岩谷宏と一緒

岩谷宏の同居人岩谷啓子(けい子)が、犬猫まみれの官能の日々を綴る

岩谷宏のロック論 54 炎(あなたがここにいてほしい) 

2008-07-31 07:58:10 | 岩谷宏 ロック
炎 (あなたがここにいてほしい)
    WISH YOU WERE HERE

     ピンク・フロイド
      PINK FLOYD



SIDEA
1、狂ったダイアモンド(第1部)
   きみの狂気は超越者の輝き


覚えているでしょう若かった頃
きみは太陽のように恍々としてた
でも今きみの目はすでに異様
青空にあいた黒い穴みたい
 硬い結晶になってしまったきみの狂気
 あとはひたすら世を越えぬくのみ
スターになっても幼児性を捨てきれず
そんなきみを鋼鉄の寒風がひきさらった
 遠くできみの事をあざ笑う声がする
 きみはすでに他界の人だ、伝説だ、殉死者だ
 徹底的にこの世を無視するがいい


きみは人より早く心の神秘を知った
きみひとりが月に向かって叫んだ
夜の暗い影におびえ
昼の光はまぶしく残酷だった
 でも今きみの狂気は硬いダイヤモンドだ
 さらにさらに見事な超越者であってくれ
自分の才能をいつも限界を越えて使い尽し
きみは鋼鉄の風に乗って行ってしまった
 うわごとしか言わない今のきみ
 幻視者、絵師、笛師、そして囚人
 そのままでいいよ、十分に美しい



2、ようこそマシーンへ


さあ坊や、このマシーンにようこそ
私達はきみのことはなんでも知っているよ
時間というパイプに押し込まれた事も
玩具をあてがわれて
ボーイスカウトに入れられた事も
そんなおっ母さんをやっつけたくて
ギターを買った事も
学校が嫌いだったことも
いまは全てに対して不感症である事も…
さあ、このマシーンにいらっしゃい


さあ坊や、このマシーンにようこそ
私達はきみに夢を抱かせた犯人だよ
きみはスターになろうと思ったんだろ
あのヘタなギターを弾くスターに
そのくせいつもステーキを食い
ジャガーを乗り廻してるスターに…
さあ、このマシーンにいらっしゃい



3、葉巻はいかが


いらっしゃいよ、どう? 葉巻なんか?
ハイになりたいんでしょ? 飛ぶんでしょ?
大丈夫、死にはしないよ、叱られないさ
きみは素晴らしい、いや本気だよ
う~ん、すごいバンドだ、いやまったく
ところでピンク・フロイドってどれ?
きみにはほんとの事を教えてなかったっけ?
あれは、ひた走る血とヘロインさ


しかし、われながらビックリしたね
キップは売り切れ、すぐに次のアルバム
世間のみなさまに感謝しなくちゃ
幸せすぎてオタオタしちょうよ
他の連中みんなマッツァオじゃない?
チャートを見たでしょ?
でもこれはすごいスタートかもね
買って呉れた人みんなとチームを組めば
怪獣にだってなれそうじゃない
ところでまだ正体を明かしてなかったっけ
これは、ひた走る血とヘロイン列車



4、あなたがここにいてほしい


いまでもきみには分かるでしょう?
天国と地獄、青空と痛み
緑の野と冷たい鉄路
本当の微笑と偽りの笑顔
ちゃんと見分けはつくでしょう?


なのにきみは自分の理想を売りとばし
幽霊達と仲良くしてるの?
熱い灰を青くさい木と交換させられ
燃える想いを冷まされて
不本意な変化を強いられたの?
戦いに加担する気でいたのに
檻の中の主役になってしまったの?


ああ、僕は今とてもきみに居て欲しい!
今の僕達は来る年も来る年も
金魚鉢の中をさ迷うあわれな魂
走れど走れど風景は同じ
その果てに見い出したものは
昔と変わらぬ恐怖のみ
………きみが居てくれたら………



5、狂ったダイアモンド(第2部)
   きみの狂気は超越者の輝き


きみが何処にいるかだれにも分からない
ひょっとしたらすぐ近くかもしれないけど
 でもいいさ、きみは狂ったダイヤモンド
 ぼくらを無視して輝くがいい
狂気のひだを重ねてゆけよ
きっとどこかでまた会えるだろう
 硬く結晶した狂気のダイヤよ
 あくまでも超然と見事であってくれ
ぼくらは人気の上にあぐらをかいたまま
世間の寒風に乗って旅を続けよう
きみは永遠の少年
勝者にして敗者
真実と妄想の探究者
すべてを越えて輝いてくれ



    訳=岩谷宏

岩谷宏のロック論 53 ロックで生きられるか 

2008-07-14 05:34:02 | 岩谷宏 ロック
■ロックで生きられるか?

