何万年も消えない放射能だってある。原発災害ほど、世代間で不公平があるものはない。
災害も喉元過ぎれば、とすぐに再開してしまうのが原発だけど、子供たちのために何とかしなきゃいけない。
それほど日本人はバカじゃない」

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北陸中日新聞(平成23年4月1日:朝刊)



 


金華山・鮎川・石巻  地震と津波・貴重な記録

2011-04-10 11:21:03 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

川越の新河岸川や喜多院の桜は今が盛りです。川越(水上)公園もそろそろ満開かな?

7日に川越公園を歩いたときには女性と子どものグループがあちこちの木々の下で花見を楽しんでいました。昨夕は新河岸川・喜多院と歩いてみましたが人影はほとんどありません。天候のせいもありますが「自粛」モードに陥っているようです。

こんな時こそ知友と語り合ってどう生きていったらよいのか、忌憚のない交流が出来たらいいのに。僕はそう思っています。我が家では隣町に住む妻の同級生から山桜の花見会の招待を受けています。14日、今から楽しみです。隣家との一杯の会も明日あたりにはやりたいなあ。

地震・津波から1ヶ月です。あの時、宮城県金華山を訪れていた方の写真記録を見ることが出来ました。震源に一番近いところで目撃した貴重な記録です。

 僕は96年に金華山と鮎川を訪ねました。母方の祖父が鯨の解体に関わっていたので小さいときから馴染みのある地名だったのです。今は石巻市になっていますが交通が途絶していたためか、ほとんど情報がなく、気になっていました。

 鮎川の惨状に言葉がありません。それでも、復興を誓う方の声を聞くことが出来ました。何時かまた、鮎川を訪ねて人々の元気な顔にであいたいものです。

 

 「東日本大震災に遭遇して」(ブログ「道をゆく」から)

 

①金華山で命がけの避難http://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/34375390.html

②金華山・地震と津波の爪痕http://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/34389678.html

③予期せぬ救出http://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=2

④鯨の町鮎川 凄惨な津波の傷跡http://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/34405629.html

⑤避難所生活 1 震災翌日 孤立無援の鮎川http://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/34426236.html

⑥避難所生活 2 鮎川では早くも復興への動きhttp://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/34445512.html

⑦避難所生活 3 再び津波警報発令http://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/34456787.html

⑧さようなら鮎川 お世話さまでした。がんばってください!http://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/34473337.html


「福井新聞」 たまげた話

2011-04-09 12:22:06 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

 

 

福井県の敦賀(つるが)のホテルでこんな新聞記事を読みました。

原発「城下町」に波紋 "城主"へ強まる疑念

  福島から島根、鹿児島… 多額交付金 共存脱却は不安

                                           (11年4月 3日 福井新聞)

 

 東京電力福島第1原発の事故は地元自治体の行政機能をマヒさせ、避難した多数の住民を「故郷喪失」の危機に追い込んだ。原発マネーを主財源とする町づくりを進めてきた各地の「城下町」に広がる動揺。雇用の場と多額の交付金をもたらすことで共存関係を築いた〝城主〟に、疑念と不安の目が向けられている。

 ■覚めない夢

 「コメも野菜も、全部原発関係の会社に入れていた。原発がなくなったら影響は大きいよ」。第1原発の5、6号機が立つ福島県双葉町。住民の避難先となった埼玉県の旧県立騎西高校(廃校)で、空調関係の職人だったという男性(63)がこぼした。 

 第1原発の営業運転開始は1970年代。「何もない、半農半漁の出稼ぎの町」(住民)だった同町は、多額の交付金と固定資産税に頼り、道路や公共施設などのインフラ整備を進めてきた。 

 だが「絶対安全」が崩れ、町は役場機能ごとの移転を余儀なくされた。周辺地域が高濃度の放射性物質に汚染される恐れもあり、関係者からは「国と東京電力にだまされた」との声も上がる。 

 それでも、ある住民は「5、6号機はまだ生きているはず。7、8号機の建設計画もある。原発はものすごい雇用を生むし、町はすごく豊かになる」。夢をあきらめきれない様子で語った。 

  ■ほかにすべなく


 事故の波紋は、原発を抱える全国各地の自治体にも広がっている。松江市の中国電力島根原発。点検不備問題を受け停止中の1号機の再開と、建設中の3号機の運転開始を控えるが、島根県幹部は「既定路線ではいかない。自治体がどこまでリスクを負うのか、きれいごと抜きの議論が必要だ」。 

