岩谷宏と一緒

岩谷宏の同居人岩谷啓子(けい子)が、犬猫まみれの官能の日々を綴る

岩谷宏のロック論 45 ぼくの独断的ロック訳詞論 

2008-04-28 08:46:16 | 岩谷宏 ロック
ぼくの独断的ロック訳詞論
ロックの歌詞による文章入門

          岩谷宏


 六八~六九年頃からです。ロックの詞に関心を持ったの
は。まず、なんといってもビートルズ後期ね。小野洋子お
ばさんも「あの四人の中じゃ、歌の歌詞も、わりと内容の
あることを言ってるし…」と、おのろけを言っていたジョ
ン・レノンの歌詞ですな。訳して、一人で悦に入ってても
しょうがないので、当時では唯一のまともな音楽雑誌「ニ
ューミュージック・マガジン」に何回か投稿して、ストロ
ベリ・フィールズなどの訳詞が読者欄に載ったこともあり
ます。その時は〝感動のおたより〟というやつが四~五通
やって来まして、私を感動させました。その中の一人は、
今も私の友だちです。


 NMMに投稿した中には、「ジョンの魂」の全訳もあり
ます。これは国内盤の歌詞カードとして付いていた日本語
訳の、あまりにもの空々しさにアタマに来て、ひと晩で全
部訳して翌日ポストに放り込みましたが、これは載りませ
んでした。いまでも、国内盤の日本語訳にはアタマに来る
ことしばしばでありますが(最近の例ではロキシーとかス
パークス)、あれは、日本のレコード会社が、ロックの本
質とは全く関係ない、ずるずるした人間関係に基づいて仕
事を発注しているのだと判ってから、まともに腹を立てる
のもバカバカしくなりました。


 内ジャケなどに、原詞がちゃんと印刷されている場合
は、外盤の方を買う習慣になってしまった。今では値段も
国内盤とたいして変らないし、ジャケットの印刷もキレイ
だし、ライナーノート書き(という得体の知れない人達)
のギャラを支払わされている、という不ユカイな認識をし
なくて済むし…。ヒアリングはたいして強くないので、外
盤に原詞がついていない場合は国内盤を買うのですが、そ
れには往々にして、私にもはっきりわかるヒヤリング・ミ
スがあります。ミスが多いのは東芝、ビクター(RCAを
含む)、比較的少ないのはフォノグラム、キングなどで
す。


 なにしろ、ヒヤリングというものは、たとえば、根っか
らのロック・ファンであるところのガイジン三人に同じL
Pで仕事を頼むと、あがって来るワーディングは三通りの
それぞれ異なったものである、とか。……だから、最終的
には自分の耳と、ロックにつき合ってきた自分のキャリア
(?)とを信ずるほかないようです。


 七二年に「ロッキング・オン」という雑誌が創刊されま
して、これは仕事としてではなく、編集長との友人的くさ
れ縁でもって創刊時から原稿を提供しておりますが、私の
出す原稿の半分くらいのウェイトを占めているのが訳詞で
す。〝日本における正統的なロック評論の確立をめざす〟
という編集長の意図とはうらはらに、ロックに接して日の
浅い若い読者にとっては、「訳詞」が載ってることがこの
雑誌を買う一番の動機だったケースが多いみたいでした。


 これと同じ頃、新興楽譜から「ビートルズ訳詞集」を出
す、という話があって、これは今読み返すと恥ずかしい部
分もあるけど、「これまでに日本で出た類書と違って、も
っと面白い訳詞集にしたい」という担当者の意図と、「訳
詞といえども、書く人間のロック的パフォーマンスである
べきだ」という私のガンコな信念とが、(日本のビジネス
界の常識からすれば)奇蹟的になんのトラブルもなくすん
なり結びついた結実でありまして、おかげで良く売れてい
る。私がこの五年間に本書から得たギャラは三〇万円くら
いのものですが、ビートルズのお情けにあずかっての三〇
万円、といったうしろめたさはない。


「五〇年代には歌手は〝うた〟を歌っていた。でも、私は
〝言葉〟を発しているのだ。私の〝言葉〟をちゃんと受け
とめてくれないオーディエンスは私のオーディエンスでは
ない」――これはジャニス・ジョプリンの有名な言葉であ
ります。


