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岩谷宏と一緒

岩谷宏の同居人岩谷啓子(けい子)が、犬猫まみれの官能の日々を綴る

岩谷宏のロック論 10

2007-12-20 22:43:49 | 岩谷宏 ロック
関係論の視坐


ロバート・フリップが「今はまだ、その黒い表紙しか見えない」といった、ニュー・バイブル。しかし私には、夏のある日、忽然と第一ページ目の大文字が見えたのであった。

大書していわく、関係論の視坐 と。

私は愕然として、そして、これまで、「新人類」などという、曖昧なヤケクソ気味の概念を振り回していた事を恥じた。

「関係論」が、これまでの人類を久しく支配してきた「存在論」を越える概念として言われている事は明らかである。

さて、見た者は見た事を、まだ見ていない者に報告する義務がある。本誌の読者なら、これから書いていく事について、既にうすうすは感じていたことであろう。

①存在論とは?

人間が「存在」から思考を出発せざるを得なかったのは、当初、人文地理学的にも精神論的にも、人口密度が低かったためである。

周りを見渡しても、空と星と海と平原ぐらいしかなかったら、なによりも頭をもたげて来るのは「存在」という概念である。それはやむを得ない。

ところで、しかし、問題の根本は、そのスタート地点にあるのだ。つまり、人間が「存在」という概念でその思考を開始したとき、すでにその思考の欠陥を証左するかの如く、「不安」があった。しかし、まだ、その「不安」を現実的に処理するすべがない。

すでに当初から人間は、「存在」という概念の自立性・自律性をおびやかす「不安」を抱いていたが、これに代る有効な概念を見出せぬまま、その思考は、<存在の根拠を問う>という方向に走り、存在をやみくもに固定化するネジのような概念として「神」を借定した。

神の借定によって、存在論は存在論として完結した。では、この<存在論>にどのような欠陥があったのであろうか。

初期の部族信仰から二十世紀の実存主義に至るまで、人間の思考の歴史は、存在論の歴史である。観念とはすべて恣意的なものであるが、存在論自体が内包する恣意性を表象する観念が「神」である。思考の歴史を辿ってみると、まるで、ヘボ将棋で追いつめられる王さんのように、「神」は、しぶとく、場当り的に、その位置を変えてきた。その、思考者自信の中にまで追いつめられた姿が実存主義である。

(私は、なにも哲学史の話をしているのではない。人間の思考様態が存在論であるかぎり、いかなる者も神を抱く。そして、ロックをも、存在論的にしかとらえられない一連の芸術青年達にむかって、私は大批判を展開したいのだが、それは別の機会に譲りたい)

さて、存在論と、そこに於ける「神」との関係は、いわば十二枚でテンパイして十三枚で和る麻雀みたいなものである。つまり、存在しない十四枚目が神。和り牌はきわめて恣意的であるから、あとはモノを言うのは暴力だけという事態になる。

もっと素朴な次元に戻って考えてみる。みずからの神を借定しみずからの存在論を完成させた人間が、しかし、ある日、他者に出会ったらどうなるか。

自足した存在論にとってそれは、(論理的に)解釈不能な邪魔者あるいは厄介者でしかない。

ごく初期には、それを殲滅したりタブー視したりして、あからさまな「非在化」の努力が採られたが、次の檀家としては、それを都合のいいように、みずからの存在論の内側に組み込む試みが行なわれ、それでも駄目となるとなんらかの「共存」の手続きをとった。「共存」とは、あくまでも形式的なものだから、存在論的体の居心地の悪さにはなんら変化がない。

神が、自分の神以外にももっと他にいるらしいこと、そして自分の神がそれらに対しては神(=絶対者)として有効でないこと、―ここで存在論は自滅への一歩を踏み出すが、それに代る良き概念はまだないから、あとは、やるかやられるかの闘争がおっぱじまる。

そして、ある程度人口密度が高くなってくると、人間はその闘争に、可能なかぎりでのルールを設けた。法律ならびに諸制度である。

(また、今日では、ロック等も含む音楽や芸術の諸形態において、自分と音、あるいは自分とスターという、「存在論的完結態」が多く見受けられるように思う。)