 10キロ圏内に入る松江市島根町は3月末、中国電力関係者を呼んだ説明会を開催。「代替エネルギーの検討を」「津波対策は」。不安を募らせる住民から疑問が噴出した。ただ同市への10年度の交付金は約46億円。参加した男性(68)は「ほかに地域存続のすべが見つからない。安全対策を徹底してもらい共存するしかない」と頭を痛める。 

 同原発から20キロ圏に一部が含まれる境港市。トラブル発生時の迅速な連絡などを定めた安全協定の締結を中国電力に求める方針だ。市幹部は「不安はあるが、原発がなくなると電力が賄えず、すぐに止めてほしいという状況ではない」と複雑な表情だ。 

 ■にじむ危機感


 自治体の間に、微妙な〝温度差〟が生じるケースも出ている。 

 3号機増設が計画される鹿児島県の九州電力川内原発。周辺のいちき串木野市や出水市など5自治体は、九電に「凍結」を申し入れた。だが地元である薩摩川内市の岩切秀雄市長は「国の動きを注視する」と静観の構え。市担当者も「事故原因も分からず、何かを判断する段階ではないというのが市長の考え。議会が大多数で増設に賛成した経緯も重く受けとめているのだろう」と話す。 

 地元の反応には、国や電力会社も神経をとがらせる。東京電力の幹部は「安全を大前提に、地域の発展に貢献する気持ちでやってきたが、地域の暮らしを激変させてしまった。住民の怒りはもっともだ」と声を落とす。 

 関係者によると、原発建設にあたっては、立地担当者が地元に通い詰め、住民らの理解を得るため「原発がいかに安全か」をアピールしてきた経緯がある。 

 それだけに、ある電力業界関係者の言葉には強い危機感がにじむ。「これまで積み上げてきた信頼感は完全に地に落ちた。これから原発離れはどんどん進むだろう。今まで自分たちがやってきたことは何だろうかという気持ちだ」

                                                          (紹介終わり)

 

共同通信の配信した記事です。見出しは違いますが他紙にも同じ記事が載っています。

ぼくの感想。

5、6号機はまだ生きているはず。7、8号機の建設計画もある。原発はものすごい雇用を生むし、町はすごく豊かになる」

地獄の底にたたき落とされたはずの人がまだこんなことをいうのか。原発のおかげで自分がどんないい目をしてきたのか知らないが、未曾有の災厄を生きとし生けるものにもたらしておいてよくもぬけぬけと言えるものだ。こんな恥知らずを税金で助けてはならない。町も町民も原発依存症になって自分が見えなくなっているのだろう。

②「福井新聞」は「ご立派」。この福井こそ原発「城下町」のオンパレードじゃないのか。敦賀市、美浜町、おおい町、高浜町。これらの市や町ではどういう議論になっているのか取材して書くのが仕事じゃないのか。

 

<参考記事>

●「福島民報」共生への模索 2002http://www.minpo.jp/pub/former/topics/201energy/38.htm

●「福井新聞」原発増設見直し「時期尚早」http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/earthquake/27359.html

●熊谷太三郎http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E5%A4%AA%E4%B8%89%E9%83%8E

 


 


避難と移住  農山漁村の復権

2011-04-08 09:15:49 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

藤田さんが送ってくれた詩をそのまま紹介します。
 
「鐘が鳴っている」  藤田勝久

鐘がひと際高く 打ち鳴らされている
古稀を迎え また迎えようとする我々に
鐘がひと際高く 打ち鳴らされている
耳を澄ませ 最後の任務に赴けと
 
もう我々は 十分に生きたのだ
立派に生きた奴もいれば
私のようにお粗末極まりなく
恥多き人生を歩んだ奴もいる
 
そのことは 問うな
最後の任務に赴け
若い連中を 出来るだけ助けよ
彼らを 逃がせ
 
危険な黒い雲が迫っている
70歳になったら そのことぐらいは分る
まだ安全だ まだ逃げることはないと
誰が確信を持って言えるのか
 
我々はいいのだ
逃げることはない
若者を避難させよ
足手まといになるな
 
S君がいざとなったら警告すると
そう言っていたが まったく音沙汰なくなった
繰り返す 我々はいいのだ
若者を緊急に 総員退避させよ
 
       2011、4、7    藤田勝久
 
 川越に帰ってきたら、昨夜は早速地震で目覚めました。千年に一度という地震の余波ですからまだまだ続くのでしょう。こんな状況の中で福島原発はどこまで行ってしまうのか皆目見当はつきませんが、若い人たちが東京(関東)を離れて生活することを考えるのは当然です。
 
