唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学 本質論 解題(1.存在論と本質論の対応(2))

2021-03-22 08:56:01 | ヘーゲル大論理学本質論

以下に大論理学の第一巻存在論の第二篇「」論と第二巻本質論第二篇「現象」論の各章の論理展開における異名同内容をまとめる。


・量と物自体

 量は質を廃棄した個物であり、すなわち物自体である。それは脱自により無限定化した物体である。物体が脱自において廃棄された個物の自己自身であるのに対し、物自体は個物から超出した個物の自己である。したがって物自体は、個物の質から超出した本質でもある。それは変化における自己同一な実存であり、変化した質は本質ならぬ実存の外面として区別される。しかし物自体が質と切り離されるなら、その無限定は量を質に無関心な純粋量に変える。それらはいずれも自己自身を喪失した純粋自我、または質と無縁な純粋本質である。


・連続量と物体性、分離量と物質

 無限定に見える物自体は、カント式物自体と違い、全体と部分の排他的統一である。まずそれは物体の自己同一な全体である。次にその区別された部分は、外面的な特性として現れる。それゆえに物自体は、特性によって自己を限定する。しかし物自体は、その無限定において他の物自体と無差別である。それゆえに物自体同士は、無差別な量として連続する。この物自体の同一性は、それ自身が物自体の特性である。ヘーゲルはそれを物体性として表現している。この物体性によりその量の連続は、連続量として限定される。一方で特性はその限定において他の特性と差異する。それゆえに物自体同士は、区別された量として分離する。この物自体の区別は、それ自身が物自体の特性である。したがってその量の分離は、分離量として限定される。この物自体を区別する物自体の特性が、物質である。それは物体の特性が外化した観念である。


・限定量と現象

 連続量と分離量において量は限定された限定量となる。しかしその連続と分離は純粋量に吸着した特性であり、それぞれは物自体に吸着した物体性と物質にすぎない。物体性と物質の排他的統一は、個物を具体的な此の物とする。しかし此の物の物自体がそれらを吸着する穴であるなら、カントが考えたように、それらの限定は全て空虚な現象にすぎない。またそれゆえに限定量は、質に無関心な単位として数として現れることができる。限定量はそれ自身が質に無関心な量である。したがって質的差異を伴わない量の連続と分離は、綜合判断にあたらない。


・現象の分離

 脱自の自己関係では自己自身から超出した自己は、自己の限定量の限界として現れる。しかしその自己も脱自において超出される。自己自身にとって自らの外側は、超出した自己として無差別である。この無差別は自己自身の外側を外延量として分離する。一方で自己にとって自らの内側は、超出された自己自身として無差別である。この無差別は自己の内側を内包量として分離する。


・目盛りと物体

 外延量と内包量は、いずれも擁立された自己の直接的実存である。それらは対他存在として自己に復帰する。しかしそれら直接的実存は、自己と区別される限り、自己の内に現れた他者である。それゆえに互いに他者として現れる自己と自己自身の関係は、自己関係が含む自他関係になっている。ここでのそれら他者は、それが含む質に応じて、目盛りとして外化する。それは先述された物質と同じく、根拠として自立した現象である。一方で本質論において自己の内に現れる他者は、現象の内容を成す法則である。その即自態は端的に物体として現れる。したがって物体は外延と内包と同じく、自己から外化した自己自身である。そしてこのような根拠化した目盛りと物体が、物自体と現象の根拠関係を逆転させる。


・脱自の悪無限

 現象法則は、反省に現れる自己と自己自身、本質と非本質の外面的な恣意的結合形式に留まる。しかしそれは現象の自己同一的内容であり、実在する物体の多面的差異を限定する。本質と非本質の単なる全体である実存世界は、これにより現象世界に転じる。しかしこの現象世界でも現象の自己同一と区別は分離し、それぞれ現象の静的本質と動的実存として現れてくる。そこで再び現象世界のさらなる現象世界が擁立されることになる。この脱自の悪無限は、存在論においても限定量の悪無限として示されている。擁立された自他関係は、その自立において自己関係と対立する。それゆえに対他存在としての限定量は、自己復帰することなく悪無限に脱自を反復するからである。


・無限量と超感覚的世界

 限定量が外延と内包を無限超出すると、その究極に限定量の他者が擁立される。それは無限定として質的限定された限定量、すなわち無限大や無限小である。しかし無限定なだけの無限量は、限定量から切り離された悪無限の形式である。その悪無限な脱自は、無限量を到達不可能な目標に変える。その無限実践は、無限量の質的限定に対する諦念をもたらす。それゆえに到達可能な目標として脱自の自己目的化が起きる。本質論においても現象の静的本質と動的実存の分離に応じ、現象法則は本質法則と実存法則に分離する。ただしその本質法則は、部分としての実存法則を包括する全体法則である。その本質法則の究極の姿は、イデア世界としての超感覚的世界として現れる。


・限定量と無限量、現象世界と超感覚的世界の統一

 無限量の質的限定に対する諦念は、限定量と無限量の区別を断念させる。それがもたらすのは、両者を無差別化する単純統一である。その単純統一では対自存在が即自存在に退行し、即自態の対自存在が物体として外化する。しかしここでの物体は、物体法則によって根拠づけられる。そしてその物体法則は、既に物体の他者として区別されたものである。したがって物体と物体法則は、単純統一の中で分離したままである。このことは本質論における超感覚的世界と現象世界の統一にも該当する。統一世界において無限量と限定量、または本質と非本質は無差別な単純統一にあるのではなく、動的に排他的統一されている。