②関係論の視坐

本論の主旨はすごく単純な事なのだ。それは、人は「存在」を思考する前にそれ以前からとっくにあまねく行き渡っている「関係」を意識すべきであった、という事だ。

つまり、Aは非Aとの関係の中でその存在をかろうじて得ているのだし、またAと非Aの関係自体も、それをとりまく、もろもろのn次項との関係の中に存在を得ておるのだ。

すなわち、あるとしたらもともとあるのは、関係の総体であって、存在は存在自体としては存在し得ない。だからこそ存在論者は常に「不安」だった。

関係の総体の中に、ごくアトランダムに、一枚のフィルムあるいは鏡を挿入してみると、その狭い面積に映る像を「存在」という。

その小さな像を実体と思い誤り、固守した結果、人は、像と像との間に、もろもろの便宜的な<関係性>をこじつけてきた。そのムリが、ムリであった事を露呈してきているのが、二十世紀末の今日の世界状況であろう。

人類が、存在論的に閉鎖していることから来る大小の惨事は、今日も明日もなくなりはしない。

しかし、「関係論の視坐」に今から立ち得た者は、今後、それぞれの興味と能力の分野において、救世主たり得るだろう。

ROは、バカ者どもにも売らなければならんという必要上、スターの名前や写真を多用するが、もちろん本意はそんなとこにはない。スター(神)にアキた人達の来る場所だ。

いま、世をおおっている不安は、これまでの存在論的完結、それ自体に投げかけられている大きな?であり、存在感を越える不安である。私達にとってはこの不安こそが生きる糧とならねばならないだろう。

最後に、音楽の分野に限ってニ、三、具体的な話を試みてみよう。

●ビートルズをのちに、あのようにあらしめたのは、P・マッカートニーでもジョン・レノンでもなかった。ハンブルグのディスコでの、連日連夜の、極度にイラついた客達であった。その“しごき”の中で、B4は、純粋な関係性そのものへと、錬られていった……という見方。

●ジミー・ページは、ベック、クラプトンと違って、“自分が”のめり込むべき音楽、というものを持っていなかった。LZの創設に当って彼は、自分もへったくれもない、即、関係性自体であるような、すなわち、即、売れて儲かるような音楽を作り出さねばならなかった。

●アリス・クーパーは、フランク・ザッパの“アーチスト性”がいやでいやでたまらなかった。つまり、ザッパのあくまでも、“自己存在性”が……。等々。


ロッキング・オン19号(1975年12月号)
ロッキング・オン増刊●秋号1977「岩谷宏のロック論集」から


岩谷宏のロック論 9

2007-12-20 01:56:07 | 岩谷宏 ロック
DAVID BOWIE IN TOKYO


すごい音量。厚生年金ホールにかみなりが落ちたようなすごい音量。まるで雷鳴。

デビッドボウイはことばを吐きだし、私達にたたきつける。私達をニラミすえ、私達をゆびで刺す。
He is a NIFE.

デビッドボウイは、ステージの右はしギリギリまで行き、左はしギリギリまで行き、をくりかえす。
そのたびにファンのむれがワーッとあつまる。松戸や船橋のストリップみたい。

(誤解するな!私が、ロックミュージシャン以外にただひとつ尊敬している芸人は、ストリッパーだけなんだから)

中学生の男のコが二人ステージにかけあがって、一人がボウイをだきしめる。すぐに警備員にたたきおとされた。私の席は二階席、まだるっこしい。

ギター(ロンソン)がすごい。もしかしたらエマーソンのムーグよりすごい。
ボウイはすごくいっしょけんめいで、コトバを心配してるらしくて、しぐさでそれをおぎなうことしきり(たとえば、“テレフォン”というコトバが出てくると電話をかけるしぐさ)。

他人の曲は「夜をぶっとばせ」だけだが、それも、それとすぐに気付かせないくらい、すごくせっぱつまった、性急な演奏。ストーンズのようないわゆる芸人的余裕などまったくないところがじつにじつにすばらしい。

新譜からの曲が六曲、アラジンセインとタイムがとくにいい。ステージから、私達の一人一人をゆびさすようにして、「きみは腐っている! きみはすっかり現世にくいものにされてる!」そして、ドラムのかげにうずくまって、「こんなことは終るべきだ。こんなことはほんとはとっくに終ってるべきだ!」―私は、ジーンときて、もう、なみだボロボロ。

とにかく、ナマのステージをみて、「私はミュージシャンじゃない。アジテーターだ」という彼のコトバがものすごく明瞭にわかった。

アクション、衣装、ライティング、等、演出はすべてすごくクールにきまっていて、しかも、なぜか、いっしょけんめいやってる人につきものの“ひよわさ”“もろさ”がひしひしと感じられて、それが、もうなんともいえず、いい。つまり、なにもかもがミエミエなのだ。それがもう、たまらなくいい。

