唯物論者

唯物論の再構築

定立と反定立

2012-05-03 11:28:13 | 弁証法

 「純粋理性批判」の先験的弁証論でカントは、理性概念において矛盾対立する二つの定言を取り上げ、それぞれを定立と反定立として示した。そこでの定立命題と反定立命題は、それぞれ先験論と経験論を表現するものであり、カントは両命題の対立が解消するのを不可能とみなした。ただし彼は、両者のいずれにも優位性を認めないと述べながら、実際には著作の冒頭から先験論の優位を説いている。
 ここでカントが定立命題として示したのは、以下である。これらはアリストテレスが示した四原因(形相因・質料因・目的因・始動因)にそれぞれ対応している。



・時空は有限である。
・複合的実体は単純体から成る。
・因果の始点は自由である。
・因果には始点がある。



 カントはこれらの先験的命題を観念論とみなし、これらの定立命題に対抗する反定立命題を唯物論になぞらえる。それは、宇宙に始まりがあると考えるのは観念論、その逆は唯物論とカントが考えていたからである。しかしこの見方は、明らかに現代では通用しない。とくに目立つのは、複合的実体は単純体から成るという二番目の命題である。カントはこの考えについて接頭語をつけて先験的原子論と評価しているが、原子論であるのは変わらない。あからさまにそれはデモクリトスやエピクロスの唯物論そのものである。したがって反定立命題を唯物論に扱うカントの見方は、現代どころか古代になると、なおのこと通用しない。つまりカントの示した先験的定立命題は、もともと全て唯物論なのである。カントがこれら定立命題をことさら観念論に扱いたがる理由は、自由な意識としての神が宇宙を産み出したとする彼の宗教的信念にあると同時に、彼の考える唯物論に対して、現実世界に自由が存在し得るのを宣言するためであった。もちろんカントの考えたように、自由を認めない反定立命題が無神論であるのは正しい。しかしカントは反定立命題をエピクロスの唯物論になぞらえているが、エピクロスは偶然の偏在において自由の実在を説明している。正しくは、スピノザ流の機械的唯物論になぞらえたとすべきである。



 カントの二者択一型弁証論に対してヘーゲルは、その定立と反定立の矛盾対立を解消可能と考えた。そしてカントの先験的弁証論を、ヘーゲルは論理が目的論的に進化する弁証法に改造する。ヘーゲルにより今では時空は、神的意識の制約に従って無限に拡張する有限世界に変わった。また実体も、単純体から産まれ出た分割不可能な複合体となった。さらに現実世界の不自由、すなわち必然とは、神的意識の自由の現われとなり、現実の因果系列も、神的意識が開始するからこそ始まり、神的意識が終わらせるまで続くだけの有限な無限因果となった。ただしすぐわかるようにヘーゲル弁証法は、現実世界の運命を骨の髄まで神の呪縛に屈従させる理屈である。つまりそれは、現状肯定に徹した単なる全体主義にすぎず、カントが経験論や機械的唯物論に対して抱いた不満をそのまま受け取るに値する代物であった。しかもヘーゲルの言う自由は、神の自由にすぎない。それは、エピクロスの言う自由が物体の自由にすぎなかったのと同様に、人間の自由では無い。スピノザの否定がカントであったなら、カントの否定であるヘーゲルが、スピノザへと回帰するのも理の当然だったわけである。
 ヘーゲルは、スピノザと同様に、有限者としての人間の自由を許さず、唯一実体としての神の自由だけを許容する。つまり全ての始点としての神だけが自由であり、それ以外の派生的有限者に自由は存在しない。ヘーゲルと違い、現秩序に偽りの全体を見出し、そこでそのような現体制を拒否する意識は、無政府主義や共産主義のような反体制思想になった。しかしヘーゲルの現状肯定論に対して共産主義以上に反発したのは、実存主義である。共産主義は、貧者が現体制から見捨てられている限りで、全体主義に憤慨する。しかしそれは、自らが新体制を形成する限りで、ヘーゲル顔負けに全体主義を賞賛したからである。一方の実存主義は、全ての現実に対抗しようとする意識の完全自由を目指した。しかし現実との紐帯をほどいてしまえば、意識は次に目指すべき自由を見失う。実存主義は、無方向に自由の実践を目指し、最終的に得体の知れない情念の噴出だけを残して消えていった。



 カントが提示した定立と反定立についてのヘーゲルの解決策は、ビッグバンに始まり、光速で拡張する現代の宇宙論と同じものである。しかしこの理屈では、原初において神の自由が存在したが、その後の宇宙の歴史において自由は存在しない。したがってこの解決策にカントは満足しないはずである。解決されたのに満足しないのは、解決策において自由の実在が拒否されたからである。この不満は、カントが定立と反定立の各命題を人間についてではなく、存在一般において示したことに起因する。したがってカントの定立と反定立の各命題は、次のように書き直される必要がある。



・人間の時空は有限である。
・人間の複合的実体は単純体から成る。
・人間の因果の始点は自由である。
・人間の因果には始点がある。



これだとわけがわからないので、次のように書き直す。



・人類史と人間世界の範囲は限定されている。
・国家および共同体は個人から成る。
・人間は自由である。
・人間および人類史は始まりをもつ。



上記定立命題が表現するのは、自由において人間は始まり、自由の死滅において人間が終わるということである。またそのことは人的複合体の成立も制約している。つまり複合体としての国家および共同体は、自由な単純体、すなわち個人から産まれ出たものにほかならない。そしてこの限界内においてのみ、動物の一種としての人類が、人間としての時間と空間を得るわけである。
 同様に、反定立命題は次のようになる。



・人類史と人間世界の範囲は無限定である。
・国家および共同体は個人を超越した不可分な実体である。
・人間は必然にのみ従う。
・人間および人類史は始まりをもたない。



上記の反定立命題は、極端に言い換えれば、人間を原初から未来永劫、神の奴隷にするものである。この見解は、進化論に対抗する一部の宗教理論のように見えるが、スピノザやヘーゲルの見解と実質的に同じである。ただし上記反定立命題は、存在一般を人間に書き換えたことにより、人間の定義が不明瞭であるのが露呈している。明らかに上記反定立命題は、観念論なのである。したがってここにはヘーゲル弁証法の出番は無く、カント流の二者択一型弁証論により上記の反定立命題は拒否され得る。
(2012/05/03)




   
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