PROOF OF DAVID BOWIE
ボウイが今日までたどって来た道は、夢、反
抗、希望、絶望、等の軌跡であり、それは
おそらく私たちのものと同一である。
絶望の深さと正比例して強まる信念の強さ―D・ボウイの軌跡をたどる
デヴィッド・ボウイが今日ま
でたどってきた道は、夢、反抗、
希望、絶望、等の軌跡であり、
それはおそらく、私達のものと
同一である。
人類史数千年を支配してきた
ひとつの巨大でいまわしい原
理、それは今日も、ほとんどの
人間の個人を内側からも支配し
ている。この原理を前に、私達
はときに挑戦し、反抗し、新し
い世界を夢見、そしてそれがテ
コでも動かないことを知って敗
北し、絶望し、途方に暮れる。
それぞれの個人的な夢想から
出発したロックは、60年~70代
年代のサイクルを経て、いま、
深い絶望感と停滞の中にある。
そして、たたかいは、いま、個
人的なものから集団的なものへ
と、若い白人から再び黒人達の
手へと、夢想から現実(=政治
と戦争)へと、転位している。
白人ロックが停滞してしまっ
たのは、それが発展し拡大し内
部をますます強固にして行く組
織論としてのコンセプトを欠い
たからであり、また一方では白
人的社会では、たたかいを現実
化し維持して行くことが不可能
だったからだ。白人的社会では
敵は拡散し分散している。大者
小者を含めて、私達のような社
会では、いやらしいやつらがい
たるところに、うじょうじょい
るのだ。そして、白人ロック自
身のもっていた致命的な欠陥も
ある。それは、それがあくまで
も「個人」の「表現」という位
相を抜けきれなかったことだ。
いずれにせよ、デヴィッド・ボ
ウイを見る場合も、それを華や
かなスターとして、あるいは単
なるショー・ビジネスの成功者
として見るのは間違っている。
彼は、私達にとって、ひとつの
ラディカルな〝たたかい〟の共
有者であり、彼の希望も絶望も
いわば私達自身の希望と絶望と
が白いスクリーン上に映しださ
れた姿である。アルバムを追っ
て、その道のりをふりかえって
みよう。
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全編に亘る自己の存在を
見通す眼
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『スペース・オディティ』
ロック・フェスティバルやア
ンダーグラウンド的なグループ
活動への、ナイーブな夢が語ら
れる。そして一方、この夢を共
有できなかった一人の女友達へ
の未練がましい歌もある。交信
不能になった宇宙飛行士、そし
てフリー・クラウド(自由雲)
から来たワイルドな目の少年
は、みずからを切り離した「自
己」の表明である。
『世界を売った男』
このアルバムで彼の態度は、
不遜とも言えるほど、冷酷に、
挑戦的になる。「自分」は木かげ
でねむっている一匹の「怪獣」
であり、「彼等」のことは、単
に「ちょっと背の高いガキ共」
にすぎない、と言い切る。そし
て「世界なんて、売っぱらって
しまったよ」と冷たく笑う。し
かし、完全な救世主というもの
が現れたら、なによりもそい
つ自身が退屈してしまうだろ
う、と言うあたり、すでに個人
的な夢想の限界にもがいている
ようである。
『ハンキー・ドリー』
はやくも、一般的なロック現
象へのいらだちが表明される。
チェンジズ 変れ! お前自身
がもっと新しいものになれ!
とボウイはアジるが、「新しい
もの」への予感は、もっぱら
「子供」に託される。そして、
いますでに子供ではない「少女」
は、親に叱られて映画館に入
り、見たくもない映画を見てヒ
マをつぶしている。最後の方
で、人々の心を変える力を持っ
た不思議な芸人達について語ら
れる。これが現在の彼の自主プ
ロデュース主体の法人名になっ
ている。
『ジギー・スターダスト』
このアルバムでボウイはロッ
ク論を展開する。主要な点は、
あいまいさの除去。つまり「人
間としてはこれまでの人間とな
んら変りのない人間が、たまた
まロックとやらをやっているだ
けなのか?」といった問いに対
して、それはちがう! と明言
したのだ。そこで、ただの人間
ではない、ジギーというフィク
ション的なキャラクターを登場
させる。そして聴衆に「ギミー
・ユア・ハンド!」と呼びかけ
るのだ。
だが、いまにして思えば、ジ
ギーという規定は規定にすらな
っていない。
『アラジン・セイン』
初のアメリカ・ツアー。「ス
ター体験」後の初のアルバム。
時間への異和感。アメリカのブ
ルジョア都市に感じた不穏な空
気。タイトル曲では1970年
代にぼっ発する大戦争を予感し
ている。デトロイトの雑踏の中
にゲバラの姿をちらっと見たよ
うな気がする。ハリウッドへの
「うんざり感」。そして、あや
しいまでに底なしに優しい黒人
コール・ガールとの一夜。黒人
娼婦は、ニーッと笑うのだ。黒
い顔で、ニターッと笑うのであ
る。
『ピンナップス』
60年代ロック神話の、個人的
ルネッサンスをめざしたもの。
『ダイヤモンド・ドッグス』
体制への完全な無力感にうら
うちされた体制批判。彼は、彼
にとってのビッグ・ブラザーを
救世主としての地球独裁者を待
望する。
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ヨーロッパ最深部への
旅立ち
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『ヤング・アメリカンズ』
このころ、ディスコ・ソウル
に毒されていたアメリカ。毒を
もって毒を制しようと、ディス
コ・ソウルの本場フィラデルフ
ィアで制作したアルバム。なに
かというと、ニーッと、あるい
はニターッと笑う黒人達に対し
て「ちゃんとしっかり、はっ
きり、〝勝つ〟ことだけ考えてい
ろ。もう、ニヤニヤ笑うな!」
と語りかける。レゲエのミュー
ジシャンたちは、もう、あいま
いに笑ったりしない。
『スティション・トゥ・
ステイション』
ようやくアメリカにあきあき
し、再び自分自身に戻ったボウ
イ。
なにをしてももう遅い。な
にを考えてももう遅い。私は一
介のヨーロッパ人。ここ(アメ
リカ)でやることはない。いつ
も、ほんとは、自分は、単純で
深い愛のためにのみ行動してい
たのではなかったか…。とらえ
どころのないアメリカに見切り
をつけて、以後、彼はヨーロッ
パ最深部へと旅立つ。
『ロウ』
ヨーロッパ(ベルリン)から
の第一信。深く暗い歴史の傷
跡。その中で、一人、一人に閉
じられている人間。彼もまた、
そのような個人の一人でしかな
い。暗闇を通して、そのような
一人一人に対して、彼は切実に
呼びかける。
「なにもいらない。ただ、あな
たの愛だけがほしいだけなん
だ…」と。
ここでデヴィッド・ボウイ
は、もはやロック・スターでは
なく、一人の孤独者である。
『ヒーローズ』
絶望。酒。ベルリンの貧民窟
ノイケルン。アラブ人。もは
や、一人一人の、弱い人間の、
その一人一人の深奥のひそかな
生、ひそかな想い、ひそかな
愛、といったものを信じるしか
ない。
いまも、歴史の傲岸な壁はそ
そり立つ。「わたし」と「あな
た」とはへだてられていて、お
互いに無力。
…しかし、いつの日か、私達
こそが、すべて、王となり、王
妃となる日が来なければ…。こ
れまで、歴史の犠牲者であった
私達こそがヒーローズとなる日
が、ぜったいに来なければ…。
しかし、いつ、いかにして?
―「音楽専科」1978年9月号
152~154ページ
(「70代年代」となっていますが、
原文のままです。 高柳)