唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学 本質論 解題(第三篇 第二章 現実性)

2020-11-08 16:35:44 | ヘーゲル大論理学本質論

 実存と本質が一致するのが必然である。したがって自己同一な現実が他者となる可能が必然なら、その実存と本質は一致していない。その現実は、他者となることで実存と本質の一致を目指す。しかし他者となった現実は、代わりに自己を喪失する。その現実では本質が獲得され、実存が没落する。それゆえにその現実は、再び他者となることで実存と本質の一致を目指す。この場合に巷に在る実存と本質が不一致な現実は解消不能な矛盾として現れ、その運動の必然はせいぜい暫定的な相対的必然となる。それは一方でヒューム式の経験論であり、他方でカント式の先験論である。いずれにせよその不可知は解消不能である。しかしこの悪無限は、現実の自己復帰により解消すべきである。しかしその自己復帰があらかじめ用意されているだけなら、それはスピノザ式の神即自然論とどのように違うのであろうか? ヘーゲルは反省の自己復帰の根拠に無の偶然を据えて、スピノザと異なる完全に自由な絶対者を用意する。しかしその見事な論述は、逆に唯物論や実存主義から根なし草の巨大な楼閣の如く見えるヘーゲル論理学の風貌を与えている。

[第二巻本質論 第三篇「現実性」の第二章「現実性」の概要]

 力の内面と外面が一致する現実の可能との対立から、さらに現実と可能および偶然と必然の諸概念を導出し、現実の生成を説明する論述部位
・現実(現実性)…Wicklichkeit。可能を含む力の内面と外面の形式的統一。
・可能(可能性)…Moglichkeit.。自己に反省した現実の対自存在。現実の他者の即自存在であり、その他者を含む関係として自己を廃棄する矛盾の現実。
・偶然(偶然性)…Zufalligkeit。単なる可能として限定された無根拠な形式的現実。
・必然(必然性)…Notwhendigkeit。反転する可能と現実のそれぞれの他者における可能と現実の自己同一。現実を根拠づける他者の反省を通じた可能の廃棄の自己限定。
・形式的必然  …反転する可能と現実の中間点としての自立しない単純な両者の統一の全体。
・実在的現実  …形式的必然における可能と現実の区別に対する無関心がもたらす多様な内容を含む反省の現実。実在的可能を得た実存。
・実在的可能  …抽象的同一性に留まるだけの直接的可能と違い、反省した多様を含む実在的現実の即自存在。擁立された直接的現実と抽象的可能の形式の全体。
・実在的必然  …現実となる可能であり、外見上で区別されるだけの実在的可能。他者を前提にし、その即自存在から自己に復帰しない相対的必然。
・絶対的現実  …必然を即自存在とした可能の無い空虚な現実。自己の可能を廃棄した現実。
・絶対的可能  …可能の無い絶対的現実の対自存在。無根拠な存在の単なる偶然。自己の現実を廃棄した可能。
・絶対的必然  …可能の無い絶対的現実の対自が生成する即自存在。無根拠な実存の自己自身が自己を限定する自己復帰した偶然。絶対的現実と絶対的可能の統一。
・実体     …Substanz。存在の無における自己相関としての自己自身との同一性。


1)現実と可能、および偶然と必然

 絶対者の絶対的形式は、自己が自己の啓示以外の何者でもなく、自己以外の内容を持たない啓示だと言う事である。そして現実性とは、このような反省した絶対性である。この絶対者に対して言えば、存在は最初の直接性に留まる非現実である。すなわちそれは即自かつ対自存在ではない。また存在だけでなく実存も、本質と区別された即自的現実に留まる。やはりそれも即自かつ対自存在ではない非現実である。それは自己の没落した根拠としての自己自身である。実存は現象の自己反省を通じて自らの直接性を擁立しなければいけない。これらの非現実な存在や実存と違い、現実は力の内面と外面の直接的な最初の形式的統一である。しかしその現実は、自己自身に対立者する自己を可能として含むものである。とは言えその現実と可能の区別と関係は、偶然に擁立された形式である。それゆえに現実は可能との偶然な関係を反省し、自己を必然として限定する。ただしそこでの現実と可能はもまだ実在的なだけであり、その必然も相対的である。それゆえにその必然は、さらに自己反省をもって絶対的な現実と可能が一致する絶対的必然になる。


