唯物論者

唯物論の再構築

逆立ちした弁証法

2011-08-07 12:49:27 | 弁証法

 ヘーゲル弁証法は逆立ちをしているというマルクスによる指摘は有名である。しかし筆者から見ると、マルクスがヘーゲル弁証法のどこが逆立ちしていると指摘したのかという肝心な点が、一般的に理解されている気がしない。というのは、マルクスの後継者だったはずの共産主義陣営のほとんどの行動パターンが、あらかじめ用意した理念に向かって進むだけの目的論的弁証法に見えるためである。旧共産圏は、自らの変質に共産党自身が対処できず、名称だけは唯物論を振りかざしながら、理屈も行動も事実に敵対し続けるという観念論的腐敗の中に沈没した。西側共産党も、同じように事実に反する方針を提示し続けたあげくに、弱小化と解体に至っている。気炎を吐いているのは、古典的な暴力革命理論がいまだに有効な中南米とインド周辺の前時代的共産党くらいである。

 ヘーゲル弁証法が逆立ちをしているといわれる理由は、それがもつ目的論にある。すなわちヘーゲルにおいて弁証法は、現実存在する二実体の矛盾対立の解消を目指して運動しているのではなく、目的に対する現実存在の矛盾対立の収束において運動している。つまりヘーゲルにおける弁証法のらせん運動は、決められたゴールに辿り着くための単なる右往左往の歴史でしかない。このようにヘーゲル弁証法を捉えると、まるでそれは全てが必然の連携に支配された機械的唯物論のごとく見えてしまうわけだが、それもあながち間違いではない。ヘーゲルは、出来上がった過去の歴史を事象の本質として扱い、その事象の妥当性を説明するために弁証法を時間的に逆向きに使用するからである。当然ながらこの弁証法に従うなら、現実世界の全ての事象は、その妥当性を得るし、その現実性を積極的に肯定されるしかない。結果的にヘーゲルの弁証法に従えば、何事も答えは太古から既にあったこととなる。その答えとは、簡単に言えばイデアである。ここでのヘーゲルにおけるイデアは、プラトンのイデアと同様に、存在者の真偽を規定する形式性として現れる。しかしそれは、プラトンのイデアのように、天上から降臨し意識の内奥に固着する観念ではない。ヘーゲルのそれは、存在者の即自から生成した意識の対自存在だからである。すなわちそれは、存在者の現実的偶有を廃して純化した姿で現れるような存在者の概念である。ただしヘーゲルにおいて、概念が現実存在を起点にして生まれるのは、単なる見かけ上の話である。実際にはむしろヘーゲルにおける概念は、自らが起点となって逆に現実存在を外化する存在である。つまり意識に対して現象の規定的優位を見出すのは、ヘーゲルにおいてもプラトンにおいても変わっていない。当然ながら、ヘーゲルのイデアがプラトンのイデアと異なるように見えるのも錯覚である。両者のイデアは、ともに対象の無限な自体存在であり、現象の真理であり、意識の目指す先験的な究極目的である。一方で人間は有限存在にすぎないので、答えに辿りつくために試行錯誤を行わざるを得ない。現時点の結論が答えでなければ、人間の試行錯誤は続くし、現時点の結論が答えであれば、人間の試行錯誤は完了する。試行錯誤は、矛盾した事象をも包括して説明する新しい概念を産み出すが、その成果も実は太古からイデアとして既にあったものにすぎない。ひとまず目的論に目をつぶるなら、このような説明もそれほど悪くない。しかし目的論に注目するなら、存在者は目的を実現するための単なるコマとして現われる。実存は本質が現実化するための道具にすぎなくなる。それは実存に対して冷淡で無機質な理屈である。ヘーゲルはこのような弁証法により現象した本質を、プラトンの理念(=イデア)と区別し、絶対理念と呼んでいる。ヘーゲルはこの弁証法をもって、カント超越論における認識の二重構造を克服したとみなし、自らの哲学が哲学史の終焉になると考えた。そして自らに満足したヘーゲル弁証法は、法哲学を中心にした現実世界の肯定に繋がってゆく。
 共産主義によるヘーゲル弁証法の逆立ちに関する一般的非難は、このヘーゲルの現状肯定ぶりに向けられている。つまりその非難は、ヘーゲルにおける改革的視点の欠如に集中している。確かにマルクスによるヘーゲル非難も、その点に集中している。ただしマルクスによる非難の肝要は、ヘーゲル弁証法のもつ目的論にある。

