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唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学 本質論 解題(第二篇 第三章 本質的相関)

2020-11-08 15:53:12 | ヘーゲル大論理学本質論

 前章まで展開されてきた実存と本質の対立は、反省された存在と無の対立であり、すなわち存在的相関である。その対立は区別と同一性、または質料と形式の矛盾した彼岸的関係であり、その尖鋭化した姿が物体と物自体であった。しかし物自体は区別の欠けた同一性であり、自己自身を持たない自己である。この過去を喪失した自己は、自己自身こそが実存だと気づくことで、再び自らを此の物として捉え、本質を現象だと理解する。しかし無関係とされた物体と物自体の存在的相関は、現象世界と超感覚的世界の対立に転化されただけで、その本質的相関は事の中でわずかに制約と形式の相関の形で留まったままである。ヘーゲルはこの章でその本質的相関を部分と全体の形で捉え返し、根拠から発現する力とする。すなわち発現する力それ自身が、無関係とされた物体と物自体の本質的相関なのである。

[第二巻本質論 第二篇「現象」の第三章「本質的相関」の概要]

 排他的統一におかれた実存と本質の本質的相関を明らかにし、実存する本質として両者の現実的な一体化を目指した論述部位
・全体     …本質的相関における超感覚的世界の自己同一的本質。反省された直接性としての類。
・部分     …本質的相関における現象世界の実存。存在の直接性としての種。
・排他的統一  …対立する二者の浸透することなしに相互転換する一点での統一。
・力      …全体と部分が相互移行する両者の排他的統一。実存の擁立者。
・発現     …力の排他的自己関係であり、自己自身を他在に外化する反省。
・触媒Anstoss …排他的統一の否定を否定する他力としての自己。互いに制約する力であると同時に相手を発現する力。
・力の外面   …自己から外化して他者となった部分としての自己自身。本質ではない存在の形式。
・力の内面   …自己から外化した自己自身が還帰した全体としての自己。反省された本質の形式。
・現実性    …力の外面と内面の排他的統一を脱した外化した内面における両者の反省した統一。本質と実存の統一。


1)本質的相関における本質と実存

 本質的相関が含む内容は、存在と反省のそれぞれの直接性において自立している。ただしそれらの内容は、他者への反省または他者との関係の統一として相対的でもある。この自立して相対的である矛盾は、それらの自立を統一の中で擁立され、廃棄される存在にする。しかしこれだとあたかもそれらの自立は、ただ単に相対的である。実際にはその矛盾において、むしろ統一こそがそれらの本質と自立を形成する。なぜならこの相関における他者への反省または他者との関係は、自己への反省または自己との関係だからである。ここでの他者は自己自身であり、その自己と自己自身の区別は、両者の相互関係でのみ成立する。それゆえに本質的相関は、対立して否定し合う本質と実存の真の第三者ではない。しかし本質的相関は、本質と実存の限定された統一を含む。それゆえに本質は自らのために、多くの自立する実存を必要とする。すなわち本質の自立は、多くの実存の自立から構成されている。しかしその多くの実存の自立も、本質への統一により成立している。両者の実存は、自己自身の実存ではなく、相手の実存である。両者の対立する支配隷属関係は、積極者と受動者の対立関係と同じである。しかし本質と実存の対立関係では、本質と実存がそれぞれにおいて自己の現象的彼岸を持つ。そしてそれゆえに両者は自己否定において統一する。この統一の必然は、両者の自己否定が他者との統一において全体となることに従う。


