唯物論者

唯物論の再構築

質的弁証法

2013-07-23 07:59:55 | 弁証法

 ヘーゲルにおいて理念とは、あれもこれも吸収する知の体系であり、全方向で深化を遂げる無限の実体である。一方で無限存在としての理念と違い、有限存在の知は、理念の一部分の断片的表現にすぎない。とは言えその知が持つ有限性は、個別存在それぞれの知を即座に誤りに変えるものではない。個別存在それぞれの知は、それぞれの個別存在から見えた理念の実断面であり、低次の真理としての有意性を持つからである。とは言え無限な実体の知は、個別存在の有限な知と区別される。このために個別存在の知は、自らの有限性を乗り越えて、実体の無限性を目指すことになる。すなわち低次の真理は、自らの実体に即しただけの直観的な姿の廃棄を目指す。今では個別存在の知は、実体の断面を積分し、自ら高次の真理として現れるようになる。すなわちそれは、概念として自ら実体に対抗して現れる知の体系となる。ヘーゲルは、このような知の運動を、超越的な原初理念自らの現実化として扱う。そして今では、現実化した理念としての知の体系こそが真理となる。逆にその知の体系を基礎づけたはずの原初理念、およびそれを概念へと媒介した個別者の直観の両方が、低次の真理に、それどころか無に扱われ、知の体系から放逐される。なるほどかつて低次の真理は、低次の真理ではなく、真正の真理であった。しかし対象の本質を体現する概念の登場は、現象した直観を、低次の真理どころか仮象にまで格落ちさせるわけである。
 このようなヘーゲルの理屈は、知の深化において対象の真理を世界のうちに現実化させることに成功した。本質として現実化した知は、メートル原器のように自らを基準にして、巷に現象する個別存在の知に対し、真偽決定を行なう。今では知の体系の方が主人であり、個別存在の知は奴隷にすぎない。奴隷の主張が真理たり得る条件は、主人の承認だけである。個別存在の知ではなく、現実化した知の体系こそが真理の基準なのである。個別存在の知は、自らが真理であると叫ぶことを許されない。しかしヘーゲルの理屈は明らかに変である。高次の真理は、低次の真理を媒介にしてのみ、自らを外化できる。個別存在を媒介にしなければ、理念は自らを現実化できない。外化できない理念は、無に等しく、真理たり得ない。しかも個別存在における超出は、常に出来合いの知の体系の側から虚偽と宣告される運命にある。ところがどのように排除しようとも、個別者の意識こそが、原初の理念が現象する場である。すなわち個別者における直観こそが理念の表出であり、超出である。そもそも知の体系の根拠には、原初理念ならぬ所与が必要である。また所与を概念へと媒介したのは個別者の直観である。それなのになぜ根拠づけられた側の知の体系が、根拠づける側の所与や現象を虚偽に扱えるのだろうか? このような素直な疑問は、ヘーゲル弁証法に対して、フッサール現象学の優位を与えることになる。ところが現象における真理の低次性を維持したままでは、知は深化することができない。このために現象学は、知の深化を拒否し、真理の露呈だけが可能だとみなすに至った。しかし露呈可能な真理は、あらかじめ隠蔽されている必要がある。そして隠蔽可能な真理は、あらかじめ実在している必要がある。およそそのような真理は、論理帰結の原初に潜む真理、すなわち定理としてのみ存在可能である。現象学は、基本的にカテゴリー間の連携が論理帰結だけに縛られた静的な体系であり、カテゴリー間の連繋を因果帰結させる弁証法と相容れない。したがって現象学の哲学体系は、恐竜時代に資本主義的真理が実在可能なのかと、レーニンから罵声を受けるであろう内容になっている。実際にはこのような現象学の困難は、現象学の登場以前にマルクスとキェルケゴールが、それぞれ別様の仕方で解決している。
 ヘーゲルによれば、ミネルヴァの梟は夕刻を待って飛び立つ。その例えが言い表しているのは、夕刻を待たねば知の体系の現実化が始まらないことである。一般にこのヘーゲルの例えは、ヘーゲル弁証法が現実世界の解釈だけを可能にし、現実世界の改革を断念したものと理解されている。またヘーゲル自らも、知の体系が現実世界の動きの後追いしかできないのを認めている。ヘーゲルにおいて論理とは、学でありロゴスである。それは日々成長し、充実を極める。それは無限の命を得ており、挫折することを知らない。一方で真理を媒介した個別者は、有限存在であり、挫折の宿命を生まれながら背負っている。無限存在があれもこれも吸収するのに対し、有限存在の前にはあれかこれかの選択が待ち構えている。無限存在には、過去の自己と現在の自己との間に断絶が起きない。なぜなら無限存在における現在の自己は、過去の自己を深化させただけに過ぎず、過去の自己の延長上にいるからである。それに対して有限存在には、過去の自己と現在の自己との間に宿命的な断絶が起きる。つまり現在の自己は、過去の自己を深化させたものとは限らない。と言うよりも、そのような断絶はむしろ必然だとみなされている。結果的に現在の自己は、常に過去の自己を放棄した飛躍存在として現れる。ところが実際にはその断絶においても、有限存在は自己としての意識の一貫性を得ている。それどころか有限存在は、他者になろうにもなり得ない。したがって有限存在に起きた断絶は、断絶でありながら、やはり深化だったことになる。ただし有限存在におけるこの深化は、無限存在における深化と性格を違えている。無限存在の論理は、自らの誤った過去の論理を包括しており、常に過去の論理の延長上に立っていた。しかし有限存在の論理は、前出のように、自らの誤った過去の論理を放棄するしかない。その場合に有限存在は、常に自らの論理の非整合と向き合わなければならないからである。