 ヘーゲルにおいて現実世界の動因は、現実世界の中に無く、意識世界の中にのみある。一方でマルクスにおいて現実世界の動因は、意識世界の中に無く、現実世界の中にのみある。言い換えると、ヘーゲルにおいて答えは、太古から観念として既にある。一方でマルクスにおいて答えは、太古からあったわけではないが、少なくとも現時点の事実に対して答えがある。またヘーゲルにおいて答えは、将来にわたって観念として不変である。一方でマルクスにおいて答えは、将来にわたって不変ではないが、少なくとも現時点の事実に対して不変である。現時点の答えの実在性と不変性で見ると、ヘーゲルとマルクスに差異は無いが、同じ答えの過去と未来における実在性と不変性で見ると、両者には決定的な差異が生まれる。
 ヘーゲル弁証法の逆立ちは、人間の自律性を無限存在としての神に従属させる。この視点の危険性は、神が存在をやめる場合に人間が真性の回復を果し得ないことである。目的論を信奉した場合、目的が正しい限り、その理屈に従って考えて行動するだけで良い。しかし目的が誤っている場合や目的が変質した場合、その理屈に従って考えて行動しても必ず失敗する。しかも目的が放つイデオロギー的暴走を食い止める根拠、すなわち事実の優位性を既に自ら放棄している。マルクスによるヘーゲル弁証法の逆立ちの指摘は、思考と行動の真性を、目的および観念ではなく、事実および物質に求めることに帰結する。
 弁証法に対するヘーゲルとマルクスの関係に似た位置関係を、時間形式における規定的優位性に対するハイデガーとサルトルの関係に見出せる。ハイデガーは未来に規定的優位性を措くが、サルトルは現在に規定的優位性を措く。明らかにハイデガーは伝統的な目的に規定される観念論に固着しているが、サルトルは事実に規定される唯物論へと足場をシフトしている。

 なおヘーゲル弁証法の逆立ちを指摘したのは、マルクスのほかにキェルケゴールがいる。なるほどヘーゲル弁証法において、存在者は楽屋に控えているイデアが登場するための仮衣装にすぎず、実存は本質に後立っている。キェルケゴールの憤慨も当然である。そしてその憤慨は、フォイエルバッハを通じてマルクスがヘーゲルに対して抱いた憤慨と同じものである。しかしキェルケゴールは、マルクスとエンゲルスのように唯物弁証法に向かわず、独自の方向に進んだ。キェルケゴールでは、イデアの目的は存在者だけに向いている。本質は実存から離れることは無く、むしろ実存が本質に先立っている。ヘーゲルにおいて神は人間に無関心だったのに対し、キェルケゴールにおいて神は人間にだけ関心を持っている。したがってヘーゲルにおける弁証法がイデアの自己導出的現実化であったのに対し、キェルケゴールにおける弁証法は神による人間的実存の啓示として現われる。このために先にヘーゲルやマルクスを読んでからキェルケゴールを読むと、その異様なまでの目的論化された弁証法に仰天するはずである。それはまるで、人間の宿命とか運命の体系と言っても良い。また逆に、先にキェルケゴールを読んでからヘーゲルやマルクスを読むと、それは人間論から一歩距離を置いた無味乾燥な、およそ人間的ではない弁証法に見えるはずである。しかしキェルケゴールの弁証法は、目的論的弁証法という点で、ヘーゲルの弁証法と何も変わっていない。それはヘーゲル弁証法が持つ目的論的性格を、存在者一般ではなく、個別存在者において実現させたものでしかない。
(2011/08/07初稿、2015/05/11改訂)

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