2)矛盾関係の根拠としての可能

 現実は内面と外面の形式的統一なので、現実は自己自身の内に形式的統一ではない可能を含む。そしてその可能は自己に反省した現実である。さしあたりそれは自己同一の形式に限定された可能の現実である。したがってこの自己反省の全体は、単なる自己同一より以上のものを含む。その形式は、自己同一である限り全ての内容を受け入れる。それゆえに自己同一の形式は、可能の積極面である。しかしその自己は自己以外になり得る。そしてその場合でも自己は同一でなければいけない。これは矛盾である。それゆえにこの可能の積極面は、A=Aの同一律と同じような空虚な形式的立言となる。一方で自己同一の形式は、非現実の消極性でもある。非現実は無意味な可能だからである。ただしその現実の欠落は、本質を本質たらしめるものである。もちろんその可能は不可能であり、矛盾である。しかしそもそも自己反省としての可能は、即自存在ではない。可能が前提するのは、廃棄された形式的限定である。それは廃棄された即自存在としての他在である。したがって現実のA=Aと対立する-A=-Aは他在であり、二つの同一性は相互に無関心である。また無関心でかまわない。そこで対立する二つの同一性は、可能を根拠にして関係づけられる。すなわち可能は、他者を含む関係として自己自身を廃棄する矛盾である。そしてそのように自己自身を廃棄する可能は、反省する直接的存在である。それゆえに可能は現実となる。


3)単に可能な形式的現実としての偶然

 現実となった可能は、最初の現実と異なる。現実となった可能は、現実化した反省である。それは自己自身と可能の統一として擁立される。言い方を変えればそれは過去と未来の統一である。それに対して最初の現実は、可能を含む自己自身である。ただしその可能は単なる可能性にすぎない。要するにそれは現在である。この最初の現実は、その含む可能ともどもに形式的実存である。その現実は単なる可能であり、その可能も単なる現実である。そして偶然とは、そのような現実と単なる可能の統一である。したがってそれは単なる可能として限定された現実である。それゆえにその形式的実存は、自己と正反対の他者の現実に無関心であり、それを許容する。つまりその可能は、偶然な現実に過ぎない。とは言えその現実は、可能と言う価値をもつ実存として擁立されてもいる。偶然の中で可能が廃棄される限り、偶然は直接的な現実である。この偶然な現実は根拠を持たない。したがって単なる可能も根拠の無い偶然である。


4)現実な可能であり、可能な現実としての必然

 偶然なものは、内面と外面、可能と現実、または自己反省した存在と直接的存在、すなわち対自存在と即自存在、さらに言えば意識と物体の間に擁立された実存する無媒介な反転地点である。ここでの現実は、可能に対して限定されるだけの同じ可能である。またここでの可能も、現実に対して限定されるだけの非現実な直接的即自存在である。このように生成される現実と可能の限定は、それ自身が不安定な偶然である。この対立する両限定はすぐに相手に反転し、そしてそのまま自己自身の限定に一致する。すなわち可能は現実に転じて可能な現実となり、現実は可能に転じて現実な可能となる。必然とは、このそれぞれの他者における可能と現実の自己同一である。したがって必然なものは、その現実的存在において無根拠である。しかしその現実を根拠づけるのは他者である。それゆえに自己反省した存在は、自己自身の可能を廃棄して自己を必然として限定する。


5)実在的現実

 上記の必然は、反転する可能と現実の全体である。しかしそれは両者の中間点として偶然の如く自立しない形式的必然である。それは可能と現実の単純な統一なので、その必然では両者の区別も廃棄される。この両者の区別に対する無関心は、反省の現実に内容を与える。それは可能と現実を差異的な二限定にした形式を含む多様な内容である。それゆえに反省の現実は、実在的現実である。それは此の物の如き先の直接的現実と違い、特性を持ち実存する物体の世界である。ただしこの実在的現実における物体は、他者との相関に現象するだけの物体ではない。それは作用することができ、その産出するものにより自己の現実を他者に告示する。実在的現実の自己自身は可能としての即自存在である。しかし実在的現実は現実としての自己を自己自身と区別している。