ところで、例えばこの私のごとく“いっしょけんめい”やるべき手段、環境、キッカケのすべてをいま完全に奪われて、酒、麻雀、賃仕事で日々をやりすごしている人間、ひとりの「ロックンロール・スイサイド」としてロックのレコードをききふけっている人間にとって、それは、もしかしたら、たったひとつ、ある日、殺せる時代がやってきて、そして、そのとき、殺すべき人たちを、殺してしまえるときだろうか。ただひとつ……。

アンコールナンバーでは、デビッドボウイは「きみも!」「きみも!」「そして、きみも!」と、およそ三十人くらいの聴衆をゆびさした。ステージのはしからはしまでかけめぐりながら。しかし、だれにもすべての人間と寝る体力と時間はなく、デビッドボウイにも、立見客のあふれる超満員のホールの全員を指さすことはできない。

スターの本質とは、それが、「私達のコトバ」であること。私達の、ある理想への、こぞっての、賛意であること。そして、いつの日にか、どういう風のふきまわしか、この世界が完全にスムーズな、トータルな、愛の世界になったら、もう、私達はスターを必要としないはずだ。ボウイは捨て石。そして私達は、いまは、みんなが、ひとりひとり、なんらかのかたさで、捨て石になるべきではないか。
いまは、そのために努力すべきであり、その努力ができないときには、その努力ができないことをくるしみつづけるべきではないか。

まず石(自分)を投げなさい。
そしてきずつきなさい。
いたいきず口からのみ、「予感」はゆたかにしむのです。


ロッキング・オン5号(1973年5月号)
ロッキング・オン増刊●秋号1977「岩谷宏のロック論集」から


岩谷宏のロック論 8 Five Years

2007-12-19 05:40:40 | 岩谷宏 ロック
あと5年で終り
ファイブ・イヤーズ


デビッド・ボウイが「あと5年しかない」と歌うと、「ふむ、地球の寿命もあと5年ね、この人はSF的ネタをよく使うのだな」とかなんとか、ひどく客観的に論評したり紹介したりされる。それを「バカバカしい」と一蹴する人もいれば、資源や公害問題と結びつけて、なんだかんだ言う人もいる。氷河期説に関連させる人もいる。

でも、地球の寿命があと5年なのか5億年なのかはだれも知っちゃいないし、知ろうとしたって無理だからだれも本気で推測したりはしないのである。「あと5年しかない」というのは、単に、歌詞の言い方、レトリックであって、言いたいのは「今の今、ほんとうに愛し合って生きることが大切なんですよ。あなたと共に歩みたいものです」ってことである。死ぬ前のしばらくだけ、ほとけ様のように優しく柔和になったってつまらないのである。今そうでなければ。

なんか、こういう、もっとも根本的なところを見事にとり逃がす評論家やジャーナリストばかりなぜか圧倒的に多いから、もう、消耗なのだ。

それはそれとして、しかし、あと5年しかないのかなんてのはどーでもいい。最近のあたしにとっては、どの一日も、一日が一瞬にあたいし、一日が万年にあたいする。どんな日であっても、です。こーゆーのを仏教的悟りとか言うらしいが、それをなんと呼ぶかなんてのこそまさにどーでもいい。なにしろ充実してんのである。なにによってとか、なにごとによってとかではなく、その一日自身の方で勝手に生き生きしてるのだ。存在とは、毎日毎日、無垢の童子だ。私とは関係ない。

死は生、生は死である。生が辛いのはそれがすでに死だからである。毎日私は、死とはこういうものだと確感している。生理的な死は、死の、ほんの一形態だと思う。そして、死が優しく深いのは生が優しく深いからだ。すなわち死とは認識である。

 あせらなくてもいい
 死ぬときには一部始終が
 わかるのだから

これもボウイ。しかし、すでに、一部始終はわかりつつあるのだ。なぜなら、生そのものの正体こそが死だから。私は、あなたの顔に死顔を見るから、あなたは私の顔に死顔を見よ。愛とはそれだ。木を見て森を見失うなかれ。だれもが木ではない。森である。ただ、森には木が多い方が淋しくない、と思うだけだ。