〝うた〟は、聞き手がその人格になんらの損傷をこうむる
ことなく、楽しんだり、感傷にふけったりすることができ
る。これに対して〝言葉〟は人格を犯すものである。つま
り、歌手としてのジャニスに私が〝感動〟するのでなく、
ジャニスという人格存在が私を犯すのだ。古来、〝言葉〟
が人を変え、社会を変えて行く。〝言葉〟が人と人とのつ
ながりを作り、反目も作って行く。


 これに対して、最近では、サウンド・トリップ的な音楽
の楽しみ方もあるようだ。が、しかし、少なくともピンク
・フロイドに対してはそんな聞き方は失礼である。彼等
も、七〇年代に入ってからは明らかに「言葉重視型」すな
わち社会派のアーチストになっていると思う。


 もともとロックは「学校なんかやめちまえ!」とか「一
六歳でセックスして何が悪い?!」といったアジテーショ
ンとしてのメッセージを持っていた。つまり〝言葉〟を持
っていた。 〝言葉〟とは常に、社会の中にあるものだか
ら、ロックの本質がジャニスの言うように〝言葉〟にある
とするなら、あらゆる音楽の中でロックは唯一「社会的な
音楽」だと規定することができよう。そして、社会とは、
時代と共に少しずつ変化するものである。たとえば、十六
歳でセックスするなんて事が珍しくもなんともなくなっ
てる現代においては、右の歌詞は十二歳か十三歳くらいに
変えなければいけない。


 セックスにこだわる訳ではないが書き始めたついでにこ
のテーマでまとめてみよう。ごくいいかげんなジャーナリ
スティックな言い方ではロックは「反社会的な音楽」など
と言われる。しかし、実際は、セックスは人と人とを結び
つける、すなわち〝社会的なるもの〟の最たるものであ
る。これに対し、今の学校制度や受験制度などはむしろ、
人と人とを離反させる〝反社会的なるもの〟である。そし
て、もろもろの〝反社会的なるもの〟の促進にいそしんで
いる今の大人たちは〝悪人〟である。


 ……こういう時代だからこそ、「私たちが私たちの本心
を込め、わかってくれる友人を切に求めて、語り、叫ぶ言
葉」ってもの、つまり社会を真に社会として形成する原動
力としての言葉が必要とされ、ロックがある。言葉は自主
的に主体的に発せられる言葉でないと、その人を置いてき
ぼりにした社会(=ニセの社会)が出来てしまうのであ
り、だから、やじ馬的ロック・ファンや、アイドル崇拝的
ロック・ファンや、サウンド自閉症的なロックファンがい
くら増えようとも、私がここで言ってるような意味での
「社会」はいつまでたっても出来ないであろう。


 が、しかし、たとえばあなたは「若者文化」とか「反体
制的」とか「ヤング・ミュージック」とか等々の、軽薄で
限定的な定義に、いつまで甘えているつもりなのか?


 私事を例として述べれば、私がこれから発してみたい
〝言葉〟は、新らしいテレビ局を作ることか、新らしい感
覚塾(一種の学校)を作ることである。だれか、何十億と
いうお金を貸して下さいませんか。それから、当面の課題
として「子供を(今の)学校制度の中には入れない会」み
たいのを作りたい。これは、教育基本法違反となるそうで
すから、一人ではとてもがんばれないことです。


 ドレイ貿易とドレイ利用を、当時の日本人がやっていた
ら、ロックの発祥は日本となり、黒人によって変質させら
れた日本語によってロックは歌われていたであろう。しか
し、幸か不幸か、ニュートン力学も産業革命も植民地主義
もブルジョア革命も、すべてリーダーシップを取ったのは
イギリス人であった。アメリカは近代イギリスの肥大した
部分である。


 さて、日本の近代も、その肥大した英語文明の影で生き
てきた訳で、このことがなければなぜ私たちが義務教育で
も英語を習うのか、説明がつかない。「個人の自由」とや
らを絶対視する「競争社会」(=私の言う、反社会的な社
会)……この概念も欧米ブルジョア社会ゆずりの概念であ
る。


 ところが、大都市でのゲットーの生活を見たり、あるい
はさかのぼってアフリカのでの生活を見てみると、黒
人とはもともと(私の言う意味での)社会的な人間である
らしい。(私などは、できればもう一度学生の身分に戻っ
て、黒人が持っているエートスについてじっくり研究して
みたいぐらいです)