2)本質的相関の推移の素描

 本質的相関の同一性は、相関の両項の単純な排他的統一において始まる。ただしそこに本質と実存の反省された統一、すなわち実体は無い。言い換えればそこに概念も国家も存在しない。あるいはそのような実体は直接態のままにある。それは生成と廃棄の運動を通じてこそ、すなわち反省の媒介を通じてこそ統一だからである。したがってこの相関の直接態は、全体と部分の相関として現れる。それは反省された自立性と直接的実存の相関である。なおこのヘーゲルが語る全体と部分は、むしろ類と種として理解した方が良い。この両者は相互に制約し、前提し合っている。しかしその統一は、排他的統一ではない。そこで全体と部分の相関は、相手を根拠として自己否定し、力と発現の相関に移行する。そして両者の相関は互いの不等性を廃棄し、内面と外面の相関となる。さらにこの形式的区別が没落するとき、両者の相関自体も没落する。ここにおいて本質と実存の絶対的統一は、実体または現実態Wirklicheとなる。


3)全体と部分(類と種)

 本質的相関の両項は、全体と部分の相関として始まる。ここでの全体は超感覚的世界を形成した自立性であり、部分は現象世界の直接的実存である。すなわちヘーゲルの語る全体と部分とは、類と種である。それらの自立性は、相手の発現を自己の中に持ち、この発現を通じて両者の排他的統一と自立性が、「もまた」により結合される。その結合では、反省された自立性としての類の全体が、種としての直接的実存を過去的契機にして実存する。他方で直接的実存としての種は、反省された自立性を外面的関係にして自立する。とは言えそれらの関係を形成するのは類であり、種は類の全体の中で自立する。したがって両者の自立は、一つの関係における相対的なだけの矛盾した自立である。その制約し合っている両者の相関は、制約するものと制約されるものの相関である。ただしここでの制約するものと制約されるものは実在である。その制約するものは、制約されるものである。そしてその制約されるものは、制約するものである。その制約は自己復帰しており、制約は無制約に転じている。言うなればそれは、法を守るべきものが自分で法を作る無法である。それゆえに類と種はともに、一つの同一性において相手の中で自立する二つの契機となり、相手に無関心に自立して実存する。しかしその自立も制約の場合と同様に相手を媒介にするので、両者の自立は自己復帰を通じて消失する矛盾にある。この矛盾において残る両者の自立の根拠は、媒介における排他的統一だけである。類の反省された自立、および種の直接的自立は、ともに媒介の中で廃棄され、媒介のすぐに消滅する瞬間的な直接性に移行する。それゆえに全体としての類、および部分としての種は、並存する関係にありながら相互に移行し合う。これにより類と種の相関は、力と発現の相関に移行する。


4)無限分割可能の仮象

 存在論において量は、一者と他者の融合を含む連続と分離の統一であった。その連続する同一性は、同一性の否定を含む。その全体は部分に分かれるが、そこでその部分が全体であれば、さらにその部分の部分が現れる。逆にその全体が部分であれば、さらにその全体の全体が現れる。この無限累進は、類と種の関係にも該当する。すなわち全体と部分と同様に、種の下位には種が無限に現れ、類の上位には類が無限に現れる。しかし下位の下位の部分は、最初の部分ではなく、最初の部分の部分である。部分の部分は、最初の全体を廃棄し、最初の部分を全体にしている。すなわち部分の部分は、最初の全体と無関係な部分である。同様のことは、上位の上位の全体にしても該当し、全体の全体は、最初の部分と無関係な全体である。しかしこの関係が反省されていない部分の部分、または全体の全体は、最初の全体と部分に綜合され得ない。例えば生体の各部を分類して細胞に達したとして、それをさらに分子や原子に分解するなら、その部分はすでに生体の部分ではない。それゆえにその論理的原子(単位)は、分割を許さない。無限分割可能性は、相関が含む全体と部分、または類と種を綜合できない無思想の産物である。その無思想は、全体と部分の相互移行、または類と種の相互移行が反省によって媒介されたのを理解していない。