 政府も自治体も私たち市民もそれを支援、応援する道を用意しなければなりません。
 
 昨日、高知県東洋町長の「呼びかけ」を紹介しましたが、こんな自治体はほかにもあるかもしれません。とりあえず、やろうとすれば緊急避難はできます。
 ●東洋町http://www.town.toyo.kochi.jp/joho/html/index.htm(広報誌「とうよう」の4月号を覗いてみてください)
 
 しかし、「仕事」の問題に道筋をつけなければ生活を維持し続けることは出来ません。
 
 ①若い世代は「都会」生活へのこだわりを断ち切り、農山漁村、どこでも生き抜く意欲と能力を養う。
 ②政府と自治体は「地方」に仕事を創出する。
 
 どれも難しいことです。僕は②に関して、荒廃した山林を蘇生させることを国家事業とすることを提案してきました。「日本」を守るための大事業ですから自衛隊や海上保安庁に匹敵する組織を作って意欲と能力のある若者を登用すべきです。
 僕の若い友人の中にも30代になって山林労働者に転職した人がいます。危険を伴う困難な仕事ですが転職してよかったと言っています。しかし、家族が暮らしていく収入にはなっていません。
 東洋町でも沢山町長のリーダーシップのもとで間伐に取り組む人々が雇用されているようですが事情は変わらないでしょう。政府が国土再建を見通す中でこうした自治体の取り組みに法的な根拠を与え、労働者には自衛官・海上保安官なみの賃金を保障すべきです。
 
 地球という生態系を壊滅させかねない「原発」は途方もない「カネ食い虫」でもあることに今回のことで誰もが気づいたはずです。そのような無謀な事業は直ちに中止し、森や川や海をよみがえらせる事業に税金を投入すべきです。
 
 原発は昔からあったわけではありません。この日本ではたかだか40年でしょう。原発抜きでも何とかやれないはずはありません。多少の不便は我慢しているうちに慣れてくるでしょう。そのうちにこちらのほうが快適な生活だと思う人が増えてくるはずです。
 自然の恵みに生かされる生活を取り戻していく以外に人類生存の道はないと僕は考えます。
 

 

 

 

 

 


移動教室へのお誘い

2011-04-07 10:42:23 | 中国残留日本人孤児

 

きいちご多文化共生基金の主催する「移動教室」のご案内です。

 きいちご基金は「中国残留孤児とその家族、脱北帰国者など民族的マイノリティの日本社会への定着を支援する」ことを目的に年2回の移動教室を実施しています。この趣旨を理解していただけるならどなたでも参加できます。

 始まったばかりのNHKの朝ドラ「おひさま」の舞台にもなっている長野県の安曇野を訪ねます。よろしかったら、ぜひ、どうぞ。

 

 

<第12回きいちご移動教室>

晩春の安曇野(あずみの)

 北アルプスの麓に湧水の里を訪ねて

 

 安曇野は北アルプスの残雪が美しい季節です。湧水に恵まれてワサビの栽培が有名です。田植えも始まっていることでしょ

う。

 中心都市・松本は城下町です。移動教室の常連・Mさんが「満州」に渡る前、6歳まで過ごした故郷でもあります。松本

城にも登ってみましょう。その景観の素晴らしさに誰もが圧倒されます。

 

  ①目的地 長野県安曇野(あずみの)市

 ②宿舎 農家民宿ごほーでん ( 〒399-8303長野県安曇野市穂高3580-1 TEL 0263-82-6820)

 ③日程 2011・5・14(土)~5・15(日)

 ④集合時間 14日(土)7時50分(バスは定刻8時に発車します)

 ⑤集合場所 JR日暮里(にっぽり)駅東口広場(JR日暮里駅北口改札を出て右に行くと東口広場があります)

 ⑥参加費(旅行傷害保険料を含む)

    大人         5300円

    小中高生      3300円

    幼児(3歳以上)  1300円

 