一般的に、死と切り離されて考えられている生は認識ではない。それは“うごめき”である。人間は知的生物で、と言っても同じこと。概念を切り離すから人間は夫々、孤立したうごめきへと放置され、死は他人事のようにやって来る。紙飛行機のようにヒュー、ポトン、ヒュー、ポトンだ。よくまあ、こんな、おそろしくさびしい事に平気でいられたものだと思う。でも、しょうがなかったんだ。

すべてのものごとを、生は死、死は生という概念で見直す。するともうさびしくない。ラクである。つらいことはなにもない。どんなものも、ものの死骸に見えてかわいい。エクスタシーすら感じられてくる。アルと同時にナイものを、いっしょけんめいに、アル、アルとばかり思おうとするから、(当然のこととして)ぼくらはくるしいのである。ナイと同時にアルものを、ナイ、ナイとばかり思うから、ぼくらはつい、今愛し合うことをおろそかにするのである。

「みんなに、風景が見えてくれば、写真とか写真集というものも売れるようになるであろう」と、写真家の斉藤陽一は言った。うごめき人種から認識人種へ、ってことである。認識(=死)にとってはすべてが風景だ、写真だ。写真は「モノがアル」という私達の久しい誤認から私達を醒ましてくれる。モノはナイ。あなたの写真(=認識=死)はアル。メディアは私達の共同墓地でなければならないだろう。つまり死ねる場所。

親しい人が死ぬとなぜ悲しいのだろう。それは、その人と私とが一緒にかつ公的に十分に充実して死ぬ体験をしなかったことへの心名残りだ。悲しいというより、“うしろめたさ”である。が、ともかく、今の世は、そんな空々しさで成り立っている。アーチストがその空々しさをつぶしていかねばならないし、みんながアーチストであるってのがほんとは一番良い。


ロッキング・オン増刊●秋号1977「岩谷宏のロック論集」から(1976年の書き下し)




Five Years & Starman

2007-12-17 20:09:31 | 岩谷宏 ロック
Five Years

駅前では人々が動揺していた
ニュースが知れわたったのだ
地球の生命はあと五年しかないという
みんなが泣いてた
ぼくの頭は混乱していた
麻雀 パチンコ アルバイト
流行歌 マンガ雑誌 セブンスター
タクシー 電車 地下鉄 歩行者
学校 父と母 試験 性欲
資本家 大企業 就職 ネクタイ
○○○ ××× △△△ ・・・・・・・・
子供を殺した母親
スカGのホイールキャップ
子供がのる自転車
焼鳥屋のおやじ 中年の酔客
体格のいいおまわり

ダンボール箱集めの老人
等々 等々 等々 等々
なんて人が多いんだろう
ぼくは一度たりとも
こんなに多くの人間がこの世に
必要だなんて思ったことはない
今日も今日とて
ぼくはまちを歩き
喫茶店のガラスのむこうに
ミルクセーキを飲んでいる
名もしらぬきみを
しかもたった一回みかけて
そんなきみのこともぼくはいま
この歌の中でうたっているんだよ!!
どうしたらいいのかわからない
五年しかない
あと五年しかない
あと五年しかないのだから
すべてのきみよ ぼくは
きみがぼくと歩いてくれたらと願う

Starman

あれは何時ごろだっただろう
ラジオのDJがハタと鳴り止んで
かわりにへんな音がきこえてきた
そしてなぜかぼくには
それは宇宙からの声だとわかったのだ

そうさ!!
もう 地球の上空には
スターマンが待機している
彼はぼくらに会いたがっている
彼はぼくらに会いたがっている
彼がまだ地上におりてこないのは
ただ ぼくらの
未成熟をおそれてのことだ
きみのまちの上空にもすでに
スターマンが待機している
東京だったらテレビの2チャンネルで
彼の姿をみることができる
しかし
彼は
きみがきみのこころを
完全にあけわたし
きみが完全に
とろけてしまうまで
姿をあらわしてはくれないだろう
きみがまだ
大人たちのことを
両親や先生や上役のことを
すこしでも気にしているかぎり
彼はおりてこないのさ

もう
地球の上空には
スターマンが待機している
パパやママに教えてはいけないよ
そして毎晩こっそりと
ぼくのステージを見においで


あの有名なロックンロール・スーサイドの訳詞

2007-12-15 09:39:10 | 岩谷宏 ロック
岩谷宏のボウイさんのLodgerの訳詞の手書き文字
の続編を、つぎつぎ(でもないか)にお送りしたいんだけれども、