 いまは、確実に、なにかが始まら
ねばならないと、私は、百パーセン
ト心の中でそう思っている。
 きっかけは、これを書き出した夜
ローリンス・ストーンズがもう、ロ
ックのお経のようにしか聞こえず、
ボブ・ディランがもう、ドラムをバ
ックにした、青い政治家の演説のよ
うにしかきこえず、突然、こころサ
クバクとして、なにかが、あきらか
に終ったのだと確信したのである。
 それは、あきらかに私達の中で終
ったのであり、あるいはすでに、か
なり以前から終っていたのであり、
あるいはそれは、もうかなりひろく
社会の土壌の肥料となっていたので
あり、いまは、その肥料によって期
待されている新しい生物を発見、あ
るいは創造しなければならないとき
なのである。
 それは、新しい時代、自然にやっ
てくるのではなく私達の意思がつく
りだす、生活のしかたとしての新し
いエチックと、その構造的な具象化
としてのなにものかである。
 このことは、音楽を、時代精神の
同時的な反映であるなどといってす
ましこむのではなく、ことに、ロッ
クの場合、ひとつの予感として、あ
るいは準備として、あるいは胚芽と
して、私達であるみずからのうちに
聞きとるこころが言わせるのである。
 なぜなら、たとえば、私は、私の
年令的な特権として(28才)、ジャ
ズは、ただ、疎外を深化させたにす
ぎないという具体的な人間的実例を
まのあたりにいくつも見ているし、
その深化とは、同時に《定着》であ
るといういまわしい事象も見ている
からである。
 そして、ロックとは、ほかならぬ
この種の定着への拒否であったと私
は思っている。拒否できるだけの若
い精神的筋肉の持ち主が聞けばの話
である。
 拒否の精神とは、それ自身であり
つづけるか、他のものへの転化しよ
うとするか、どちらかでしかあり得
ない。ロックのロックとしてのオリ
ジナルな歴史的展開なるものはいま
までだって現になかったし、これか
らも、その本性上あり得ない。
 わるいのは私自身である。かん
じんの生活の概念そのものを、なん
だかかっこよく(?)絶望しちゃっ
て、もの静かにひらきなおっている
ようなところがありはすまいか。め
んどくさいというのはよくわかるし、
なにをどうしていいのかわからない
というのもよくわかる。だが始める
べきだ。始めよう。
 聴くのは終り、聴かされるのはも
う終りとしたい。弾こう。楽器はあ
なたの職業であり、ステージはこの
日常生活だ。手もとにある楽器でや
るべきだ。指揮者になろうとするか
ら絶望するんだ。
 しかし、私達には、まだ、いった
い、妥協ができるのであろうか?
こころの中では妥協していない云々
というのは、これは要するにおしゃ
べりであって、私達は、この種のお
しゃべりでもってけっこうかせいで
いる人達がいるという事実にも、ま
ず挑戦しなければならないのだ。
 ロックは決して教条的なメッセー
ジではなく、その激しく明快な生き
生きとしたリズムそのものが、私達
の、人類史はじまって以来かつてな
かったようなくだけた仲良さ、具体
的で率直な日常の中での愛といった
ものを、はじめて、私達の生活感覚
そのものへ告げているのだと信じた
い。
 だから、まず始めることが大切で
あり、それよりさらに大切なのは、
手もとにある楽器ではじめることで
ある。その音楽をこそ、汚すまい。
ぼやかせまい。なぜならこれこそみ
んなが聞くものだから。

            岩谷 宏

ー「NEW MUSIC MAGAZINE」1970年5月号
128ページ レターズ欄より

岩谷宏のロック論 52 ポール・マッカートニー 

2008-07-13 04:19:06 | 岩谷宏 ロック
ポール・マッカートニーは、ごぞんじ、元ビートルズの片割れの一人で、
いまは自分のグループ「ウィングス」をひきいて音楽活動をしている。
訳詞をしてみると愛だの平和だの、人類みな平等だのと、べつに、
文句のつけようのない、ヨイことを言っているんだけど、

パフォーマンスの質としては「つまらない」。
なぜ、つまらないのかを、この本全体のトーンにとっての、いわば
”反面教師”として追求してみる。

それは、「自分」に対する反省、がないことに尽きる。
自然な、そぼくな「自己」というものへの、不安、疑問、うたがい等が
彼には全然ない。
彼は、自己についての保守主義者で、実はヌケヌケとしている。
この自己観念は、愛だの平和だの、人類みな平等だのが、
実現しない自己観念である。