5)力と発現

 力は全体と部分が相互移行する両者の排他的統一である。したがって力は、部分の多様に無関心な全体ではなく、また全体への統一に無関心な部分ではない。この力に比べて言えば全体と部分は、運動の欠けた機械的集積の形式に留まる。力の中でそれらは廃棄された自立性であり、擁立された過去的契機になっている。全体としての力は発現することで外化し、根拠としての力に還帰して消失する。すなわち発現は力の排他的自己関係であり、外化した反省である。その運動での力は自己自身を他在にし、変化の中で力自身として留まる。このような排他的統一としての力の最初の姿は、実在する個物である。しかしその直接的存在は、力における過去的契機にすぎない。一方で力の排他的自己関係としての発現は、他者による媒介を前提として持つ。この他者は力に対する制約として現れる物体である。このことから力は物体や物質に所属するように現れる。しかし物体は力に無関心であり、物体に力が外から謬着しているだけである。そこで今度は力自身が物質であるように捉えられる。しかし力は物質と違い、実存を過去的契機として含むだけであり、むしろ実存の擁立者である。


6)力を誘発する他力としての触媒Anstoss

 排他的統一としての力は、統一の否定でもある。したがって力にとってその否定の直接性も前提と制約として力と分離する。ただし力にとって物体は廃棄された過去的契機である。力はその直接的実存の中で否定される。それゆえにここで前提や制約として現れるのは、物体ではなく別の力である。それは元の力が前提する活動性が他力として擁立されたものである。しかし元の力の外面を成すのは、この他力である。元の力はこの外面により自己自身を廃棄する。また反省の活動性も、この他力と無縁ではない。この二力の統一は、先の即自存在的統一に始まる。しかしそこでの他力による制約は、元の力自身の自己否定作用である。それゆえに他力は、元の力自身が擁立する活動性の彼岸にいる。一方で元の力の場合と同様に、この前提された他力の前提する活動性は、さらに別の他力として擁立される。その活動性は元の力の否定を廃棄し、その否定の否定を自己自身とし、自己の外面として擁立する。この反転した肯定により、力は互いに制約するものであると同時に他力を発現する触媒Anstossとなる。しかし力は限定を受ける受動性ではなく、触媒による誘発の外面を廃棄するところにその作用がある。したがって力は外面にある触媒を自己自身の自己反発とし、それを自己自身の外化として擁立する。ただしこの対立する誘発された元の力と誘発する他力の区別は形式的である。その区別は力の直接的実存における、前提的反省と自己関係的反省の区別された形式的限定と等しい。したがって内実として相互媒介している二力に区別は無い。そこでこれら二力の統一が、力の外面と内面の同一を外化する。


7)力の外面と内面

 全体と部分の直接的相関の場合、その反省と存在の直接性が持つ固有な自立性は排他的統一である。そしてその排他的統一は、発現する力として擁立される。その発現は自己からの自己自身の外化であり、外面となった自己自身は他者となる。それは外面としての自己自身と内面としての自己の分裂である。しかしその自己自身は自己に復帰するので、外面は再び内面における全体と部分の直接的相関に組み込まれる。ここでは全体と部分が互いに他者であり、相互に自己自身を媒介する二力として前提し合う。そこでその二力の排他的統一において、両者の区別は廃棄される。すなわち両者とも、誘発する力であるとともに誘発される力である。したがって力の発現は、一つの反省された排他的統一の自己媒介にすぎない。それゆえに移行の始まりに現れた二つの直接性は、むしろ移行において擁立された直接性に留まる。ちなみに力の外面が本質ではない存在の形式であるのに対し、力の内面は本質の形式である。あるいは力の外面が存在の直接性の形式であるのに対し、力の内面は反省の直接性の形式である。両者は一つの内容に満ちた根底としての絶対事absolute Sacheに統一される。その内面を成すのは、両者の全体としての自己同一性である。力の外面と内面は、絶対事の部分としての形式的に区別された外面的な二契機にすぎない。両者は相手を前提にして現れる。もし相手が無ければ、外面は内面であり、内面は外面であり、あるいは実存は本質であり、本質は実存である。しかし相手を前提にした外面と内面の区別、あるいは実存と本質の区別は、それ自身が両者の含む或る欠落を表現する。そのような両者の排他的統一は、統一を無内容な点にしてしまう。


