唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学 本質論 解題(1.存在論と本質論の対応(1))

2021-03-22 06:31:39 | ヘーゲル大論理学本質論

以下に大論理学の第一巻存在論の第一篇「」論と第二巻本質論第一篇「本質」論の各章の論理展開における異名同内容をまとめる。


・成と反省

 存在は無と区別される。しかし無が存在の否定であり、存在が無の否定なら、存在は自己の否定の否定である。ただしこの自己の二重否定に現れる存在は、純粋存在ではない。その存在は、無との排他的統一にある。その端的な姿は、線と空白のそれぞれの開始終了を表現する線分の端点である。そしてそのように存在は成である。同様に純粋本質ならぬ本質は、自己の二重否定である。その本質は、非本質との排他的統一にある。このような本質の成が反省である。


・純粋存在と純粋本質

 諸論においてヘーゲルは、始元存在と純粋存在を区別し、始元存在を存在としている。ここで言う始元存在とは、存在と無の排他的統一存在である。そして純粋存在とは、ただ存在であるだけの無限定な存在を指す。ところが純粋存在と純粋無は相互依存する。そしてその相対性はその純粋性と矛盾する。したがって論理が始まるための存在は、始元存在でなければいけない。一方で同じ事情は、純粋本質にも該当する。純粋本質とは、無限定な本質である。しかしそれは、ただ無であるだけの純粋無である。その純粋性は、純粋存在と同様に、相対的で純粋ではない。その無は、存在の単なる反照である。


・質と本質

 存在論の本篇は質から始まり、本質論の本篇は本質から始まる。存在論における始まりの質は、存在である。それに対して本質論における始まりの本質は、存在する無である。なぜなら本質は存在の対極だからである。とは言え質と本質は、やはり両方ともに質である。したがって質と本質は、対極でもあり同極でもある。


・存在と印象

 存在論と本質論の本編の始まりが対極の名前付けであるのに対し、存在論の本章は存在から始まり、本質論の本章は印象から始まる。印象とは、本質と区別された存在を指す。したがって章立てから見ると、存在論と本質論はともに存在から始まる。つまり両論の篇立ての名前付けが対極で始まるのに対し、両論の章立ての名前付けは同極で始まる。とは言え存在と印象は、その直接性と虚無性において対極である。すなわち存在と印象は、同極でもあり対極でもある。


・排他的統一の論理上の先行

 大論理学における諸論の本論からの分離は、存在論と本質論の両方に充当する汎用論理として、対立二項の排他的統一を独立して扱う必要に従う。またこの分離により、ヘーゲルは上記に示した存在論と本質論における始まりの篇立てと章立ての名前付けの矛盾、およびそれぞれの名前付けが含む矛盾を解消している。


・区別と非本質

 存在の質的限定は、存在と無の区別に始まる。その区別は、存在であるかないかの区別でしかあり得ない。つまりその区別の現れは、存在における無の現れに等しい。したがって区別はそれ自体が無である。それはただ無に過ぎない純粋無である。一方で本質の限定は、本質と存在との区別に始まる。もちろんその区別は、本質と非本質の区別である。すなわち存在が本質と区別されるなら、存在とは既に非本質である。本質に対するこの存在は、本質ならぬ空無な印象に格落ちしている。


・観念と物体

 存在と無の排他統一である成は、それ自身が運動する存在である。その対極には運動しない存在が現れる。それが観念である。もちろんそれは端的に言えば存在ではない。同様に本質と非本質の排他的統一である反省は、脱自する本質である。その対極には脱自しない本質が現れる。それは物体である。もちろんそれは端的に言えば本質ではない。それは無根拠な直接的存在であり、実存の非本質的外面である。この物体との比較で言えば、観念は実存しない外面的本質である。


・成と反省における限定存在

 成における存在と無の排他的統一は、両者の区別を廃棄して存在を無限定にする。しかしその無限定の限定は、再び存在の無限定を廃棄して存在を限定存在にする。一方で反省においても、本質と非本質の排他的統一は、両者の区別を廃棄して本質を無限定にする。そこで反省は、自己の前提存在を自己自身として擁立する。もちろんこの反省が擁立する存在は、反省の対極にいる。すなわちそれは物体である。しかしそのような物体は、前提と反省を分離する。それでも反省が自己と物体を結合するなら、その結合は外的である。ただしその外的反省は恣意である。それゆえに存在と本質の分断に対する反省は、物体の前提を廃棄し、前提存在を観念として限定する。この観念は、反省された限定存在である。