彼のラブ・ソングは、ふつうの、一人の男と一人の女のラブ・ソングであり、
特定の個人が恋愛的に完結してしまうことへの不安感など、みじんもない。


そぼくな「自己」なるものが、その願いも空しく、この何千年の間だに、
結局なにをしてきたか、私達はうんざりするほど知ってきたではないか。

「自己」が、そぼくな「自己」のまま、ステージ上から多くの人々に
愛だの平和だのを説けば、テレビに出てくる「人類みな兄弟」おじさんと
同じことになってしまう(自己観念の位相としては)。


愛だの、平和だの、自由、平等だのは、もっと厳しいもので、
人間一人一人の、もっと厳しい態度からしか実現しないものだ。
「自己」が、そぼくなもの、自然なもの、来歴的なもの、直接的反応等々を
ひきずっているかぎり、平和もなにも絵に描いたモチだ。

彼にとって、ロック・コンサートとは、ある曲の歌詞によれば、
ブロンドの長髪の白人が、浮かれに集まるところであるらしい。
優雅なもんだなあ。
長髪は、たしかに一時は、とても積極的な意味を持ったが、
いまでは、むしろ、うさんくさいものや、だらしないものになってしまってる。
そういうことを感づく、敏感さがマッカートニー氏にはない。


この本を書く私自身のインスピレーションの一つとなっている、イギリスの
ロック・アーチスト、デイヴィド・ボウイーは、ウィングスを
「人畜無害、モスクワにも行けるだろう」と酷評している。
人畜無害とは、変化を呈示できない、ってことだ。
そして、私は、もっとも手に負えない、もっとも悪質な保守主義者は
(歴史をみるかぎり)、このテの
「自己についての保守主義者たち」であると思う。



岩谷宏のロック論 51 ロックからの散弾銃 サバイバル 

2008-07-06 02:47:42 | 岩谷宏 ロック
たとえば、いま、東南アジアのどこかの水田で、
一人の農婦が黙々と農作業をしている。彼女の村は皆殺しにあい、
父も母も、夫も、子どもたちも、そして隣人たちも殺された。
なにかの偶然で彼女一人が生き残った。

要するに、親しい人、愛する人が、みんな死んだ挙げ句の生き残り。
ふだんから控えめな人だったが、最近はますます寡黙。
毎日、炎天下で働いて、食べて、寝るだけである。
娯楽はない。心を浮き浮きさせるようなこともない。
夢もない。


時間と空間を少し広げれば、私達も実はこの農婦と変わらない。
なにしろ、罪もない人、心優しい人、非戦闘的な人、正当防衛だった人が、
大量に殺されきた挙げ句の生き残り。なにも、イキがったセリフなど
吐けないし、かっこつけることもできない。
破壊された家の跡地に、ぼうぜんと立っているようなものだ。


家はまた建てることができる。
彼女は再婚してまた子供をもうけることもあり得る。
しかし、以前と同じ、言うなれば呑気は、生活感覚には二度と戻れない。


大失敗の記憶が歴史的感覚として万人に深く根付かないかぎり、
言い換えれば、おめでたく元気であるかぎり、
愚行と悲劇は繰り返される。
油断しているからヤられるし、ある人はヤる側に回る。
私達は大地にしっかりささった、錆びた五寸クギになって、
冷たい心と冷たい目を持ち、地球上に残っている微熱、ひ弱な浮き足立を
冷ますのだ。


歴史の成果を肯定的にだけ見ることはできない。
科学文明がよく引き合いに出されるが、そんなものは、ない時代、
ない土地でも、それなりに生活は十分に成り立っていたのである。
だから、定理●科学文明的には、どの時代も同一である。


小学校でも、中学でも高校でも、歴史を習う。
でも、そこには、歴史と人間(=まず自分自身)との関係が把握されない。
で、文字通り、関係ナイね、になってしまう。
千×百×十×年には、ナントカ革命があっったんだってよォ。


いまの自分というものは、比較的ついこないだ生まれて、
生まれたての人間だから、歴史なんて関係ない。
だれもがそう思いつつ、実際は、
だれもが歴史的条件の中でしか生きられない。
でも、生き方や心がけは、ある程度選べる。


私は、私もまた、さきにあげた東南アジアの農婦だと思って生きていたい。
ロックがかつて、歴史に対して全否定を投げつけたのも、
彼女の立場からだったに違いない。
でないと、すべてはウソだったことになる。