8)内面に留まる本質

 力の外面と内面の相関が排他的統一である限り、その統一は普遍としての全体ではない。また外面と内面が互いに相手を自己の反転に捉える限り、全体の根底としての事も現れない。このような外面と内面が互いに自己反転する排他的統一は、存在論の冒頭に示された始元における存在と無の統一と同じものである。それは自己自身の存在としての外面を自己に内化していないし、自己の無としての内面を自己自身として外化していない。それは一方ではただの直接的存在であり、他方ではただの原理的な否定である。しかし実際にその自己同一を支えているのは、存在と無の排他的統一である。それゆえに始元存在の直接的概念は、精神ではない。まず最初の直接的存在はまだ自己の内面であり、受動的な限定存在にすぎない。その全体と部分は、力の相関過程を経て自己自身を外化する。したがって存在の領域は内面にすぎず、反省を通じた本質の分離をもって外面となる。しかしそれで現れ出た本質も、それが外面的な非体系的共通性である限り、まだ内面にすぎない。そのような非体系的共通体は、例えば学会や新聞、あるいは植物の種子や幼児として現れる受動的存在である。それは直接的概念におかれた神にしても変わらない。それらはいずれも精神ではない。精神は直接的自己ではなく、自己自身の媒介を経て復帰した自己だからである。したがって直接的概念におかれた神は、単に内面的な神としての自然であり、絶対知としての真の神ではない。


9)現実性Wicklichkeit

 内面と外面の同一は、まず単なる外的形式、すなわち内容の同一であった。そして次にそれは、外的形式と逆の純粋形式、すなわち相互転倒する内面と外面の内容の無媒介な同一であった。しかしこの外的形式と純粋形式は、両者が相互転倒して現れる一つの全体の両面にすぎない。その全体では、形式の前提的反省が外的形式と純粋形式の区別を廃棄し、反省した統一として自己を擁立する。したがってその反省の内容は、形式を差異として限定することで自己自身の存在の直接性を外面とし、そして復帰した自己の反省の直接性を内面とする形式である。それゆえに内面と外面の形式的区別は、それぞれ外面的本質と内面的実存にそれぞれ反転する。そしてその相互移行において根底としての両者は直接的に同一である。しかし両者はともに他者によって自己を内面と外面として相関の全体を構成する。または両者のそれぞれ全体であることが他者を媒介する。したがって個物の本性は、その外面の中にある。個物の外面が個物の全体であり、また個物の反省した統一である。個物の現象は他者への反省ではなく、むしろ自己への反省である。すなわちその外面は個物の本性の外化である。したがって個物の内容と形式の完全な同一は、個物の完全な外化であるほかにない。かくして本質的相関は、外面と内面、実存と本質の同一より現実性Wicklichkeitとなる。

(2019/10/07) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第二巻本質論 第三篇 第一章) 前の記事⇒ヘーゲル大論理学 第二巻本質論 第二篇 第二章)

ヘーゲル大論理学 本質論 解題
  1.存在論と本質論の対応
    (1)質と本質
    (2)量と現象
    (3)度量と現実性
  2.ヘーゲル本質論とマルクス商品論
  3.使用価値と交換価値


ヘーゲル大論理学 本質論 要約  ・・・ 本質論の論理展開全体
  1編 本質 1章   ・・・ 印象(仮象)
        2章   ・・・ 反省された限定
        3章   ・・・ 根拠
  2編 現象 1章   ・・・ 実存
        2章   ・・・ 現象
        3章   ・・・ 本質的相関

  3編 現実 1章   ・・・ 絶対者
        2章   ・・・ 現実
        3章   ・・・ 絶対的相関


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