・全体と同一、部分と区別、個物と特性

 もともと存在の実在性は、無限定な存在を限定する無である。しかし直接知の存在は、常に部分である。その対極には常に全体が現れる。それゆえに全体は、存在の対極にある絶対無である。ここでも絶対無は、全体に実在性を与える。なぜなら存在と違い、絶対無は常に自己同一だからである。したがって実在性は部分から全体へと移る。この実在性の移動は、全体を個物として外化する。実在性が全体の側に現れる以上、部分としての存在は空無となる。一方で本質論における絶対無は、本質の自己自身である。ここでも無の自己同一は、本質の自己自身に実在性を与え、それを同一律として外化する。ただし全体にしても同一律にしても、実際にはその外化において過去的経緯の捨象が入っている。それは全体が含む部分の捨象であり、同一が含む区別の捨象である。それゆえに同一律に対する反省は、次に自己自身を矛盾律とする。同様に存在論において全体から放逐された部分も、無限定な個物を限定する特性として自己を擁立する。


・此の物と差異

 部分を捨象した全体は全体ではない。それゆえに部分と全体は、成において排他的統一している。この自己自身と自己の無差別化は、存在論における全体の乱立、ないしは部分の乱立をもたらす。同様に本質論においても、区別を捨象した同一も同一ではないので、区別と同一は反省において排他的統一する。やはりそれは本質論における同一または区別の乱立をもたらす。いずれの乱立においても再燃するのは限定存在における無限定である。しかし個物であるにせよ、特性であるにせよ、その部分は恣意において限定される。それは存在論では此の物として限定されるし、本質論では差異として限定される。それはいずれにおいても恣意的な「これ」の特定である。


・対他存在と不等、即自存在と同等

 恣意的特定は、無差別な個物や特性に限定を持ち込む。この限定が可能なのは、個物や特性が変化するからである。ただしその変化はただの移ろいであり、個物や特性の外面的な対他存在である。それは一方を基準にして、他方の変化を捉えるだけの相対的な限定に留まる。それは時空間的な「ここ」を基準した「そこ」の特定である。この二者の特定が始まれば、特定された「ここ」と「そこ」の同等と不等が次に現れる。そしてその同等の同一および不等の同一が、次に個物や特性の内面的な即自存在を擁立する。ただし実際には、この二者の特定が既に二者の不等である。そして二者の不等が特定されなければ、二者は同等である。したがって対他存在と即自存在は、変化における区別と同一と同じものである。それは変化する個物の外面と内面になっている。そこで特性もまた、個物の外面にすぎない単なる性状、および個物の内面となる固有の規定性に区別される。即自は対他を前提し、同等は不等を前提する。


・限界と対立

 個物の固有の規定性の変化は、個物の他者への変化である。それは個物の質の変化であり、端的に言えば、存在の無への変化である。その存在と無の境界は、個物の他者にとっても同様であり、個物と他者の双方にとってその境界は、無として現れる自己の存在の限界である。この個物の存在論的限界は、本質論では同等と不等の限界である。ただしここで区別される二者は、異なる二存在ではなく、異なる二本質である。その本質論的限界は、個物の外面的境界ではない。そこでの同等な二者は、相互に不等な相手を排斥して対立する。またそうでなければ二者の間に限界は現れない。そこでは互いの同等が積極者となり、自己に対する不等を受動者たらしめる。


・対自存在と根拠

 変化する成自身の変化は、無変化な観念を成の対極に擁立した。同様に限界自身の限界は、無限界な無限定存在を限界の対極に擁立する。それは自己自身の限界を俯瞰する自己であり、実践においてそれを超越する対自存在である。それは限界から自由な限定存在であり、限界に無関心な即自存在ではない。存在論における対自存在はまず形式であり、次に質料である。いずれにおいても限界は量化しており、全ての個物はその中に包括される。このような存在論の論理展開と違い、本質論で対立の対極に現れる対自存在は、形式や質料の根拠である。根拠は対立を限定し、対立から自由な自己原因である。


・形式と質料

 個物を否定する限界の否定である対自存在は、自己復帰した限定存在である。存在論においてそれはまず限界一般としての形式であり、次に形式の他者としての質料である。ただし形式が存在する無であるのに対し、質料は空無な存在として現れる。これに対して本質論における対自存在は、二者対立の調停者である。それは積極者と受動者の根拠づけ形式として自己自身を外化する。ただしこの外化においても、根拠自身はその根拠づけから排除される。根拠づけから排除された根拠自身は、形式が前提する質料である。限定存在は、このような形式と質料の統一において自らの内容を構成する。