 英語という言語は、もともと、感覚的にはあまり面白く
もない言語である。たとえば、響きだけを聞いているな
ら、中国語の方がよっぽど美しい。黒人ゆずりの英語を全
部なくしてロックの歌詞を作ったら、おそらく固苦しく
て、ロックとして歌うことは不可能になるだろう。


 日本語でも、関西弁とか、各地の方言には、いわゆる
「標準語」に較べるとはるかに生活感にあふれ、感覚的な
ニュアンスも濃いものが多い。しかし、これらを用いて私
たちが私たちの歌を、言葉を普遍的に確立させることは不
可能である。技術的に云々ではなく、歴史的必然性がない
のだ。だから、長年ロックとつき合ったキャリアでもって
日本語にとり組むとしたらその相手は、ごくふつうの「標
準語」であるべきだろう。


 実は、ロックの訳詞をするという行為は、右に述べたプ
ロセスの、個人的な試行である訳です。単に語学的に正し
い翻訳者的態度や英文学者的態度で訳しても、それは「訳
詞」とはなり得ても「ロックの訳詞」とはなり得ない。ロ
ックとは、いついかなる場合も、言葉を発する人本人の、
切実なパフォーマンスなのだから。そういうパフォーマン
スこそが、私たちの社会を社会として緊密にしなやかに形
成して行く唯一の要素なのだから。


 私たちの問題意識は、この国で、この時代に、この言語
を日常言語として生きている人間としての問題意識であ
る。ロックの訳詞をする場合にも、そういう、私たちの側
の生きた問題意識にひりひりと生々しく触れて来る部分だ
けを正確にとらえればよい。呼応している部分さえ正確に
とらえさえすれば、あとは、それを、完全に自分自身の言
葉として発してみることである。……これが、私の、独断
的ロック訳詞論。


 かつてのイギリスのブルース少年、R&B少年たちの中
でも、のちに人気ミュージシャンとして大成したのは、決
してうまいコピー・バンドの方ではなく、単純なラブソン
グすらも、自分たち自身のオリジナルな言葉として、せっ
つくように歌いかけた、あれらの連中だった。ただし、ブ
ルースやR&Bを、実にがつがつと吸収した後に、である。


 ブルースが白人青年の間に開花した音楽がロックなら、
ロックがいつの日にか私たち日本語社会に開花する(であ
ろう)音楽は、なんと呼ばれるであろうか。



   ―「宝島」1976年7月号より、164~170ページ


※文章中、「右に述べた」とあるのは、原文が横書きでは
なく、縦書きだからです。
※「たち」と「達」、「ロック・ファン」と「ロックファン」
が混在していますが、原文のままです。(高柳)