6)実在的可能

 実在的現実の即自存在は、自己反省の抽象的同一性に留まっていた先の直接的可能と違い、内容の充実した実在的可能である。それゆえに実在的可能は、事物の直接的実存である。すなわちそれは事物に固有の多様な限定的諸状況である。そしてそれゆえに実在的可能は、可能であるとともに現実でもある。実在的現実と実在的可能の現実はそれぞれ内容であり、いずれも可能と現実の形式限定に無関心である。そこで可能と現実の形式は、それぞれの内容の同一性に対して限定されたものとして構成される。実在的現実を限定するのは可能であり、その可能は反省した現実としての実在的可能である。したがって実在的可能は、擁立された直接的現実と抽象的可能の形式の全体である。しかしこのような形式は、事物自身の可能ではなく、何かほかの現実的存在の即自存在である。そしてその現実は、廃棄されるべき現実として単なる可能である。ただしそれは、他者の即自存在から自己に復帰すべき現実である。実在的可能における同一性と多様の矛盾は、内容に即して矛盾の無い全体の完備において現実の中に入る。それゆえにその完備において内容に矛盾する多様な実存は、自己を廃棄し破滅する。すなわちそのような現実のみが可能である。可能が現実となることで、他者の即自存在として擁立された可能、および他者の可能を自己の可能として擁立された現実の両者はともに消滅する。


7)実在的必然

 現実は形式的現実として実存である。それはまず直接的実存として現れ、反省において自己の即自存在を廃棄して他者の過去的契機となり、実在的可能としての他者の即自存在を得る。この実在的可能の運動は、現実の自己復帰である。そして実在的現実は、このような実在的可能を得た実存である。そもそも必然は自己と別のものではあり得ないから必然である。逆に可能は自己と別のものであり得るから可能である。なぜなら可能の即自存在は、可能の擁立された他在だからである。それゆえに形式的可能は、移行においても自己と同一である。これに対して実在的可能は現実となる可能であり、したがって必然である。実在的可能と実在的必然は、外見上で区別されるだけである。ところがその必然は相対的である。その必然が前提するのは、偶然に現れる直接的現実である。その多様な限定的諸状況は、上記で見たとおりの廃棄されるべき現実としての単なる可能である。必然がこのような可能と現実の統一であるなら、それは両者の中間点としての自立しない形式的必然に舞い戻ってしまう。しかしこの前提関係における現実は、他者の即自存在から自己に復帰していない。実在的必然はこのような形式的必然としての単なる偶然ではなく、自己自身から自己を限定するような偶然となるべきである。


8)絶対的必然

 実在的必然が他者に限定された必然であるのに対し、絶対的必然は自己自身が自己を限定する必然である。もともと可能と現実の中間点にすぎなかった形式的必然は、自己の内容と限定をもたない。しかし自己の内容と限定をもつ実在的必然は、その限定において自己の無をもつ。そしてその無の偶然が、実在的必然の自己を必然たらしめる。その最初の単純な姿の限定は、そのまま現実である。それゆえに限定された必然は、現実的必然である。しかし必然を即自存在とする現実は、可能の無い絶対的現実である。その空虚な現実は、自己自身に無関心で偶然なだけの自己である。ただしそれは可能でも現実でもあり得るような絶対的可能である。実在的必然は、この絶対的現実でかつ絶対的可能である現実のゆえに偶然を生成する。そしてこの生成された偶然が、絶対的必然である。したがって絶対的必然は、自己の可能を廃棄した絶対的現実、および自己の現実を廃棄した絶対的可能を前提する。ただし絶対的必然は両者の反転であるが、それ以上に両者の積極的統一である。それに対して実在的必然における可能と現実は、いずれもただ自己同一なだけである。またそれだからこそ実在的必然は、可能と現実の否定的擁立を前提していた。しかしそれはむしろ廃棄された必然であり、自己自身を直接性として擁立する。


