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唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学 本質論 解題(1.存在論と本質論の対応(3))

2021-03-23 00:09:35 | ヘーゲル大論理学本質論

以下に大論理学の第一巻存在論の第三篇「度量」論と第二巻本質論第三篇「現実性」論の各章の論理展開における異名同内容をまとめる。


・反省と開示

 度量はまず比率量として現れる。この比率量は自己に復帰した自己自身である。それは多の全体としての一、または量の塊としての質であり、したがって自己自身を反省する自己である。しかしその反省が恣意であるなら、自己復帰した質も絶対者から流出した実体の印象に留まる。その程度の悟性的反省は、外的な反省である。そのような反省に現れる実体は、一方で脱自しない存在の直接態となり、他方で認識を寄せ付けない物自体となる。スピノザにおいてそれは、思惟と延長が統一した物理特性となった。またライプニッツにおいてそれは、全体との調整を欠いた単子となった。これに対して内的な反省は、恣意的限定を否定した絶対者自身の開示である。


・比率量と属性

 絶対者は力の外面と内面の排他的相関の全体である。生成消滅する有限者は、絶対者の自己開示の終端にすぎない。このような有限者と違い、無限者は量と質の排他的統一であり、反省された無限定な質である。すなわち絶対者は絶対的同一性である。絶対的同一性には全ての差異が欠落する。すなわちそれは無と等しい。そしてこのような無が限定一般を可能にしている。ただしここでの限定は、限定存在の質と相関しない単純比である。その相対的なだけの部分的本質は、存在論で比率量として現れ、本質論で属性として現れる。それらは限定存在の対他的な質である。しかしその限定の相対性は、比率量や属性を相対的絶対者に留める。それは限定存在の質と相関しない対他的質である。この絶対者の相対性は、機械論やピタゴラス式神秘主義をもたらす。それゆえに限定存在は、脱自において自らの限定に対して無関心な全体へと復帰する。


・抽象的度量と様相

 存在論では量の塊としての質が抽象的度量として現れる。それは自己復帰した相対的絶対者である。本質論では様相がこれに当たる。ただしこれらは絶対者の外面である。この相対的絶対者の全体は、反省としての自己復帰である。そしてこの反省の運動が、絶対者の自己同一性を成す絶対者の内面である。反省の運動において絶対者の外面と内面は一致し、その形式と内容の区別は消失する。度量は内包量の増減において自らの対他的質を増減させる。このような度量自らの質の増減は、度量間の相対的な単純比を冪比に変える。それが表現するのは、各限定存在の自立である。これにより限定存在の対他的な質は、即自的な質に転化する。


・現実的度量と現実性

 度量の相対的な冪比は、相対する度量間の一方で現れるだけでは、まだ様相としての相対的絶対者に留まる。それは重さと延長などの質の二次元な量的比率により、物体の外面的な質を構成する。しかしそれが絶対的となるためには、冪比が相対する度量間の両方で現れなければならない。そのような限定存在の様相が、現実性である。そしてこの現実性において抽象的度量は現実的度量となる。ここでの冪比は対他比を限定する即自比であり、現実性において両比は排他的に統一する。そこにおいて冪比は実在的な比となる。


・即自規定存在と可能性

 実在的な冪比が表現するのは、限定存在の質的自己限定である。したがってそれはすでに物体の直接的な質であり、限定存在の即自規定存在である。そしてこの質を自己限定する現実的な物体が化合物である。限定存在においてその質的自己限定は、自己自身の現実から外れる自己の可能性である。それは全体の現実を超える可能の積極面である。そして現実の自己自身は、全体の現実を超えられない可能の消極面である。自己はこの現実の自己自身を廃棄することで、可能としての自己を現実にする。


・親和と偶然性

 限定存在の形式的実存は、現実性と可能性の統一である。ただしその最初の統一は、現実の自己自身と可能な自己の単なる統一である。それは未来と過去を統一する単なる現在である。二つの物体の単純な統一では、さしあたり二物は対立せずに親和する。ただしその親和の内実は、対立に対する二物の無関心である。このような二物の統一は、単なる混合である。混合での各種の現実と可能、すなわち各種の度量単位と即自規定存在の相関は、新たな度量単位を構成する。例えば比重と体積の相関は、混合容積を構成する。しかし主張し合うことも無い即自規定存在同士は、互いに相手の現実的度量に無関心である。そこで構成された度量単位は、混合物の外面的な質に留まる。この外面的な質では、可能と現実の相関が廃棄されている。したがってその質は流動的である。その混合物の現実は可能なだけであり、現実性を持たない。そしてその現実に無関心な可能も、可能性ではない。このような現実と可能の単なる統一が偶然性である。