・カント式悟性の悪無限

 悟性にとって限定された無限者は、無限者ではなく有限者である。しかしこの前提は、両者の間に無限の懸隔を持ち込む。それは有限者による無限者への超越を不可能にする。悟性の超越は、有限者が無限者を限定するたびに新たに無限者を擁立するものとなる。しかし装いを変えても元の無限者と新たな無限者に無限者としての差異は無い。その無限者は名前を変えて同語反復している。ここでの無限者は、限定された根拠に留まる。


・シェリング式理性の悪無限

 根拠づけ形式では、外的反省が擁立する物体が実在的根拠として現れる。しかしそこに潜むのは、本質ならぬものを本質とする恣意的結合である。その根拠関係は偶然であり、実際には無根拠である。その結合が目論むのは、有限者と無限者の単純統一である。しかしそれは本質を不可知な即自存在にし、逆に有限者を即自態の無限者にする。それは理性の退行であり、理性を知の出発点に引き戻す。


・矛盾と完全な根拠

 限界内の循環と退行に対抗する即自存在は、限界外に自己を超出して対自存在と成る。それは限定からの超出なので、その限定存在も無限定存在に転じる。それは直接知の無限定を否定した限定の否定であり、成の自己復帰である。ただしこの自由な成は、限定を自己の対極にした無限定として限定されている。それは両者を排他的統一した矛盾である。ただしそれは有限者と無限者の単純統一ではなく、両者を相互媒介する第三者として自立している。本質論においてこの自由な有限者は、本質と個物を媒介する自己であり、それぞれを原因と結果として結合する完全な根拠として現れる。


・対自存在と根拠における自己分裂

 根拠づけ形式では根拠づけの前提に根拠ならぬ個物が現れる。それは根拠づけを制約する材料であり、自己にとっての自己自身である。一方でそのような個物は、根拠づけに制約されない自由を自らの根拠とする。この無制約な自由は、その無限定に即して言えば、無限定な対自存在としての純粋自我である。しかしその自由は、制約としての自己自身を前提にしている。それゆえに自己は純粋自我ではなく、自己自身を制約にした自由の形式である。このような制約と根拠、あるいは自己自身と自己は、相互に相手を前提とする相対的制約者である。


・脱自における分裂した自己の排他的統一

 自己を自己自身から超出する反省の形式は、限定存在の形式である。この形式では自己と自己自身が乱立するが、それらは唯一の全体的な自己に集約される。それは即自態の自己を否定した自己自身をさらに否定して超出した対自態の自己である。したがって反省の形式は、この自己の二重否定過程において脱自である。


・実在性と実存

 もともと自己自身の側にあった実在は、脱自において自己へと集約される。本質論においてこの二重過程は、制約と根拠が相互移行する全体である。それは自己自身と自己、制約と根拠の排他的統一であり、個物の対自態としての事(仕事)である。したがって実在するのは、個物でも制約でもなく事であり、それゆえに事は実存である。事において制約は印象に格落ちし、根拠もまた事との区別において単なる形式となる。この事において非実在として現れた観念も、実在を得ることになる。


・拡散と物体、凝集と物自体

 個物の自己は脱自において自己自身から超出する。個物の自己と自己自身の反発は、両者を拡散させる。一方で拡散する個物の自己と自己自身は、ふたたび自己に凝集して実存する。個物の自己はもともと存在の即自態であり、脱自において自己ならぬ存在となる。すなわちそれは物体である。物体は自己の外化した自己自身であり、反省において自己に復帰して観念となる。しかしその観念が物体の質を拒否する限り、復帰した自己は純粋自我に留まる。この質的限定を拒否した物体の観念が物自体である。その概念は、拡散だけを是認し、凝集を拒否する。物自体に質を凝集するためには、推論が必要である。カントは無限者にだけ物自体と質の結合を許容する。しかし既に見たように物自体は、物体を前提にして制約された根拠である。それは相対的制約者にすぎない。

(2021/03/22) 続く⇒(2)量と現象


ヘーゲル大論理学 本質論 解題
  1.存在論と本質論の対応
    (1)質と本質

    (2)量と現象
    (3)度量と現実性
  2.ヘーゲル本質論とマルクス商品論
  3.使用価値と交換価値

ヘーゲル大論理学 本質論 要約  ・・・ 本質論の論理展開全体
  1編 本質 1章   ・・・ 印象(仮象)
        2章   ・・・ 反省された限定
        3章   ・・・ 根拠
  2編 現象 1章   ・・・ 実存
        2章   ・・・ 現象
        3章   ・・・ 本質的相関
  3編 現実 1章   ・・・ 絶対者
        2章   ・・・ 現実
        3章   ・・・ 絶対的相関

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