 ⑦必需携帯物品 14日の昼食(弁当) 寝間着  レジャーシート 雨具

 ⑧服装 散歩に適した服装と靴

 ⑨参加申し込み

   ○申込期限  先着45名で締切です。早めに申し込んでください。

   ○申込方法 電話  Eメール などで鈴木啓介まで申し込んでください。申し込みは家族単位で参加者

           の氏名、生年月日を明記し、代表者の住所、電話番号、メールアドレスを知らせてください。

   ○これまで移動教室に参加したことがある人は氏名だけで結構です。

   ○費用送金  申し込みとともに費用を郵便振り込みで送金してください。

        振替口座 00150-6-483807 きいちご多文化共生基金

   ○取り消し  申し込み、費用払込後、こちらから特に連絡しない限り申し込みを了承したこととします。何らかの事

   情で参加を取り消す場合は、早めに連絡してください。

 

   主催 きいちご多文化共生基金

      連絡先 〒350-0823 川越市神明町43-26

          電話049-224-4646  または080-1278-4906(スズキケイスケ)

          Eメール keisukelap@yahoo.co.jp

 

 


東洋町長の「呼びかけ」 「一刻も早く避難してきてください」

2011-04-07 07:46:03 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

高知県に帰っている時期に読んだ東洋町の沢山町長の「呼びかけ」が忘れられません。沢山さんが言われるように3月11日以後、私たちは「あたらしい運命」を生きることを余儀なくされています。そういう認識に立って当面の破局をなんとしても避ける仕事を東電と政府にやってもらわなければなりません。

 僕が感動したのは赤い字で紹介した「呼びかけ」です。東洋町は高知県の東端にある過疎に苦しむ町です。4年前に原発ゴミの最終処分場の立地を拒否し、貧しくとも人々が支えあう「福祉のまち」造りを進めてきたといいます。

 その町の町長が「東洋町が人でパンクするぐらいになっても何とかするつもりです」と被災者の移住・避難を呼びかけているのです。こんな町が隣にあるのです。心強く、感動しました。子育て中の友人たちに伝えたい。

 僕の生れた室戸市は東北の港町と深く関わって生きてきました。気仙沼、塩竃…。いま、東洋町以上に手をさしのべる義理があります。どうなっているのでしょう?町のリーダーたちの真価が問われるときです。

黙示録的なこと

    (東洋町長日誌  News & Letters/231   2011年3月28日 (月))

THE JAPAN TIMES によれば、ドイツの首相 ANGELA MERKEL さんが福島原発事故を

   a catastrophe of apocalyptic dimensions(「黙示録的な破滅」 けいすけ註)

 と言ったそうだ。そのとおりだ。

 もはや、福島第1原発の事故だけで少なくとも日本列島では終末論的な様相を帯びている。

 4発の破損した原子炉を制御できるだろうか。ほとんど不可能であろう。

3月11日から現在まで半月間で、すでにチェルノブイリ級の放射能の拡散があり、しかもおそらくこれは、ほんの序曲に過ぎないであろう。日本や周辺国ー世界は、長期にわたってこの放射能の噴煙を上げ続ける毀損した福島原発の原子炉を抱えながら(共存しながら)暮らしていかねばならないであろう。

何という運命だ。警告を発していた内外の科学者もその警告がそのまま現出したことに驚いているであろう。このような事態は避けるであろうと思って警告してきたのである。
東京電力やそれを支えてきた国(最初に原発を導入した中曽根元首相から菅直人ら政治家、官僚)、原発を誘致してきた知事や市町村長、そして地方議会、そしてそれを推奨してきた学者先生、最後にマスコミの責任が問われる。

だまされたなどということは言わせない。いまだに政府はもとより学者先生やマスコミらは、直ちに害がないとかその失敗の弁護に余念がない。赤旗や英字新聞以外は第3号機のプルサーマルについてプの字も言わない。猛毒のプルトニウムが放出されていることを国民に隠している。それもこれも全てが終末論的な姿だ。

簡単に石棺で覆うこともできないだろう。もはや我々の運命は、放射能の噴煙を上げる活火山(福島第1原発)をもって生活しなければならず、放射能に免疫性の身体を作ることができない以上、絶えずその脅威と病変に悩まされながら生きていかねばならないであろう。無限の英雄的な作業員の奮闘が今後も要求されるであろう。それもいつまでも続くまい。