岩谷宏のロック論 44 ウエストコースト・サウンドをぶっころせ 

2008-04-14 07:52:23 | 岩谷宏 ロック
■ウェストコースト・サウンドをぶ
っころせ
 
 日本およびイギリスのロック・ミ
ュージシャンならびにロック・ファ
ンは、ピンクフロイド、EL&P等、
意識へのゲバルトをもってせまるタ
イプと、かの優しい優しいウェスト
コースト・サウンド・タイプの二者
に大別される。前者はあくまでもブ
ルーズ&ロックンロールを基礎にそ
のはてしない深化と展開につとめて
いるものであり、後者のオリジンは
ごしょうちのようにカントリー&フ
ォークである。
 さて、革命をこころざすワレワレ
にとって、優しさとは、それこそ大
前提中の大前提、核中の核であって
いまさらそれをことさら表出するこ
となどないものである。だいいちそ
んなヒマはないはずだ。
 では、いったい、なぜ、あの優し
いかったるいカントリー&フォーク
系の音楽、〝自己あまやかし型〟の音
楽が、けっこうまんえんしているの
であろうか。
 それは、ああいう音楽が可能な心
理的スペースというものがあるから
だ。
 そして、そのスペースは、実は、
大衆、労働者の怨念をまねくもの以
外のなにものでもない。
 アメリカ大陸、とくにその西海岸
は、彼等のオヤジたちがインディア
ンをおっぱらって確保したスペース
であり、彼等はその広さと富の中に
ヌクヌクといるのである。
 日本のウェストコースト系サウン
ドのファンも、一般に、そのような、
ある種のスペース、大衆からも一般
的なスペースを確保しているのであ
る。
 それは、〝なまけ〟というスペース
であったり、〝超越〟というスペース
であったり、経済的にまたは人間関
係的にすごく〝めぐまれている〟と
いうスペースであったりする。かく
ごを決めて労働者になることをイヤ
がり、いつまでもバイト的な感覚で
世を渡っているというスペース確保
の形態もある。
 ワレワレは、この種の〝スペース〟
を望見して、即座にぶっころしてや
りたいほどのはげしい怨念をたぎら
せるのである。
 優しさ、などという、ワレワレに
とっては、とっくに当然のことを、
チンタラチンタラ音楽表出していら
れるのも、そういうスペースの中に
ヌクヌクといるからであり、またそ
れは、そうしている自分たちを、ヌ
ケヌケとあまやかしていることにほ
かならない。
 ウェストコースト系のサウンドと
は、ワレワレにとっては、もう、あ
たりまえすぎて、わざわざ聴くほど
のものではないのだ。
 それより、たえまない「意識鍛造」
「意識拡大」「意識沈着」「意識かくら
ん」にはげむべきであって、その方
に忙しく、その方が楽しくてきも
ち良い。革命とは永久革命、たえざ
る革命、でしかありえない。
 最後にあらためて言おう。意識の
相乗的進化、弁証法的深化にはじめ
からそっぽをむけている、かの、ウ
エストコースト・サウンドは、結局、
アメリカ白人の犯した歴史的罪の延
長上にあるものにすぎず、彼等は、
ワレワレのように、ブルーズに全身
犯され、愛したのではなく、ブルー
ズをあるとき、都合のいいように〝侵
略〟したものなのである。
 ぶっころすべきである。

             岩谷宏


―「NEW MUSIC MAGAZINE」1972年2月号
LETTERS レターズ 164ページより

岩谷宏のロック論 43 T・REX スライダー(Aめん)

2008-04-08 07:45:55 | 岩谷宏 ロック
METAL GURU

きみは海底にしずめららたテレビのツマミですか
きみは地中に埋められた自動車のエンジンですか
そうです
きみは
金属のかたまり(かみさま)です

きみはきみ自身そのままで
真実です
だからきみは
部屋に電話を引きません

ロックがきみを
金属のかたまり(かみさま)に変えたのです
そうです
万事休すです
おめでとう


MYSTIC LADY

きみは
ぼくの夜を
そんなにも
やわらかく
専領しますが
もう
ぼくのナニは
たたないのです
残念ながら
愛は
そのむかし
きずつけられて終わったのです

いま こうやって
三ヶ月のお月さまをみていると
ぼくのこころにはひとすじの痛みが走り
きみはとにかく
すてきすぎるのです


ROCK ON

ぼくはもうずいぶん前からここにいます
みんなももうずいぶん前から
ここにいるんです

絶望こそが
愛の天使なのです

駐車場のリタもまえからここにいます

こころのキズこそ
予言者なのです

きみもぼくももう
詩人であるしかない そして
詩人はいま
ヨロイを着ているのだ

それでは、もっともっとロックに酔い痴れよう


THE SLIDER

悲しいときには
泣かない
ぼくはソッポむくだけだなあ
ぼくは逃げていくだけだ

いろんなことがココロで理解できるよ
でも なんにも理解できない だから
悲しいことも
うれしいこともないよ

ぼくには
なく
ということが
ぜんぜんできないのだ というのも
それほど
ものごと理解しちゃいないもの

学校なんてなんだかわかんないし・・・・・・

ぼくは愛しているよ でも
あれらこれらのどれひとつが
愛であるなんてのは
おもえはしないさ

ぼくは愛しているよ

この広い(?)世界がじつは
せまくてあったかい花蜂の巣か
この小さい「私」という世界がじつは
もしかしたらまったく存在しないくらい
空漠空虚無限広大であるか

そんなことが
てめえらにわかってたまるか


BABY BOOMERANG

きみはやせてひきしまったイイ顔をしたお大者(きつかわ)だが
きみは現実には 夜、きみの想像力によって
はじめて自由(かなしく)になるにすぎず
実際は
都市の昼間は牢獄であり
とじこめられて
小説(のーと)など書いたところできみは
すぐにアホらしくなってしまう

