振り向けば大宮の夜が明ける。 少し変わった角度から眺めるの!

大宮在住。
伸び行く大宮市、
その時々の目に留まったことなどを楽しくユーモアも交えて
書きたいと思います。

無くても良いものに振り回されるな。ショーペンハウワー

2020-05-29 09:14:15 | ブログ

中庸の美徳を愛する者は

sss貧困の泥に染まらず

賢くば、

の羨望する豪華な邸宅も好まず。

松高ければ 風ますます吹き荒れて

山高ければ 雷まず落雷し

塔高ければ 倒壊の被害は甚大だ

詩人 ホラーティウス

 

 

夢に見る程の幸福を求めたいという欲念を脱却して、

何一つ目の前にあるもの以外は望まぬようにすれば、

何とかんとか不幸から切り抜けられるものだ。

メルク

 

厄災をもたらすものは、

幸福、栄光、享楽を追求するための努力や苦闘である。

賢明なのは、享楽、財産、名誉に対する要求を僅かな所まで引き下げることだ。

 

大きな幸福を求めることは、難しいどころか不可能なのだから、この道が賢明あり

得策である。

 

我が物とした世界が突然消え失せても

嘆くな!!

世界は本来 空なのだから。

世界が本当に我が物になっても、

喜ぶな!!

世界は本来 空なのだから。

苦痛も歓喜もつかの間に過ぎて行く。

係わるな!! この世界に!!

世界は本来 空なのだから。

アンヴァリー・ソヘイリ

(東洋思想でした)

 

私達人間の存在がむしろ無くても良いものであり、どんな事物にもどんな事態にも、

大きな期待をかけることなく、この世の何物かを情熱的に求めることがなく

何者かを取り損ねたからといって激しく泣き悲しむ事もない。

 

その上、人間の世界の事物は何一つ、

向きになって求めるほどの価値はない」

プラトーン

 

この心の糧ともなるべき洞察をするのがとても困難なのは、世間の偽善的な粉飾に

よるものである。

華やかな行事は舞台装飾のようなただの見せかけで、そこには本質というものが

ない。

祝砲、イルミネーション、ラッパ、歓呼、喝采などは、喜びを表す看板であり、

象徴であり、象形文字である。

 

 

本当の喜びは

その場には姿を現していない。

喜びは、

招かれもせず前触れもなく、もったい付けずに、むしろ忍び足で来るのが常で、

普通の日常を過ごしている日々の中に何でもないようなきっかけで、

輝かしくもなく、晴れがましくもないような機会にひょっこり現れる。

 

喜びは、

オーストラリアの金鉱の中の金のように、規則も法則もなく気まぐれで、

極微細な粒状をなして、あちらこちらに散在し、大きく固まっている事は

ほとんどない。

 

華やかな行事は、そこに喜びが到来しているのだと人々に信じ込ませる事だけが

目的なのだ。

他人の頭脳に映ずるこの仮像が目的なのだ。

 

悲しみというのもさして喜びと変わらない。

あの憂鬱気なのろのろとした葬列の練り歩く様子、死者を墓地まで送るという

儀式が、世間での友情と敬意との端的な表れだというのである。

 

こういう事こそ、こういう物こそ、人間の営みの誠意なさ、空虚さ、

偽善さなのである。

(単なる義理だと言っている)

れは人間生存のみすぼらしさ、貧弱さという物とは不調和、空虚で対照的である。

しかし、そうした行事は目的を効果的にする。

 

この世のほとんどすべての物が中身が空なクルミだ。中身というものが稀なのだ。

まして中身が殻の中に入っていることは、稀である。

中身を見つけるには、どこか見当違いの所を探さねばならず、大抵はほんの偶然に

探し当てるだけであろう。

 

(最後に近代脳科学が出ました、やっぱりショーペンハウワーおじ様は真実の結論を

言いました)(笑)

 

無くても良いものに振り回されるな。

英知の看板、英知の装いの外観に振り回されるな。

当に立派な社交仲間というものは、どんな場合でも必然的に極範囲の狭い

ものなのだ。

 

ショーペンハウエワー

「幸福について」の中から

A 一般的な見解と忠告

 

 

後2回続きます。

理屈を知れば討論に強くなる。

数ではありません、質なのです。

はい、ここまでのお付き合い誠に有難うございました。

真実一路

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。