これが我々の新しい運命である。ドイツ気象台の放射能拡散予想ではやがて、西日本にも福島原発の放射能の雲がかかってくるでしょう。暗雲は私たちの運命を覆う。

ドイツの首相の言葉を私はそう受け取った。そうでない昔の(3月11日以前の)運命を 今に返すよしもがな だ。
   
 しずやしず 賎のおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな (静御前)

           呼びかけ

福島の方、否、東北、関東の方々はどうか東洋町に移住してきてください。
震災と原発放射能に苦しんでいる方は、東洋町で一時的でも永久的でも移住してください。

どのくらい受け入れることができるかわかりません。東洋町が人でパンクするぐらいになっても何とかするつもりです。

当面、数十戸程度ですが、宿舎と食料と衣類とは、無料で提供するつもりです。
特に子供を抱えたお母さんたちは、一刻も早く東洋町に避難してください。

  東洋町は核を拒否し、福祉の町を建設中です。

         連絡先 0887ー29-3111

 出典http://sawayama.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-efb4.html

 


桔梗ヶ原女子拓務訓練所跡を訪ねて

2011-04-06 12:58:05 | 中国残留日本人孤児

 昨日、7時過ぎに無事川越に帰着しました。今回の故郷訪問の旅はほとんど計画性のない行き当たりばったりの日々で、結果としてみれば14泊15日の長い旅になりました。突然の訪問にもかかわらず、旧友・知己・親族が都合をつけて歓待してくれました。感謝あるのみです。

 3月22日(オーシャン東九フェリー) 23・24・25(コンフォートホテル高知駅前)26・27(室戸岬・実家)28(馬路温泉)29・30(実家)31(愛媛県四国中央市・蔦廼屋)4月1日(東横イン・松山)2(東横イン・岡山)3(東横イン・敦賀)4(安曇野市・ごほーでん)

 宿泊先の一覧です。安くて便利な都市型ホテルを利用することが多くなりました。パソコンも自由に使えるので何よりです。でも、圧巻は「農家民宿・ごほーでん」です。景観も設備も料理も最高で低廉ときています。(長期滞在者は一泊二食で5500円)。自由に使えるパソコンも数台常備されています。

 地震・津波に原発事故という未曾有の困難のただ中におかれている人々には申し訳ないことですが、関東を脱出して、のんびり、ゆっくり、春を迎える列島を楽しませてもらいました。

 忘れないうちに昨日のメモ。

4月5日(火)快晴

 朝からこれ以上はないという青空。正面の常念岳は言うに及ばず、白馬方面のアルプスの雪山の景観は形容しがたい。

 今日は5月の「きいちご移動教室」の下見。「ごほーでん」の目と鼻の先にある「大王ワサビ園」「穂高観光協会」に寄った。

 

 午後は塩尻市の「長野県桔梗ヶ原女子拓務訓練所」跡を訪ねることにした。「大陸の花嫁」を養成するための施設だった。

 ●http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300433_00000&seg_number=003

妻が20数年来愛飲している「井筒ワイン」のワイナリーが「桔梗ヶ原」(ききょうがはら)の交差点近くにあるので訪ねてみたが、どなたも聞いたことがないとのこと。次に市役所へ。市民課、庶務課と回されて調べてくれたがわからず、広丘支所に行くように指示される。

 支所長の林さんが『野村区史』をひもといて心当たりの民家に電話を入れてくれる。その結果、教えてくれたのは「塩尻市大字広丘野村」。塩尻から松本に向かう国道19号をすすみ、九里巾交差点先の「SEIYU」手前で右折し、四つ角を直進したら、二つめのT字路を左折、さらに突き当たりを右折した先の小さな分かれ道の畑の隅にその「木柱」はあった。細い木柱に刻まれている文字の全文。

 

長野県桔梗ヶ原女子拓務訓練所跡

 戦時中、中国東北区(旧満州)への開拓移民の配偶者(花嫁)を養成する施設として、長野県が全国にさきがけて昭和15年9月に開所した。「大陸の花嫁学校」として全国に紹介された。

 

 これが訓練所跡を示すすべてである。高ボッチ高原に続く畑作地帯に見えるが、このあたりは宅地化が進んでいる。注意深くこの木柱を読んだとしても「訓練所」を想像することは難しい。