ぼくはゴミの山をかきわけかきわけ
ひっしで友を求めるのだが
しょせん きみも、また、きみも
とらわれの身
また ぼくも

かくしておろかなぼくは
おろかなおまえをつけまわし
いつかはべっど(雀卓)の中で
決着をつけてやろうと
コシタンタンとねらっているのだが
けっきょくは
ぼくもきみも
おたがいをキズつけることさえできない

というのも
たぶん
だれにおいても
否定の力の方が
強いからだ


SPACEBALL RICOCHET

私はタダの人
風はからだに感じ
世代の悲しみは
私を刺す(グニョ~~~)

私はレスボールをかかえた
ちっぽけな男
でもとにかくなんとなく
その日その日をくらしているぜ

本が好きで
つぎからつぎへと本を読む
どの著者もどの著者もみんなその語り口は
まるでぼくの友達みたいだなァ

なにができる?
ぼくらは動物園に住んでいるのだ
ぼくらにできるただひとつのことは
宇宙のはしっこの方で
ぶざまに飛びはねてみせるだけ

こころのう~~んと深いとこでならぼくは
きみのほとんどすべてを
永遠に抱きしめていてあげられる

でも、きのう買った中古車は
もうぬすまれてしまった

きみはいつみてもすてきだ
都市よ ○○よ
そしてぼく・・・・
この
関係ない両者の関係

こうやってイライラと
宇宙のはしっこをぶざまに
すべり跳んでいるときには
疲労を休める方法は皆無なのか。


BUICK MACKANE

ビュイック・マッケーン
すげえクルマだなあ
おれはおまえとやりたいよ

とくに
雨がふってるまちん中で
おまえのすがたは
じつにカッコイイのだ

ほんと
ぼくは
おまえにのって
どっかに消えてしまいたい

まちに
雨がふりしきる日なんか・・・・・
ビュイック・マッケーン
どこかにいこうぜ


(あと書き)

ティラノザウルス・レックスからT・レックスへの変貌は、
マークボランが、その発声を、趣味的神秘主義を防ぐことから、
むしろ、彼の想像力が現実に向かって投じられるやいばとなり、
疲労した肉体の声へと”転じた”ところに生ずる。
T・レックスもバカでかい音できかねばその本質はわからない。
荒涼とした音・・・彼の衣装と化粧は、彼のDesolationの表現である。
一時、ぼくらの仲間うちで、仕事とそれをとりまく環境が
かったるくてラチがあかないような日々に、
彼のような発声でためいきをつくことがはやった(?)。
キレイな夢の中に住む人たちが、いかにして自己を破り、
汚辱とワイセツさとかなりのブザマさの中にこそあるリアリティを、
いかにして発見するのか、ということの好個の実例がここにある。
やさしく「見守る」ことなどよりも、「強姦する」ことの方が
百倍も千倍も愛である・・・・・といったのは19世紀の人
ドストエフスキーである。
そして、T・レックスは、人が、本当に真剣に世界と
かかわろうとするときにその人の中に湧き立つ、
ワイセツな暴力性の音楽である。
くりかえすようだがT・レックスの音楽を、ただ 幻想的とか、
セクシーとか、ファンキーなどという形容詞で、
「愛しつつ」きいている人は、もっとでっかい音できいて
たたきのめされた方がいい。
きくところによれば、武道館の公演では、音量があまりに大きくて、
聴衆の大半はとまどったという。
私なんかは、かねてから、T・レックスが日本にくるのは
いまはまだ状況的に早い、と、気にしていた方なのだ。
ひとつの、まるっこい、やわらかな夢・・・・ビートルズによって
代表されるひとつの夢が、完全に破産し、そのあとの荒涼の中に咲いた
あだ花T・レックスを、日本ではなぜかビートルズ
と同様の夢として、幻想として遇する人が多い。


(ロッキングオン VOL4より)1973年4月号





けいこさんは、真性ミーハー パート6 ぐるんぐるん星人物語

2008-04-06 15:42:12 | 岩谷啓子(けい子) ミーハー道
ぐるんぐるん星人、初めて、カラオケに行く


ぐるんぐるん星人は、今年で、5◎才になるわけだけれども、
今まで、世に言われる「カラオケ」という場所に、行ったことはない。


ある人からもらった「ブルーハーツ」のCDがいたく気に入って、
そんでもって、世では、酒なんかみんなで飲むときに、
カラオケなんかで、コミュニケーションをとるわけであるから、
まあ、1曲は歌えたほうがよいわな~と、いうことで、
「ブルーハーツ」の曲を、練習しに、はじめて、世にいう「カラオケ」なるものに、
行ってみたわけである。

