■ウェストコースト・サウンドをぶ
っころせ
日本およびイギリスのロック・ミ
ュージシャンならびにロック・ファ
ンは、ピンクフロイド、EL&P等、
意識へのゲバルトをもってせまるタ
イプと、かの優しい優しいウェスト
コースト・サウンド・タイプの二者
に大別される。前者はあくまでもブ
ルーズ&ロックンロールを基礎にそ
のはてしない深化と展開につとめて
いるものであり、後者のオリジンは
ごしょうちのようにカントリー&フ
ォークである。
さて、革命をこころざすワレワレ
にとって、優しさとは、それこそ大
前提中の大前提、核中の核であって
いまさらそれをことさら表出するこ
となどないものである。だいいちそ
んなヒマはないはずだ。
では、いったい、なぜ、あの優し
いかったるいカントリー&フォーク
系の音楽、〝自己あまやかし型〟の音
楽が、けっこうまんえんしているの
であろうか。
それは、ああいう音楽が可能な心
理的スペースというものがあるから
だ。
そして、そのスペースは、実は、
大衆、労働者の怨念をまねくもの以
外のなにものでもない。
アメリカ大陸、とくにその西海岸
は、彼等のオヤジたちがインディア
ンをおっぱらって確保したスペース
であり、彼等はその広さと富の中に
ヌクヌクといるのである。
日本のウェストコースト系サウン
ドのファンも、一般に、そのような、
ある種のスペース、大衆からも一般
的なスペースを確保しているのであ
る。
それは、〝なまけ〟というスペース
であったり、〝超越〟というスペース
であったり、経済的にまたは人間関
係的にすごく〝めぐまれている〟と
いうスペースであったりする。かく
ごを決めて労働者になることをイヤ
がり、いつまでもバイト的な感覚で
世を渡っているというスペース確保
の形態もある。
ワレワレは、この種の〝スペース〟
を望見して、即座にぶっころしてや
りたいほどのはげしい怨念をたぎら
せるのである。
優しさ、などという、ワレワレに
とっては、とっくに当然のことを、
チンタラチンタラ音楽表出していら
れるのも、そういうスペースの中に
ヌクヌクといるからであり、またそ
れは、そうしている自分たちを、ヌ
ケヌケとあまやかしていることにほ
かならない。
ウェストコースト系のサウンドと
は、ワレワレにとっては、もう、あ
たりまえすぎて、わざわざ聴くほど
のものではないのだ。
それより、たえまない「意識鍛造」
「意識拡大」「意識沈着」「意識かくら
ん」にはげむべきであって、その方
に忙しく、その方が楽しくてきも
ち良い。革命とは永久革命、たえざ
る革命、でしかありえない。
最後にあらためて言おう。意識の
相乗的進化、弁証法的深化にはじめ
からそっぽをむけている、かの、ウ
エストコースト・サウンドは、結局、
アメリカ白人の犯した歴史的罪の延
長上にあるものにすぎず、彼等は、
ワレワレのように、ブルーズに全身
犯され、愛したのではなく、ブルー
ズをあるとき、都合のいいように〝侵
略〟したものなのである。
ぶっころすべきである。
岩谷宏
―「NEW MUSIC MAGAZINE」1972年2月号
LETTERS レターズ 164ページより
っころせ
日本およびイギリスのロック・ミ
ュージシャンならびにロック・ファ
ンは、ピンクフロイド、EL&P等、
意識へのゲバルトをもってせまるタ
イプと、かの優しい優しいウェスト
コースト・サウンド・タイプの二者
に大別される。前者はあくまでもブ
ルーズ&ロックンロールを基礎にそ
のはてしない深化と展開につとめて
いるものであり、後者のオリジンは
ごしょうちのようにカントリー&フ
ォークである。
さて、革命をこころざすワレワレ
にとって、優しさとは、それこそ大
前提中の大前提、核中の核であって
いまさらそれをことさら表出するこ
となどないものである。だいいちそ
んなヒマはないはずだ。
では、いったい、なぜ、あの優し
いかったるいカントリー&フォーク
系の音楽、〝自己あまやかし型〟の音