 失礼を省みず、近所のお宅を訪ねたら小沢洋さんが出てきて相手をしてくれた。

 小沢さんは昭和18(1943)年生まれというから当時のことを知るわけではないが、小学生時代までは「日輪兵舎」などの施設が残っていて、いくつかの寮(宿舎)は関係者に払い下げられたという。

 お父さんは県の職員として八ヶ岳の訓練所(今の農業大学校)で働いており、「満州」にも行ったことがあるらしい。戦後、同じく県の施設であるここに転勤してきたが、結核のため早世された。倉庫を探せば古い写真が見つかるかもしれないといっておられた。

 木柱を立てたのは「SEIYU」に近い所に住んでいた清水幸人さん(当時の野村区長)だが故人である。清水さんは戦後この地に入植した人らしい。

 小沢さんにお会いできてほんとうによかった。幽かではあっても「桔梗ヶ原訓練所」のイメージが浮かび上がってきた。

それにしてもと思わないわけにはいかなかった。跡地がキレイさっぱりなくなっているばかりではなく、かつて塩尻にこのような歴史があったことを市役所の職員の誰もが知らない様子なのである。

 小学校や中学校の「郷土史」はどうなっているのだろう?

 長野県は満蒙開拓団の送出にもっとも熱心な県であった。信濃教育会が果たした役割は計り知れない。かれらの後裔である「民主主義教育」を担ってきた人々は何をしてきたのだろう。歴史の証拠を闇に葬ることだけに熱心だったのか。

 歴史の事実に学ぶことが出来ない人間は現実をありのままに認識することも出来ない。ただただ時代に流されていくだけである。それが『教育県・長野』の実態なのか。

 塩尻市にはせめて跡地に説明板を作るなりのことはしてもらいたい。旧広丘村野村区の区史(平成9年刊)にはこの地域の戦後開拓の記事があるが訓練所については「あった」というだけである。

 <付け足し>

 小沢さんが読んだ記憶があるという『信濃毎日新聞』の記事「足元をみつめて」を書き起こしたブログがある。日付が分からないが(戦後60年)とあるから2005年の記事と思われる。

 ●http://www.justmystage.com/home/yagisan/asimoto.html

 

 


安曇野だより

2011-04-05 05:13:40 | 出会いの旅

4月4日(月)快晴

気比の松原、気比神宮によって敦賀を後にする。福井までは越前海岸の波打ち際の道を走る。紺青の海、絶景の連続。

 福井~大野~九頭竜湖~美濃白鳥~ひるがの高原。白山山系の真っ白い雪の山の展望がすばらしい。

学生時代に下赤塚の早川耳鼻科で働いていた二人の娘さんを思い出し、懐かしさでいっぱいになる。お二人は越前大野の高校を出たばかりで、僕のアルバイト先の医院で働きながら看護婦学校に通っておられた。お会いしてみたいなあ。

 このあたりは半世紀前にも電車とバスで訪ねたことがあるが春先の景観は初めてで、「感動」。

 飛騨高山~安曇野  真っ白い乗鞍岳の雄大な山姿を正面に見ながら飛騨から信濃へ。安曇野の宿「ごほーでん」着は4時半ごろ。

 宿のいたるところから北アルプスの雪山が見える。3階が展望室になっていて安曇野の広がりが一望できる。大王わさび園は目の前。

 「農家民宿」と銘打っているが、こんな豪壮な「農家」も「民宿」も僕は知らない。移動教室の参加者にも大喜びしてもらえることだろう。

 夕食時に夕日がアルプスに落ちていくのが見えた。

 


敦賀(つるが)だより

2011-04-04 06:15:34 | 出会いの旅

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4月3日(日)曇りのち晴れ

 岡山道~中国道~舞鶴・若狭道を走って敦賀(福井県)までやってきた。

途中、丹波篠山で降りて城の近くで昼食。花見の人出がすごいが肌寒い天候で、桜の開花にはまだ一週間はかかる?のではないか。このあたりでは周辺の山々のコブシが花盛りだ。

 敦賀は「もんじゅ」など原発の町。途中の高浜・大飯(おおい)・美浜などにも原発が立地していて若狭(福井県の西南部)は世界一の原発密集地。うつくしい若狭湾がなぜこんなことになったのだろう。夜は寒くて早めにホテルに閉じこもり、町の人の声も聞けなかった。