・比例量と本質的相関

 存在論において無限量の質的限定は、まず比例量として現れる。同様に本質論において超感覚的の質的限定は、まず本質的相関として現れる。それは無限量と限定量の動的な排他的統一であり、超感覚的世界と現象世界の動的な排他的統一である。いずれにおいてもそれらの質的限定は、無限な観念と限定された物体を排他的に統一する。その排他的統一は、恣意的限定された無限量を、限定量で確定する運動として現れる。存在論でヘーゲルが多くのページをさいているのは、無限微差を接線式から導出する微積分史の考察である。そこでは多くの学者による試行の紆余曲折が展開される。それは経験的無限量を数理限定量で確定させるための方法論の模索の運動である。そしてその方法論は、デカルトによる合理的説明で決着する。この決着に至る経緯は、学者たちが試行した経験的恣意の排除運動の総体である。しかしヘーゲルにとってそれは、むしろ理性自身が自らの矛盾を廃棄する運動であり、学者によるその運動の後追いである。本質論から言えば、それは超感覚的世界が超出した現象世界であり、脱自した超感覚的世界である。これによる区別された二世界の統一は、生成した実存を現象とし、消滅した実存を本質とする。それが物体と観念の本質的相関である。


・正比例と全体部分相関

 限定量の外延は、その全体を集合数に正比例する外延量の全体として限定する。ここで集合数の単位としての限定量は、単位としての自立を廃棄して部分の全体となる。そして限定量としての単位も、限定量としての自立を廃棄して全体の部分となる。全体と部分は相対するだけでどちらも自立していない。両者にとって自らの全体や部分としての限定は、自らの対他的な質に留まる。この正比例する二項は、単純な排他的統一にある。限定量の内包は、外延に比べると対自的である。しかし内包においても、全体と部分の自立が相対的であるのは変わらない。この対立の自覚の無い全体と部分は、限定量の悪無限な拡張と分割をもたらす。


・逆比例と力

 正比例において全体を規定するのは、部分としての単位とその集合数である。しかし全体と部分は自立を廃棄しているので、実際に二項の相関を規定するのは集合数である。ただし単位と集合数は入れ替わりができるので、その規定者としての自立も相対的である。これに対して単位としての限定量の分割は、その部分を集合数に逆比例する内包量の一部として限定する。ここでの全体は、規定者として自立を維持する。それゆえに集合数と部分は、相互に限定し合う。全体の限定を含めてこれらの限定は、相手に対して力として発現する。そしてその限定する力において、集合数と部分もそれぞれ自立している。全体にとってその集合数と部分の限定は、自らの対自的な質である。一方で相互限定する集合数と部分にとっても、相手は自らの対自的な質である。ここでも集合数と部分は入れ替わり可能であり、集合数は全体に対して部分でもある。それゆえに全体は部分の積として自らを限定する。したがってそこに現れる全体と部分の排他的統一では、二項対立が自覚されている。


・冪比例と個物

 全体が部分の積として自らを限定すると、部分の積がそのまま全体と部分の冪比例に移行する。正比例において部分は、自らの力の増大に集合数の媒介を必要とした。それは他力としての触媒である。しかし冪算の形で集合数を内に含む部分は、自らの力の増大において全体に対抗している。ただし冪算として現れて自立するのは部分だけではない。全体もやはり冪算として現れ得る。二項の対立は、二項の冪算同士の相関となる。それは冪算の指数が含む質に限定された二項の量的関係である。一方で全体にとって部分の積は、自らの対自的な質である。無限定な力にすぎなかった全体は、その部分の積によって自らを発現する。したがってそれは、部分を媒介にした全体の外化である。言い換えるとそれは、部分の力を装った全体の力の外化である。そしてその外化において全体と部分は排他的統一する。ここでの外化した力は、個物として現れる。すなわち全体は力であり、その発現である個物が部分である。個物が持つ物理的な力は、全体が持つ力の仮象である。


・度量と現実性

 個物は存在の直接態にある力の外面であり、力は反省の直接態にある個物の内面である。全体において力の発現は、力の自己からの自己自身の外化である。外化した力の自己自身は、部分としての個物として現れる。その個物において力の発現は、個物の自己からの自己自身の外化である。外化した個物の自己自身は力として現れる。したがって全体において力は力に復帰し、部分において個物は個物に復帰する。そのいずれにおいても自己自身の自己への復帰は、力と個物の排他的統一である。この排他的統一は、力の外面と内面の絶対事である。力は内面に留まる限り、存在の単なる直接態である。しかしその力が発現を通じて外化するなら、それは存在の対自態、または反省の直接態となる。この外化において内面的本質と外面的実存は、外面的本質と内面的実存にそれぞれ反転する。そしてそれが自己に復帰するなら、力の外面と内面、本質と実存が統一し、現実性として同一化する。それは存在の即自かつ対自態である。存在論においてこの本質と実存の統一は、冪比例により集合数を内に含んだ単位として現れる。それは自己復帰した単位としての度量である。すなわち度量とは、質に回帰した限定量である。

(2021/03/22) 続く⇒(3)度量と現実性 前の記事⇒(1)質と本質


ヘーゲル大論理学 本質論 解題
  1.存在論と本質論の対応
    (1)質と本質
    (2)量と現象

    (3)度量と現実性
  2.ヘーゲル本質論とマルクス商品論
  3.使用価値と交換価値

ヘーゲル大論理学 本質論 要約  ・・・ 本質論の論理展開全体
  1編 本質 1章   ・・・ 印象(仮象)
        2章   ・・・ 反省された限定
        3章   ・・・ 根拠
  2編 現象 1章   ・・・ 実存
        2章   ・・・ 現象
        3章   ・・・ 本質的相関
  3編 現実 1章   ・・・ 絶対者
        2章   ・・・ 現実
        3章   ・・・ 絶対的相関

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