シダックスというカラオケ屋が、わが市の中心にあるわけである。
車で出かけ、駐車場に、車を止め、そして、駐車場に直接繋がっている
裏口から、はいると、大きなホールになっていて、なんの音かわからないが、
ダンダンダンと、低い音が、鳴り響いていた。

受付で、「すみません。初めてなんですけれども、よろしいでしょうか。」
なんて言ってみると、掃除をしていた受付嬢が、
「はい、大丈夫ですよ。」などと、優しい声で、いろいろシダックスのシステムを
説明してくれたわけであるが、
要するに、1時間450円で、一部屋を使えて、
フリータイムなんていう、安い金額で、長時間歌える制度もあるということであった。

このテの現実的なことは、毎日、頭が、ぐるんぐるんしている私は、全く、よくわからないから、
まあ、お金のことは、相手の言うなりであり、
一応、2時間約束で、355室に入ったわけである。

「カラオケ屋」なるものは、全く初めてであるから、
機械の使い方などは、説明してもらわないと、よくわからないわけであり、
歌を練習するなんていうことは、出来ないわけで、
そんでもって、お部屋で、従業員から、丁寧に器具の使い方を、説明してもらったわけである。

機械の操作は、苦手である。
器具の操作は、よくわからない。
だから、まあ、私は、適当に、従業員の説明に、相槌を打つしかないわけである。

パソコンで管理されているから、今のカラオケのシステムは、タッチパネルで、
曲を選曲することになっているらしい。

「ブルーハーツ」の歌を、練習したいんです・・・・と言って、
タッチパネルの、歌手名などに、「ぶる」と打ったけれども、
少しも、「ブルーハーツ」は、出て来なくって、そんでもって、
従業員に、だめですか・・・なんて言うと、
「ざ」を前にいれましょう・・・と、従業員が、「ブルーハーツ」の前に、
「ザ」を入れて、検索してくれたわけである。

そんでもって、やっと、「ブルーハーツ」の曲が選曲できる画面になって、
私としては、
「1000のバイオリン」が歌いたい、「情熱の薔薇」が歌いたいということで、
この2曲を、選択したわけであるが、
いざ、「情熱の薔薇」を、歌って、練習してみると、
なんか、難しいわけである。

そんでもって、「1000のバイオリン」の方に、練習曲を切り替えたら、
まあまあ、なんとか歌えたわけである。
「ヒマラヤほどの、消しゴムひとつ・・・」と歌は始まるわけである。
始まりが、かっこいいのだが、
よくよく考えたら、詩の意味は、私的には、全く良くわからないわけである。
なにを、言っているのだろうか?という、わけである。

しかし、「情熱の薔薇」は、詩がグッド、ぐっど。
なんか、涙が出てしまう詩である。
この曲を作った甲本は詩人だが、
「1000のバイオリン」を作った真島は、普通ダメ人ということであろうか。

何回も練習して、「1000のバイオリン」を歌うことが出来るように
なったが、カラオケの声って、本当に、自分の声であるのだろうかという疑問が
浮かんできた。
結構エコーばかりかかっていて、そんでもって、自分の声の量というのか、
本当の声量より、聞こえる自分の声が、なんか、うそ臭く感じるように出来ている。

カラオケで歌うのでなければ、私の歌なんどは、とても、「ヘタ」な
歌であるに、違いない。
当然。当然。

歌っていると、アットいう間に、2時間が経ってしまって、
フロントから、
「お客様、あと10分でお時間です」と、お声がかかった。

「カラオケ」という魔法、これは、ヤミツキになるだろうか?
と、思ったが、私的には、全くヤミツキにはならなかった。

なぜって、結局、「カラオケ」には、相手がいないわけである。
全く自分の世界で、自分の中で、自分が、くるくる回転しているようなもんである。
私は、このテの自慰世界は、全く苦手、嫌い。

だから、今度飲み会などがあり、2次会で、カラオケに流れたら、
弾丸のように、人前で、相手をくし刺しにするように、
「1000のバイオリン」を歌ってやるぞ、と、思っておる。