今日は、ボウイさんのあの有名な「ろっくんろーる・すーさいど」の
岩谷宏の訳詞をお送りするわ~。

けいこさんの手元には、今、「岩谷宏のロック論集」があって、
その131ページにその訳詞は、載っている~。

実は、けいこさんは、83年頃以降のボウイさんの音はなんにも
聞いていないの~。
もちろん、岩谷宏も、ロジャーだか、レッツダンス以降は、
ボウイさんなんて聞いていない~。

けいこさん、あんなに真性ミーハーしてあげたdavidに、
「デーーーービット、あなた、日和っちゃったわね~」
「サイアク」ってなもんで、
83年以降のデビット君には、一瞥も、しないんだけれども、
まあ、初期のボウイさんには、今でも、惚れているわけよ~。

ちなみに、デーーーービットが、日和っちゃったのはさあ~、
彼の中に、とっても、不安があるからね~。
白人毛唐さま特有の不安よ、不安。

彼の不安を、包み込めるおなごが、いなかったんじゃあないの~、
アンジーちゃんも、デビットの不安を、消去することは
出来なかったんじゃあないの~、って、
けいこさん的には、思っている。

マーク・ボラン君はさあ~、ブラックピープル(黒人)の女性に
いかれちゃって、奥さんにしちゃったでしょう。

ボウイさんも、アジア生まれの方とか非ヨーロッパ的な人が、
伴侶でなければ、
あの方の、70年代後半の不安は、解消できなかったんじゃあないのって、
思うんだわね~。

まあ、こんな、おバカなけいこさんの、思い込みなんか
どうでも、いいんだけれども。

ファンキーで尚かつ繊細で、そんでもって、
男をたてることが出来るおなごが、けいこさん的には、
一番、尊敬出来るおなごよ~。

そんでもって、
まあ、入手経路は、ひ・み・つ・・・なんだけれども、
けいこさんの手元には、あの伝説の1973年新宿厚生年金会館の
ボウイのライブテープがあるんだわな~。

ふふふ、いいだろうって、渋谷ッチにも、橘川君にも、松村にも、
山崎(ロッキングオンのね)にも、市川(オンブックのね)にも、
昔のイワタニストたちにも、自慢したい気分よ~。

そんでもって、これも、入手経路は、秘密なんだけれども、
岩谷家には、ボウイさんが初来日の公演で使ったマラカスが、
あったのよ~。

ボウイさんが使った年期の入ったマラカスよ。

まあ、その秘密をバラスとさあ~、
ボウイさんは、公演で、マラカスを、2本、観客に投げたのよ。
そんでもって、
その1本を、受け止めた(まさに、ボウイの愛を受け止めたって感じよね)
男の子がさあ~、
岩谷さん、上げますって、岩谷宏に持って来てくれたのよ~。

そんでもって、けいこさんも岩谷宏も、ボウイさんは、同士って
思っていて、ボウイがスター様なんて概念頭にないから、
そのマラカスはさあ、我が家の子供のおもちゃになってしまって、
そんでもって、だれだかわかんないんだけれども、
もしかしたら、いちばん下の子供かな、
その子が、そのマラカスを、団地の5階のベランダから、
遊びで、投げて、
そんでもって、
ボウイさんのマラカスはさあ~、どこかへ消えちゃった。

でも、なんか、象徴的よね。
我が家にやって来たボウイさんのマラカス君が、子供のおもちゃになって、
そんでもって、宇宙に、飛んでいってしまったなんてね~。

けいこさん、それで、よかったんだって、思っているわ~。
あんなもの、いらないわよ、い・ら・な・い。
スター様にもらったものなんか、後生大事にするものではないわ~。


そんでもって、
真性ミーハーの、けいこさんの、愛して止まない、
ロンドンチンピラあんちゃん、デビットの唄う、
「ロックンロール・スーサイド」の訳詞よ~。
いくわよ~。


「Rock'n Roll Suicide」

時間とは、たばこを空に
してゆくだけの能なしだ
きみ(ぼく)は さっきから
ばかみたいに
つぎからつぎへと
たばこを口におしこみ
またゆびにはさみ
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
をくりかえす
きみ(ぼく)は もはや
ロックをきく自殺者だ

