「ふらり道草ー幻映画館」という優れたブログがある。 京都の高校教員OBで僕よりは一回りは先輩の方が主(あるじ)である。
ふらり道草―幻映画館―
映画が最大の娯楽だった時代があった。昭和20年代から30年代に掛けてである。田舎の小学校の講堂で、固唾を飲んで熱中した巡回映画。場末の映画館で熱くなった3本建ての4番館・5番館。フィルムに雨が降っていても、途中で何度も切れても、スクリーンに映る名画は変わらない。
僕は昭和23年(1948年)小学校入学、昭和29年(1954年)中学校入学、昭和32年(1957年)高校入学である。このブログに紹介されている映画のいくつかも確かに見た。
小学校の講堂で上映された『きけわだつみのこえ』は怖くて見られなかった。先輩兵にいじめられる場面に耐えられなくて、ひとりこっそり会場を抜け出して帰った、確か。
『雲ながるる果てに』は昭和28年の制作だというから僕は6年生。記憶はうっすらとしていて定かではないが似たような映画を見ていることは確かだ。
自分の死を無理やり正当化しなければならない先輩たちの運命を見せつけられて緊張しっぱなしだった。どんなことがあっても戦争だけはしてはならないと、自分に引きつけて思うようになった。
映画の影響か、高校生ぐらいまでは戦没学徒の手記の類をしばしば読んだものだ。
「どんなことがあっても戦争だけはしてはならない」。これは僕の信仰のようなものであらゆる政治的思考の前提になっている。思考が停止していると非難されても仕方がないのかもしれない。
こんな「非戦」意識を作る上で少年期から青年期にかけての映画の影響は結構大きかったような気がする。
同年代の他の方々はどうだったのだろう?
時代が流れてのちの世に育った人々は?
この貴重なブログを参考にしてこの時代の映画を鑑賞してみるのもいい勉強になるのではないか。
『雲ながるる果てに』●http://blog.livedoor.jp/michikusa05/archives/51762767.html
意思をもって行動するのではなくて、恣意の実現に努力する。
恣意 (本音) を正当化するために規則 (建前) を使う。
だから、恣意の人には法律が必要である。
理想の実現に励むことはない。場当たり的に、恣意的に進む。
理想の内容も意思の内容も未来時制である。
日本語には、時制がない。
日本人の考えは、未来が夢となり、過去が幻となって、確たる非現実 (考え) の世界を構成することがない。
かくして捉えどころのない人間が出来上がる。
成案と意思のある人は、公言できる。
腹案と恣意のある人は、公言できない。辻褄が合わせられないからである。
成案と意思のある人は議会を好む。辻褄を合わせて決着できる。
腹案と恣意の人は談合を好む。腹の探りあいが必要だからである。駄々をこねる。不毛の議論に時間を浪費する。
日本人の浅薄さは、言葉に関係がある。
日本人の教養の程度は、日本語に深く関係している。
我が国の教育改革は、英語を基礎としなければならない。
かくして、日本人は英米人と対等に話ができる。
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