ちなみに、このカラオケ店では、わたくしめは、酒は飲みませんでした。

ハイ、ハイ、酒酔い運転はいけませんよね~。
絶対、してはいけないことです~。

な~んて、殊勝らしく言ってみるが、
まあ、ぐるんぐるん星人の頭は、この日だけは、特別の日のようでして、
「酒を飲むな」という指令が、どこからか、来ていたとしか、考えられない、
不思議な、カラオケ店初体験の一日でありました。


岩谷宏のロック論 42 HERGEST RIDGE/マイク・オールドフィールド

2008-04-03 07:26:55 | 岩谷宏 ロック
HERGEST RIDGE/マイク・
オールドフィールド/岩谷宏



キング・クリムゾン最新譜のA面第一
曲目は、歌詞を見ると、グレート・デ
シーバー=大いなる詐欺師とは、ロッ
クのことであるらしい。ロックに対す
る大否定と大肯定の意を併せ持った曲
で、そのニガい思いは私なぞにはよく
分かる。くそっ、だましやがって!
とは思いつつも、しかし結局、自分の
夢も理想も思想も感性も、すべてロッ
クの中にしかなかったわけで、ほかに
楽しいことなんかなんにもなかった。
社会は人と人とのコミュニケーション
によって成り立っている、と教科書的
に教えられているが、ロックを聴き込
んでいくと、今の社会はまるっきりコ
ミュニケーションから成り立ってなぞ
いない、ということがあまりにも明き
らかにわかってくるので、ロックは、
私にいらだちと怒りと淋しさと絶望感
とをつのらせただけだった。「なのに
じゃあ、なぜ、まだ生きているのか?
その理由は、きみになら分かるよね!」
(ジョン・レノン=ヤー・ブルース)
「沢山の新しき生命が、もう生まれて
いるんだ!」(グレッグ・レイク=キ
エフの大門=展覧会の絵)


ロックにこそコミュニケーションがあ
る。ロックにしかコミュニケーション
はない。ロックは、スピーカーからこ
っちに向かって、突き刺さってくる音で
あり、メッセージでなくてはならない。
つまり、ミュージシャンの、聴き手と
かかわろうとする意志の感じられない
ものはロックではない。マイク・オー
ルドフィールドの音楽がロックでない
のは、ベートーベンの田園交響曲がロ
ックでないのと同じく、〝一聴瞭然〟で
あって、私はこのレコードを、レコー
ド評を書けと言われて一度聴いただけ
だ。


描写音楽は、オールドフィールドはす
ごくイイものを描写してるのであろう
けど、描写はリアリティではない。一
人でダブル役満あがるのを夢想してる
のよりは、おもしろいひっかけをして
橘川にリーチ一発ふりこませてる方が
ユカイだ。(麻雀を知らない人への注
:ダブル役満は六万四千点、リーチ一
発はただの二千六百点) それから小
林くんへ、映画というメディアは、や
はりその基本性格からして、ロック的
ではないと私は思う。


また、だれも神様ではないのだから、
その人が本当はどんな人か、潜在的に
はどんな可能性を持った人なのかは、
最後の最後までだれにも決められない。
心の中ででも、あるいは爆弾を使って
現実にでも、一方的に勝手に消し去っ
てはいけないのだと思う。相手に対し
て、あきらめずにトライを繰り返すこ
とが必要ではなかろうか。懸命にトラ
イした結果、クビになっても、放校に
なっても、勘当されても、それはそれ
であきらめがつくじゃないか。なんつ
っても、ロックは正義のタタカイなん
じゃから。


こういうレコードを聞くと、「ロック」
と「芸術」とはどう違うのか、または、
「ロック」と「音楽娯楽」とはどう違
うのか、という、おなじみの問にぶつ
かってしまう。答をここで性急に出そ
うとは思わないが、オールドフィール
ドの音楽はやはり基本的に「芸術」的
であり、「音楽娯楽」的に感じられて
しまう。「クスリやってるときは、ア
グネス・チャンまでヨくなっちゃうん
だ」という呆けた話を最近きいたけど
マイクという人も、善意に解釈すれば
麻薬中毒者の現在進行形の人なのだろ
うか。


まあ、何を聞こうと聞くまいと、最近
はある種のひどい不安が、ちっとも消
えやしないのだけど。


―「ROCKIN’ON」第13号 ディスクレビュー
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