きみはもう
完全にバカのりするほどには若くなく
しかもロックの意味するところを
全身で理解できるほど成長してはいない
時計は
ほかならぬきみの方が
うたいだすのをしんぼうづよく待っている
きみにはもう食べたいものはなにもなく
これまであまりにいろんなものを
アタマの中にほうりこまれて
いまや拒絶反応をおこしている
つまり
きみは いま
ロックをきく自殺者

調子のいいビートが
きみのアタマの中の
からっぽの大通りをはしってゆく
しかし
夜明けがきたらきみも
家へ帰らねばならないではないか
そのときに
太陽が照っても
もうきみには影がないこと
ミルクをたくさん飲んでも
精液を排泄することがあっても
それがきみの心まで支配しないことが必要だ
つまり キミが いわゆる
”自然である”ことは
たましいの用語からすれば
ずぼらで不親切で怠慢だということなのだ

愛 などを絶対視してはいけない
きみはそれほど孤独ではない
きみはいつもきみ自身を意識しているが
それはあまりにも不公平じゃないか
きみはきみのアタマをかかえこむが
もっと、目を 外へ向けた方がいい
きみはそれほど孤独ではない

きみがだれであれ
なにをしている人であれ
どこで いつ生まれた人であれ、キミの
くるしみの本質
痛みの本質は いま
みんなと同じであるはずだ
それは、だから
ぼくのものとも同じだ
だからぼくがロックをやることは
きみの痛みを救うことではなく
ぼくの痛みの中にきみが
きみの痛みの中へぼくが
入ってゆきたいと叫ぶことにほかならない

きみはだからけっして孤独などではない
ぼくと一緒にターン・オンしようではないか
きみは痛みだから
きみはとてもすばらしい ぼくはきみの
せめて手ぐらい
にぎりたい







ロックからの散弾銃 ②

2007-12-15 05:02:17 | 岩谷宏 ロック
言葉と論理(5)


ブライアン・フェリーという人は、イギリスの地方の大学の出身で、専攻は美術。先生は(名前はド忘れしたが)ポップ・アートの理論家として有名な人である。

ポップ・アートも美術だから、素材も作品も自分以外のものである。ポップ・アーチストの「自己」は、もちろん、古典的な油絵画家のそれにくらべれば、ずいぶん変化しているのだが、あくまで、個人的内面のことでしかない。

私の想像では、いわゆる芸術によっては、この、生身の「自分自身」を、素材にも作品にもできないことに、フェリーは疑問を抱き、不満に思い、イラだったのではないだろうか。ステージに立つことが、唯一の解決策だった。

ステージで、そして曲(+詞)で、彼は「自己」というものを、否定的なものに加工して提示する。「私のつくるものは楽しい明るいものではあり得ない」とあるとき彼は語っている。

ふつう、ヨーローッパ人、白人、男性、といやあ、そりゃリッパなもん、ということになっていて、まかりまちがっても、「自己」を否定的に提示したりしないもんである。前向きの、自己主張の、自己肯定のカタマリ!----そういいう、ポジティブの世界に、彼ブライアン・フェリーは、ぬ~っと、暗くあやしいネガティブを(自身がネガティブとなって)挿入する。世界が、さっと、青黒くなるのである。

彼の父は、田舎の馬丁だそうだから、まあ、プロレタリアートである。しかし、イギリスでも、戦後、住宅事情がよくなったり、労働党の政策が浸透したりして実質的には、中産階級と変わらないプロレタリアートが増えてきた。

日本でも、新聞広告やチラシのおびただしい量を見てもわかる通り、だいたい年間百五十万戸弱のピッチで、サラリーマンの「持ち家」が増えている。
せまいながらも土地を私有し、自分と家族が寝て食うだけとはいえ建造物を所有すれば、彼は立派に「有産階級」である。

しかし、そいうやって、住宅を持ち、生活水準も向上して、自己や、自己の家族といったありかたが、ますます明確なものになって行く、一見、強固なものになって行く---その過程の、裏側に、同時に、何が進行しているのか?「自己観念の変革」どころか(ソ連でも、スポーツの上位選手には家をくれたり、別荘をくれたりする)、古いままの自己観念がますます固着して行く---そこに、フェリーは、ますます砂漠化して行く砂漠、深い悲しみ、を嗅ぎ取ってしまう。

彼には、ヨーローッパのほろびを歌った名曲がある。ヨーロッパは、彼の目には、もはや、再生不可能な砂漠なのだ。日本の都市社会も・・・。

「ロックからの散弾銃」より





ロックからの散弾銃 ①

2007-12-14 05:38:28 | 岩谷宏 ロック
女王たち(2 )