 ヘーゲル弁証法における認識の深化は、常に存在の深化を装っている。なぜならヘーゲル弁証法では、認識の深化を現実化したものが、存在の深化だと理解されているからである。しかしマルクスとキェルケゴールは、このヘーゲル弁証法の逆立ちを正し、存在の深化から認識の深化を語ろうとした。両者共に、存在の断絶と飛躍において、ヘーゲル流の解釈学を乗り越えようとしたわけである。ただしマルクスとキェルケゴールでは、有限存在における論理の断絶と飛躍の扱い方は全く異なる。マルクス/エンゲルスの唯物弁証法では、極端に言えば存在の深化とは、それ自体が物理現象である。論理の断絶と飛躍は、物理レベルの存在の断絶と飛躍が、認識に反映しただけにすぎない。つまり現実世界の破綻と自己修復が、知の体系の抱えてきた欠陥を暴露し、その修復を促すのであり、その逆では無い。したがって唯物弁証法では、人間の理解を超えた歴史的巨視レベルの現実世界の運動が、現実世界自らの挫折を解消することを予期している。ただし唯物弁証法は、そのような機械的唯物論に留まることは無く、さらにそれを意識の運動へと連携させる。存在の深化は、存在自らの運動だけから発動するのではなく、認識の深化からも発動するからである。そのように弁証法を理解するなら、弁証法は現実世界の解釈だけに留まらず、現実世界の改革の道を指し示す強力な思想的武器となる。なぜなら、現実世界が自らの矛盾解消のために展開するであろう運動も、現実世界が抱えた内在的矛盾の分析を介して解明可能であり、意識の側からも実行され得るからである。このためにマルクスにおけるミネルヴァの梟は、夕刻を待って飛び立つ必要が無い。梟は夕刻が到来する意味をあらかじめ知ることができ、夕刻を待たずに飛び立つことができるからである。

 一方でキェルケゴールは、ヘーゲル弁証法を量的弁証法とみなし、自らの弁証法を質的弁証法と呼んだ。その質的弁証法では、存在の深化とは有限存在の深化であり、すなわちそれは現実存在の深化である。もちろんそれは、キェルケゴール自らの深化だと言っても良い。そして論理の断絶と飛躍とは、有限存在自らの挫折と再出発の歴史にほかならない。彼の質的弁証法は、唯物弁証法のように挫折の理由を現実世界の中に求めない。挫折の理由は常に自らの内にある。したがって変わるべきなのは、現実世界ではなく、有限存在自らである。存在の深化は、一見すると現実世界の要請で発動するのだが、実際には謎の因果に導かれる形で有限存在の内から発動する。そのことを除けば、キェルケゴールの弁証法は、ヘーゲルの弁証法と同様に、自らの存在の変遷を解釈することに終始している。ただし有限存在は、最後に解釈の軌跡それ自体の解釈を始める。その最後の解釈の対象は、自らを導いた原初理念の正体である。この最後の解釈は、論理の飛躍の最後にふさわしい飛躍を有限存在にもたらす。ただしそこには合理的な説明は無い。キェルケゴールにおける弁証法の理解は、現実世界の解釈に興味を持つものではない。彼が関心を寄せる先は、常に自らの存在だけである。当然ながら彼の理屈は、唯物弁証法と違い、合理をもって自らを裏付けることにも関心を持たない。もちろん彼の理屈にも、それなりの理屈付けは常に存在する。しかしその理屈付けは、科学ではなく、むしろ文学として現われている。ヘーゲル弁証法におけるミネルヴァの梟は、常に既に夕刻の到来を迎えていた。なぜならヘーゲル弁証法における夕刻の到来は、いつも過去の出来事だったからである。ところがキェルケゴールにおけるミネルヴァの梟は、夕刻の到来を自ら悟る。夕刻の到来は、世俗的な出来事として現実世界の側から到来するものではない。それは、現実存在の内奥から、自らの決意として出現する。したがってキェルケゴールの梟は、自らが夕刻の到来と飛び立つべき先を決定し、自らの意志に従う形で飛び立つ。ただしキェルケゴールの実存主義は、ニーチェ流の超人思想ではない。キェルケゴールは、自らの原罪に苦しんでおり、現実存在の向かう先が他者との関わりにあると理解しているからである。もちろんその理解は、世俗世界における世俗的関心へと向かうものでもない。彼の興味は、常に魂の救済に向いている。それが最終的に向かう先は、世俗世界における宗教的理想の実現である。
(2013/07/23)


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