9)制限の消滅

 絶対的必然の現実は、多様としての実在的可能の自己否定から生じた自己同一である。それゆえにその現実は、自己否定に媒介された可能として限定される。ただしその可能は、自己の即自存在と直接性を擁立された存在として含む媒介であり、すなわち必然である。それは自己の即自存在と直接性の擁立された存在を廃棄し、同時にそれらを擁立する。そしてそのような止揚として擁立された必然である。それゆえにこの必然は、自己自身から自己を限定する偶然である。単純な自己同一としての形式的必然に対して現れた実在的必然は、他者の即自存在を得ることで自己同一な可能にすぎなかった。しかし絶対的必然は、自己否定に媒介された可能として自己同一な現実である。その自己復帰は全ての区別を貫通して自己を透明にする。したがって絶対的必然は、内容と形式の区別を消滅させる。またそれらの区別の消滅が、絶対的必然である。それらの区別は、限定における、または擁立された存在における自己自身に無関心な形式にすぎない。なぜならそれらは、擁立された存在の即自存在であり、実在的必然がもつ内容に制限を与える事物だからである。


10)自己相関としての実体

 絶対的必然は、単純な直接性としての純粋存在であり、単純な自己反省としての純粋本質である。それは存在するがゆえに存在する。それゆえに絶対的必然は、自己自身以外に制約も根拠も持たない。またそれの可能は、それの現実である。このような絶対的必然は、絶対者の反省または形式である。その純粋存在は絶対無の直接性でもあり、したがってその区別は反省限定であるより、むしろ多様の現実である。また絶対的必然における可能と現実は絶対的同一なので、両者は相互に絶対的に反転する。それゆえに絶対的必然は盲目である。このような絶対的必然における可能と現実は、ともに自由な現実であると同時に単なる可能であり、すなわち偶然である。それは存在を絶対的必然として擁立するので、他者による媒介を絶対否定する自己媒介し、存在とのみ同一な存在として擁立される。したがって存在においてのみ現実な本質は、可能なだけの空虚として擁立される。形式的現実と実在的現実は、自己に根拠づけられた単なる存在であり、ともに何も現出せずに自己自身にだけ自己を啓示する。それらの本質は、自己自身から自己を限定する偶然であり、絶対的無である。したがってそれらの存在は本質と矛盾する。それゆえにそれらの本質は、それらの他在である。しかしその他在はまた自己限定において自己に復帰する。すなわちそれらの現実に形式に対して無関心な限定された内容を自由に刻み込むところのその他在は、絶対的に現実な絶対的必然である。形式的現実と実在的現実は、この絶対的現実の前に没落する。形式的現実の現出、および実在的現実の反省は、存在の上では生成として現れる。しかし本質の上ではその生成が逆に形式的現実の反省、および実在的現実の現出として現れる。それゆえに存在の外面性は本質の内面性であり、存在の区別は本質の同一である。そして存在における現実の可能への移行、および存在の無への移行は、本質における自己自身との合致である。つまり偶然は絶対的必然であり、絶対的必然を前提にして偶然は存在する。これらの運動における存在の無における自己自身との同一性は、自己相関としての実体である。そして必然の盲目的移行は絶対者自身の開示であり、自己疎外において自己自身を示す絶対者の自己内部の運動である。

(2019/10/25) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第二巻本質論 第三篇 第三章) 前の記事⇒ヘーゲル大論理学 第二巻本質論 第三篇 第一章)

ヘーゲル大論理学 本質論 解題
  1.存在論と本質論の対応
    (1)質と本質
    (2)量と現象
    (3)度量と現実性
  2.ヘーゲル本質論とマルクス商品論
  3.使用価値と交換価値

ヘーゲル大論理学 本質論 要約  ・・・ 本質論の論理展開全体
  1編 本質 1章   ・・・ 印象(仮象)
        2章   ・・・ 反省された限定
        3章   ・・・ 根拠
  2編 現象 1章   ・・・ 実存
        2章   ・・・ 現象
        3章   ・・・ 本質的相関
  3編 現実 1章   ・・・ 絶対者
        2章   ・・・ 現実

        3章   ・・・ 絶対的相関


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