楽が、けっこうまんえんしているの
であろうか。
それは、ああいう音楽が可能な心
理的スペースというものがあるから
だ。
そして、そのスペースは、実は、
大衆、労働者の怨念をまねくもの以
外のなにものでもない。
アメリカ大陸、とくにその西海岸
は、彼等のオヤジたちがインディア
ンをおっぱらって確保したスペース
であり、彼等はその広さと富の中に
ヌクヌクといるのである。
日本のウェストコースト系サウン
ドのファンも、一般に、そのような、
ある種のスペース、大衆からも一般
的なスペースを確保しているのであ
る。
それは、〝なまけ〟というスペース
であったり、〝超越〟というスペース
であったり、経済的にまたは人間関
係的にすごく〝めぐまれている〟と
いうスペースであったりする。かく
ごを決めて労働者になることをイヤ
がり、いつまでもバイト的な感覚で
世を渡っているというスペース確保
の形態もある。
ワレワレは、この種の〝スペース〟
を望見して、即座にぶっころしてや
りたいほどのはげしい怨念をたぎら
せるのである。
優しさ、などという、ワレワレに
とっては、とっくに当然のことを、
チンタラチンタラ音楽表出していら
れるのも、そういうスペースの中に
ヌクヌクといるからであり、またそ
れは、そうしている自分たちを、ヌ
ケヌケとあまやかしていることにほ
かならない。
ウェストコースト系のサウンドと
は、ワレワレにとっては、もう、あ
たりまえすぎて、わざわざ聴くほど
のものではないのだ。
それより、たえまない「意識鍛造」
「意識拡大」「意識沈着」「意識かくら
ん」にはげむべきであって、その方
に忙しく、その方が楽しくてきも
ち良い。革命とは永久革命、たえざ
る革命、でしかありえない。
最後にあらためて言おう。意識の
相乗的進化、弁証法的深化にはじめ
からそっぽをむけている、かの、ウ
エストコースト・サウンドは、結局、
アメリカ白人の犯した歴史的罪の延
長上にあるものにすぎず、彼等は、
ワレワレのように、ブルーズに全身
犯され、愛したのではなく、ブルー
ズをあるとき、都合のいいように〝侵
略〟したものなのである。
ぶっころすべきである。
岩谷宏
―「NEW MUSIC MAGAZINE」1972年2月号
LETTERS レターズ 164ページより
私がこの投稿を見つけたのは、偶然でした。以前から年に最低2回は神田の古書店街を散策しているのですが、ある時、たまたま本誌を買って、レターズ欄に岩谷さんのお名前を見つけただけだったのです。
この年の夏、「RO」が創刊されることになります。
名曲、優れた曲とは、ということで、
「何らかの新しい発想を喚起するに足るトリックがあるもの」「目を開かせてくれたり、自分の考え方を少しでも変えてくれる曲が好き」(32ページ)
いかにもボウイさんらしい考え方だと思いました。
けい子さん、近々、「宝島」1976年7月号に掲載された「ぼくの独断的ロック訳詞論 ロックの歌詞による文章入門」をテキスト文書化してけい子さんへお送りしたいと思っています。よろしいでしょうか?
ありがとうございます。
宜しくお願いいたします。
いちおう、まともに休める(一ヶ月半休日なしでした)ようになりましたので、これからは長文でもテキスト化していけると思います。「音楽専科」に載ったボウイに関する文章など、皆さんに読んでいただきたい岩谷さんの文章が、まだまだたくさんあります。こちらこそ、よろしくお願いいたします。
http://www.bounce.com/news/daily.php/13826?K=%A5%C7%A5%F4%A5%A3%A5%C3%A5%C9+%A5%DC%A5%A6%A5%A4
皆さんに読んでいただけたら嬉しいのですが・・・
ありがとうございます。
ボウイさんの72年のライブアルバムは
是非、購入します。
ボウイさんのファン・サイト「TVC15」はこちらです。よろしかったら、ご覧下さい。
http://homepage2.nifty.com/tvc15/