・中和と必然性

 二物の各即自規定存在の相互に無関心な自立は、二物の混合を機械論的結合に留める。しかし即自規定存在の自立は、他の即自規定存在と対立する。それゆえに個々の現実的度量が量として現れる一方で、即自規定存在は量の限界を規定する。その量的限界は、親和する二物の無関心な対立を中和する。それは外延的に親和する二物の内包的な親和であり、すなわち化合である。それは二物の質を否定した混合をさらに否定する。これにより機械論的に結合された二物は、より強固かつ高度に組織されて有機的に結合する。中和では現実性のない偶然な現実は単なる可能に転じ、逆に偶然に留まっていた可能が現実に転じる。物体の自己と非同一な現実と可能は、他者において自己と同一する。その無根拠な実存は、反省において偶然としての自己自身を廃棄し、自己を必然とする。


・有機体と実在的現実

 混合において偶然に留まっていた二物の親和は、化合において必然的な相関に転じる。すなわち二物における偶然な単純比例等式は、必然の冪比例等式に入れ替わる。このような限定存在の様相は、現実性である。ただしここでの現実性は、有機体における二物の排他的統一である。有機体が排他的統一するのは、二物がそれぞれ他方となる可能と現実である。それゆえにその現実性は、実在的な現実性である。


・関係選択と実在的可能

 二物の中和は、両者の中立的な度量単位となる新たな質を擁立する。この新たな質が二物を相互比較可能にする。またこの新たな質は、それ自身が二物の有機的結合した有機体の質である。したがって有機体は、有機体自身を度量単位にして二物を相互比較する。この比較可能は、そのまま有機体における二物の関係選択の実在的可能である。すなわち相互比較が二物の関係選択を可能にする。


・対自規定存在と実在的必然

 もともと限定量の目盛りと違い、度量の目盛りは比率である。そして比率を可能にするのは、限定量の全体との対自である。したがって実在的な冪比が限定存在の即自規定存在である時点で、既にその対自は限定量を限界づけている。その限界限定は、対自による即自規定存在の否定である。しかしその限界づけを関係選択により否定するのも、やはり対自である。この即自規定存在の対自的質は、対自規定存在として即自規定存在と区別される。有機体は、この即自規定存在を自己限定する現実的な化合物になっている。即自規定存在においてもその質的自己限定は、自己自身の現実から外れる自己の可能性である。しかし対自規定存在の可能性は、現実性を自己に統一する。それゆえに有機体は、それ自身が実在的な必然である。


・飛躍と絶対的必然

 関係選択は実在的可能だが、そのままではまだ可能に留まる。すなわちそれは、ただ可能なだけである。それゆえに実在的必然も形式的必然にすぎない。それは偶然と変わらない必然である。二物は即自規定存在の中和を二物の他者に委ねており、その他者を両者は質的限界に有機体として擁立する。したがって有機体にとって二物は、有機体自身としての過去的契機である。それらの二物は有機体にとっても制約である。ただしそれらは有機体にとって、可能にも現実にもなる絶対的可能である。一方で二物にとって有機体は、二物の調停者としての対自規定存在である。それゆえに有機体は自ら対自規定存在として、即自規定存在が規定する限定量の限界を否定する。そして関係選択においてそれを規定し直す。このように自己限定する有機体は、限界量の自立した質である。そこでの量から質への飛躍が有機体の自己を絶対的必然にする。もちろんこのときの有機体は、単なる実在的必然として有機体では既にない。。