 今日(4日)は福井~美濃白鳥~高山などを経て長野県・安曇野に向かうことにする。5月のきいちご移動教室の下見。故郷訪問のたびもいよいよ終わりに近づいた。今日は朝からよく晴れている。


寄稿 「春三月は 悲しかりけり」

2011-04-03 04:40:11 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)
藤田さんが寄稿してくれたのでそのまま紹介します。
 
 
春三月は 悲しかりけり   藤田勝久
 
 16年前 春の三月に地下鉄にサリンが撒かれ
 多くの人々が 死んだり後遺症を受けた
 今年 20011年の春三月
 福島の原発が地震で 給水配管が損傷し送電鉄塔が倒壊し制御不能に陥った
 
 水位が低下し 燃料棒の溶融が始まった
 原発の所長は 本社に総員撤退を伝えた
 空を飛んできた首相は 撤退を許さず
 最後まで 死地を守れと命令した
 
 線量計の針は どんどん上がって行く
 台帳に5000台ある線量計は 320台しかなかった
 線量計は 改修作業者全員に渡らなかったと
 福島市内にある電力事務所は 31日そのことを発表した
 
 線量計は津波と地震で壊れたことにして 内規を変えた
 3月25日現在の 柏崎原発のホームページを見よ
 530台の線量計を 福島に送付したと書いてある
 何故に隣の第2原発から 取り寄せてないのだろうか
 
 線量計を渡せば 作業員はUターンだ
 作業なんか 出来っこない
 今は非常時なのだ
 戦争なのだ
 
 放射線障害防止法
 労働安全衛生法
 違反は承知だ
 内規を変えよ
 
 未必の故意だ
 殺人罪だ
 仕方がないが 本社も大本営も
 死守せよと 言ってるんだ
 
 6億かけて作った ロボット作業車は
 何処行ったのか
 メンテナンスが駄目で
 動かない
 
 19日 本社は労働組合と妥結した
 賞与年間支給額
 168万円で 妥結した
 組合員は 3万2千人だ
 
 保安院が 記者会見してる
 通産省の天下りと 出向者でないのか
 あの男は 何処かで見たなあ
 特許庁に いたような
 
 
 500人余の下請け孫請けが 殺されていく
 1000年に一度の 大津波だ
 4680台の線量計が 津波と地震で壊れたのだ
 我々は 命がけで戦っているのだ
 
 ほかの方策は 絶対にないのか
 すべては 空からの作戦に切り替えよう
 犠牲者を 少なくしよう
 ガダルカナルは 二度と見たくない
 
 水漬くかばね 草むすかばねは
 今 放射能にまみれて海と 陸にある
 これ以上犠牲者を増やさないでくれと
 彼らは言っているに違いない
 
 
        2011、4、1    藤田勝久
 
 

岡山だより

2011-04-03 04:31:04 | 出会いの旅

4月2日(土)晴れ

 「てっぱん」がおわった。しまなみ海道をとおって尾道へ行くことにする。

 尾道水道の渡船のりばを訪ねたあと千光寺へ。長い石段の道を登る。家族連れの姿が多い。どの人の顔もほころんでいる。尾道を故郷とする人が「てっぱん」を見て何十年ぶりかに登ったと話してくれる。尾道水道の風光がすばらしい。

 午後は岡山県の高梁(たかはし)へ。4時に備中松山城に登り始める。思ったよりずっと長い階段の登り。400m以上の山の上に中世以来の城跡が広がる。天守閣は江戸初期のものらしい。

 高梁川の美しい流れに沿って岡山へ。駅前の「東横イン」泊まり。

4月3日(日)

 さて、今日はどこまで行けるかな?

 


松山だより

2011-04-02 06:12:18 | ふるさと 土佐・室戸

31日(木)晴れ

 愛媛県四国中央市に鄭さん(中学校同級生)をたずね世話になる。

4月1日(金)晴れ

 松山の将史兄さん夫婦をたずね、松山城址などを歩く。夜は将史兄さんが

宴を張ってくれる。若い友人・歯科医のキムさんが来てくれ、遅くまで交流。

4月2日(土)晴れ 

 四国の知己を訪ねる旅は終わった。さて、これからどうやって帰るかな?