【 ▼神の摂理324:6 6. 第二。すべての人間は、至福の状態で永遠に生きるよう造られた。
これは当然の帰結です。人が永遠に生きるのを願っておられる神は、同時に、人が至福の状態で生きることを願っておられます。至福の状態がなかったら、永遠の生命には意味がありません。どんな愛でも他の人の善を願っています。両親の愛は子供たちの善を願っています。花婿の愛:夫の愛は花嫁の善であり妻の善です。友情からくる愛は友人たちの善です。ましてや神の愛はどれほどでしょう。
善はよろこびでなくて何でしょう。神の善は永遠の至福でなくて何でしょう。善という善はみずからの喜び、すなわち至福をもとにして善と言われます。すなわち善とは与えられるものであり、所有されうるものです。もしそれがよろこばしいものでなかったら不毛の善であり、それ自身として善ではありません。
以上で分かりますが、永遠の〈いのち〉は永遠の至福のことです。人がこのような状態になることこそ創造の目的です。ただし天界に行って、そのような状態になる人にだけ限られているわけですが、それは主の責任でなく人の責任になります。人の責任であることについては次節を見てください。
7. 第三。したがって、人はみんな天界に行けるよう造られている。アルカナ訳 】
<実感を大切に>
『愛は
目に見えずとも
心で感じる、、、』
宇宙の
ふしぎ
/隣人語録より
これは当然の帰結です。人が永遠に生きるのを願っておられる神は、同時に、人が至福の状態で生きることを願っておられます。至福の状態がなかったら、永遠の生命には意味がありません。どんな愛でも他の人の善を願っています。両親の愛は子供たちの善を願っています。花婿の愛:夫の愛は花嫁の善であり妻の善です。友情からくる愛は友人たちの善です。ましてや神の愛はどれほどでしょう。
善はよろこびでなくて何でしょう。神の善は永遠の至福でなくて何でしょう。善という善はみずからの喜び、すなわち至福をもとにして善と言われます。すなわち善とは与えられるものであり、所有されうるものです。もしそれがよろこばしいものでなかったら不毛の善であり、それ自身として善ではありません。
以上で分かりますが、永遠の〈いのち〉は永遠の至福のことです。人がこのような状態になることこそ創造の目的です。ただし天界に行って、そのような状態になる人にだけ限られているわけですが、それは主の責任でなく人の責任になります。人の責任であることについては次節を見てください。
7. 第三。したがって、人はみんな天界に行けるよう造られている。アルカナ訳 】
<実感を大切に>
『愛は
目に見えずとも
心で感じる、、、』
宇宙の
ふしぎ
/隣人語録より