・事(仕事)と絶対的相関

 中和において二物の自己自身は廃棄され、一つの有機体の自己に排他的統一される。したがって中和は絶対的可能を廃棄し、それを絶対的現実にする。絶対的現実は必然を即自存在とする空虚な現実である。したがってそれはやはり絶対的可能である。しかしこの可能と現実の空虚な統一は絶対的必然ではなく、実在的必然である。それゆえに実在的必然の対自は、この空虚な自己自身を単なる偶然として否定する。これにより実在的必然は単なる偶然を脱して、自己限定する絶対的必然となる。したがって絶対的必然は、物理的偶然を脱して自己限定する偶然である。すなわちそれは絶対自由である。その絶対自由は、形式と内容の区別を廃棄する。あるいは逆にそのような区別の廃棄が、絶対自由である。いずれにせよ実在的必然と同様に、絶対自由の自己限定は絶対的可能を廃棄し、絶対的現実を擁立する。そのような絶対自由な自己は、自己相関する実体である。この絶対的可能と絶対的現実の排他的統一は、対自の媒介を通じて一つの全体を成す。それが絶対的相関である。存在論ではそのような全体を物体と区別し、事(仕事)として扱う。それは自由に関係選択する自己同一な物理的本質である。


・存在と本質の概念

 存在論の本章は存在から始まり、本質論の本章は印象、すなわち本質と区別された存在から始まる。したがって存在論と本質論はともに存在から始まる。ただしその存在は、存在論でも純粋存在ではなく、本質論でも純粋本質ではない。いずれにおいてもその存在は、存在と無が排他的統一する成である。ただしその成は、その存在の直接態において単なる印象に留まる。しかしその印象は、絶対者による自己顕示である。それが顕示するのは、存在と無、自己自身と自己の相互反転する全体である。存在論においてそれは質と量が統一する度量であり、本質論においてそれは偶然と必然が統一する現実である。それらはいずれも区別を廃棄した無差別として最初の存在に復帰する。しかしいずれの存在も最初の即自存在ではなく、廃棄した区別を内包した対自存在となっている。そしてそのことの対自が、存在を本質にし、本質を概念とする。


・存在と本質の移行

 存在の対自は、無差別な純粋存在への自己復帰を拒否する。同様に本質の対自は、無差別な純粋本質への自己復帰を拒否する。それゆえに存在は本質に移行し、本質は概念に移行する。無差別な自己において脱自する自己とその自己自身は、常に量的不均衡にある。ここでは一方が質なら他方は量である。その相関では一方が増大すれば他方が縮小し、他方が増大すれば一方が縮小する。しかしこの逆比例の相関は、自立する自己と自己自身を相互に反発させる。またそのような相関は、存在の悪無限な即自的質に留まる。それゆえに対自は、その否定的統一を自己と自己自身が調停する対自的質として擁立する。それが存在論における本質であり、本質論における概念である。


・宿命と因果

 存在論において存在は自らを事(仕事)として擁立し、本質論において本質は自らを絶対的相関として擁立する。ただし存在論における事の擁立は、度量論に至る存在論の陳述内容の全体を超える内容を持たない。その自己自身と自己の否定的統一は、宿命の一語でまとめられる。これに対して本質論における絶対的相関は、因果として示される。存在論において自己は、自己自身の無限定な形式であった。これに対して本質論は、絶対自由の自己相関に至る本質論の陳述内容を総括し、自己を自己自身を擁立する力とする。すなわち自己自身は制約であるが、原因ではない。自己が原因であり、結果が自己自身である。物体を原因とする因果は、外面的な形式的因果である。そこでは原因が結果の内に消滅する。そのような因果は悪無限な原因連鎖であり、事(仕事)の体を成していない。内面的な現実的因果は、自己関係的因果である。そこでは原因が結果の内に消滅せず、結果を媒介にして自己復帰する。それは生活財を財物に仕上げて自己の生活を得る労働であり、労働を生活財に交換して生計を立てる仕事の因果である。

(2021/03/22)前の記事⇒(2)量と現象


ヘーゲル大論理学 本質論 解題
  1.存在論と本質論の対応
    (1)質と本質
    (2)量と現象
    (3)度量と現実性
  2.ヘーゲル本質論とマルクス商品論
  3.使用価値と交換価値

ヘーゲル大論理学 本質論 要約  ・・・ 本質論の論理展開全体
  1編 本質 1章   ・・・ 印象(仮象)
        2章   ・・・ 反省された限定
        3章   ・・・ 根拠
  2編 現象 1章   ・・・ 実存
        2章   ・・・ 現象
        3章   ・・・ 本質的相関
  3編 現実 1章   ・・・ 絶対者
        2章   ・・・ 現実
        3章   ・・・ 絶対的相関

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