サブカル系酒ライター 本橋牛乳さん、(けいこさんは、
もうもうさんって、呼んでいるの)
から、けいこさんが書いたぺ・ヨンジュン作品評、
「遙かなり ぺ・ヨンジュン」の書評が届きましたので、
UPさせていただきますね。
この書評「トーキングヘッズ」NO33に載っています。
(有限会社アトリエザード発行)
もうもうさん、ありがとう!!
「遥かなり ペ・ヨンジュン」
photographer著、右文書院、1600円、2007年2月
ペ・ヨンジュン、通称ヨン様。主演したテレビドラマ「冬のソナタ」は、かつて日本で製作されたドラマ「君の名は」の再来と言われ、日本で大ブレイクし、韓流ドラマブームのきっかけとなる。その中心にいるヨン様は、中高年女性のアイドル。およそ、そういったところだろうか。だが、本書はその「冬のソナタ」をはじめとする、ペ・ヨンジュンの出演作の、その俳優としてのペについての批評、というスタイルをとりつつも、そうではない。
この本を読む、というのは、ぼくにとって、とても奇妙な体験だった。ぼくにとって、ペ・ヨンジュンという俳優は、いつも清潔な微笑みを絶やさない、そういう人物でしかない。ペが出演したドラマは、一度だって見たことないのだから。それは、「冬のソナタ」のポスターから、少しも出ることはない。
だからなのかもしれない。著者がペ・ヨンジュンを語るということは、その姿を通すことでようやく、自分の内面を語ることができる、そういうことのように思えるのだ。ペ・ヨンジュンは優れた俳優だと語られる。本書では、いくつもの作品が取り上げられるが、どの作品においても、監督や脚本の良し悪しは語られない。製作スタッフが意図したことを、ペ・ヨンジュンはいつも乗り越えてしまう。
ストーリーだけを聞かされていると、巧妙に作られているとはいえ、本質は30年前、40年前の日本のテレビドラマ、例えば「細腕繁盛記」と大差ないのではないか、と思ってしまう(まあ、「細腕繁盛記」のことを言えば、花登匠の脚本が思いつきの連続で一貫性がないはずなのに、設定そのものの力があり、何よりも富士真奈美の演技があってこそ、必ずしも強い個性を持っていたわけではなかった新珠三千代が輝いた、というような批評はできるだろう。同じ脚本家で同じようなストーリーであっても「どてらい男」が男が主人公だったゆえに、そこまでの成功を収めなかった、というようなことも言えるだろうな、とふと思った、ということはどうでもいいか。でも、花登は死んだときに、彼の最高傑作は妻の星由里子だ、とか言われてもいたし、やはり役者で語られるドラマというのはあるわけだな)。そう考えると、韓流ドラマを中高年の女性が見ているというのは、昔の日本のドラマを彷彿とさせるからなのかもしれない。せっせとマンガを原作にしたドラマばかり製作している日本にはないものだ、と思う。まあ、これは余談だな。
著者は、俳優は俳優以上でも俳優以下でもない、作品は作品以上でも作品以下でもない、最初にそう語る。だが、では、なぜ「冬のソナタ」を見た著者が、深い感情の波に襲われ、しばらく何も考えられない状況に陥ったのか。それは、ペ・ヨンジュンという俳優の演技そのものが、著者の奥底にあるものを引き出してしまったからだ。俳優は俳優以上でも俳優以下でもない。そうかもしれない。著者の内面を引き出してしまったのが、ペ・ヨンジュンという人間なのではなく、ペ・ヨンジュンという俳優の演技なのだから。それはプリズムのようにそこに存在し、著者自身にも見えていなかったものを見せられてしまう。そうであればこそ、感情の波に襲われてしまう。それは、感動したという外側の要因による体験ではなく、本当に内面の体験だ。だから、著者は次々と作品について語る。けれども、そこからあふれ出るペ・ヨンジュンについて語ることになる。それは、本当に、ペ・ヨンジュンが無色透明のプリズムであるかのように存在し、けれども過剰に反射率が高いために、どんどん光を分解していく、著者の内面にある要素をどんどんと明確にしていく、そういう過程として語られていく。
著者はかつて、そして今でもロックミュージックを聞いてきた。考えてみれば、音楽に、とりわけアーティストにはまる、という体験は、自分の姿をくっきりと映し出すプリズムを発見する、そういうことかもしれない。渋谷陽一にとってのレッド・ツェッペリン、松村雄作においてのザ・ビートルズ。だが、そうだとして、渋谷も松村もある程度冷静な音楽批評を行なう。しかし著者はそれを選ばない。選んだとしても、結果として違うものになっている。俳優は俳優以上でも俳優以下でもない。そうかもしれない。そこには、ペ・ヨンジュンという思想があるわけじゃない。徹底して優れた俳優であるペ・ヨンジュンの演技によって、どれほどまでに著者の内面が引き出されたのか、ということだからだ。
だから、この本を読むというのは、本当に奇妙な体験だった。ペ・ヨンジュンを語ることを通じて、その出会いまでの時間、たまっていた感情、孤独、官能、あるいは魂そのもの、そういったものが次々と語られる。ぼくはこの本を通じて、一人の女性、というよりもむしろ少女の魂が自分の中に流れ込んでいくということを感じた。そのことが奇妙な経験だったということだ。
ジャネット・ウィンタースンであれば、作家として自分で自分のことを語ることができる。けれども、著者は、photographerというペンネームが象徴するように、レンズのないカメラよろしく、ペ・ヨンジュンという存在があることでようやく自分を語ることができた。
あとがきで、ペ・ヨンジュンが好きな女性は、万年少女だということが語られる。例えば、トットちゃん(黒柳徹子)がそうである。でも、万年少女ではいけないのだろうか。社会は年齢に応じた女性像を現実の女性に求めてしまう。そうした中で、抑圧されてきたのが、多くの女性の内面にある万年少女なのかもしれない。だからこそ、ペ・ヨンジュンのドラマによって、その内面が引き出され、再発見され、感情の波にとらわれてしまうのだろうか。
本書を読むことは、奇妙な体験だと書いた。だが、悪い体験ではない。一人の女性の中で、少女が再発見され、立ち上がり、解放される、その過程を、本を通じて追体験する、そうした過程でもあるからだ。そして、その過程を共有することで、ぼく自身の内面がゆさぶられる。そのことこそが、奇妙な体験だ。だからぼくは著者に、「ありがとう」と言う。