ハードロックでもパンクでも、それらの一番つまらない点、退屈な点は、攻撃対象( なるものがもしあるとすれば)が、ありのままの世界、ありのままの現実であること だ。
彼等は、自分は、一匹の犬っころのまま、いわゆる現実に向かって吠えかかり、噛みつく。
 現実認識そのものの変化がない。

生まれてから今日までの、成長・教育の過程で、無意識のはめ込まれてしまったフィ ルターを通して、それら”痩せた思考”を通じて、現実を見、自己を想定する。
 まんまとワナにはまった。
フィルターを、ピンクのフィルター、ブルーのフィルター 、紫のフィルター、渦巻状のフィルターなどに、無理やり変えてみることをしない。

 ロンドンなどで、ロキシー・ミュージューックのコンサートには、ゲイが多く集まる 。
このバンドのリーダーであるブライアン・フェリー自身、ゲイ・カルチャーを代表 しているわけではないし、曲・詞にもゲイをほのめかすものは何一つない。にもかか わらず、彼女(?)等ゲイ達は、なにかを、”嗅ぎつけて”集まる。

 ゲイとは、男と男とが直接的な関係に入ることである。男と男が愛し合う---これ は、人類の最終的理想的な姿であると同時に、今日の一般的な社会では、一種の、ラ ディカルなルール違反である。

男というものは、あくまでも、なんらかのメディウム を介して結ばれたり、あるいは反目し合ったりしなければならない。これが、今日ま での一般的なルールである。
ふつう、男は、その精神構造、表情、目つき、身ぶり、雰囲気等々が常に、なんらか のメディウムに向かって身構えられ、緊張し、硬直し、あるいは策略的である。

 だから、極言すれば、ゲイになるとは、男が男でなくなることだ。

 初来日のとき、ステージに登場したブライン・フェリーを見て、私は一瞬、「やせた 青白いヘビ」を直感した。しなやかで、妖しく、そして、不健全な色気。
 それは、通常の、男の(主に女に対する)セックス・アピールとは全く異質のもので ある。

 (男と女の仲は、半分以上が生理現象・自然現象・本能現象であり、その意味で健全 である。

健全なものは、あまり完全に文化的・人間的・意識的でない。

不健全なものは、超歴史的(仙人的、野生児的、、幻想的等々)に現れるのでなく、歴史のただ中に、それを腐食する硫酸のように現れる。)

女王たち。 いまや、彼は、りっぱにオチ○チンを持った男でありながら、陰画世界の女王へとス タイリングする。

「ロックからの散弾銃」より


岩谷宏のボウイさんのLodgerの訳詞の手書き文字 その④

2007-12-12 01:33:56 | 岩谷宏 ロック
そう言えば、ボウイさんは、
1977年に、突然、イギー・ポップと一緒に、
ふらりと、日本にやって来たわね。

その時、
けいこさんは、渋谷ッチに、記者会見に連れて
行ってもらったんだけれども、
橘川君も一緒だったと、記憶している。
もちろん、渋谷ッチから、お声がかかったのは、
宏のほうだったんだけれども、
宏は、もうそのころには、スター様に会って
お話を直接聞くなんていうことには、
全く、興味を示さなかった。
だから、けいこさんが、岩谷宏の替わりに、
記者会見に、参加することと相成ったの~。

けいこさんは、その時、おなかが大きくて、
妊婦服を着て、出かけていったことを、
記憶している。
渋谷ッチは、
「ごみさ~ん、キャーとか、ボウイ!!とか、
絶対に、叫ばないでよ~」って、
ミーハーけいこさんに、釘をさしたんだけれども、
けいこさん、内心、
「何言っているのよ~、渋谷君、
けいこさんは、真性ミーハーよ。
真性ミーハーは、TPOは、わきまえているわよ~」
って、思って、
「わかった、わかった、けいこは静かにしている~」と
渋谷ッチに約束したものの、
やはり、生ボウイは、しかと、この目で、
みたいから、前から2列目あたりの、
ボウイとイギーの席から2m離れた席を、
渋谷ッチと橘川君と、陣取ったわけよ~。

ああぁ、その時のボウイはさあ~、
「シンホワイトデューク、やせた青白い公爵」って、名乗っていたころで、
(たぶん、そうだと、思う)
残念なことに、
もう、ロンドンのチンピラあんちゃんではなくて、
巨額の金を手にしてしまった紳士ってな感じに、変身していたわ~。

シャワーを浴びて、記者会見に臨んだボウイは、
シャワーの匂いの残香を、振りまきながら、
イギーと一緒に、記者さん達の間の通路を、
登場したのを、憶えている。

まあ、当時、
ボウイなんて、ビックネームではなかったのよ~。
だから、とても、こじんまりとした記者会見だったわ~。

その77年の来日では、
ボウイは、京都に行きたかったらしく、
日本の某有名ファッションモデル、Y小夜○嬢とK梨○嬢と一緒に、
京都に、出掛けて、超有名な老舗旅館に泊まったらしい。

実を言うと、1973年の、ボウイの初来日の記者会見には、
岩谷さんは、出ていて、
ボウイは、だるくゆるい芸能記者諸君を、前に、
へらへらしていたらしいんだが、
岩谷宏の、「シグネットコミティイとは、
なんですか?」という質問に対しては、
襟を正し、ハッキリと、答えたらしい。

1977年のボウイさんが来日したときには、
けいこさんは、渋谷ッチを通じて、
高島屋で、購入した、当時、とても、珍しかった
イモジョウチュウを、「これは、ロンドンの
スピリッツと同じような労働者階級の飲み物」って
書いて、渡してもらったら、
ボウイは、けいこさんがあげた、焼酎を、
とっても気に入ってくれて、
そんでもって、
なんと、「純」という日本の焼酎があるんだけれども、
そのCMに、80年だったか、出演してしまったの~。

そのCMの音楽は、「クリスタルジャパン」という題名で、
けいこさんは、そのCMの入ったテープを、
レコード会社から、もらったの~。
そのCMは、今でもよ~く憶えているんだけれども、
真っ白なタキシードを来たボウイが、
淡いピンクのボタンの花を背景に、
「クリスタルジャパン」って、一言いうものだった。

「クリスタルジャパン」の裏面には、
「アラバマソング」が入っている。

そんでもって、
話は、ボウイのLodgerの詩に戻るけれども、
今日は、
「move on」の訳詞よ~。
こちらを見てね。

kilakilaさん、いつも、ありがとう!!



岩谷宏のボウイさんのLodgerの訳詞の手書き文字 その③

2007-12-11 07:40:17 | 岩谷宏 ロック
きょうは、 岩谷宏のボウイさんのLodgerの訳詞の手書き文字 その③ということで、 「アフリカン・ナイト・フライト」の手書き訳詞を お送りしますね。
 こちらをご覧ください。

けいこさんは、 G・バタイユが好きで、けいこさんの脳味噌の足りない 頭ではなかなか理解できんわ~っていう感じなんだけれども、 まあ、バタイユさんって、ロックに通じるし、 ブライアン・フェリーにも、通じるしって、 けいこさん的には、思っている~。

そんでもって、今日は、バタイユさんに影響されて、 けいこさんが書いた、詩のような奇妙な文章をUP しておきますね。

 そんでもって、 ボウイさんの詩だけれども、
 「その燃える瞳が私を貫き
私を見透かす 今日このごろ」・・・。

 ああぁ、本当に、かっちょいいわよね~。

 *************
 「愛はサクリファイス」

愛は深く、愛は濃く、だから、愛は、「遍在していくのである」ということを、私た ちは、あまり知らないのです。「愛はサクリファイス」---「愛は供犠」であり、「 愛は、無料(タダ)の贈与」であり、資本主義の経済の中には、納まりことの出来ぬ 、過剰なるものであるということを、私たちは、あまり知らないのです。「汝は供犠 せられるべき存在である。」と、どこからか、魔の声が、私に向かって声をかけます 。この大地を愛で潤すために、大地の多産なる、豊饒の女神の誕生を祝福するため、 汝は、この共同体の中で、いちはやく、「供犠せられるべき存在である。」と、魔の 声は、私に言います。そして、「汝は、野獣の如き生き物ではないか」と、ささやき ます。「汝は、盲いし者を、従順なる者を、不安に陥れる哀れな生き物である」と。 私の中に、ひたひたと、誰かの声が押し寄せてきます。すると、私は、いつも、寒々 しいこの愛の欠落した荒野に立つのです。獣性に貫かれた魔物として、この荒涼とし た大地を、踏みしめるのです。私は、棘の蔦を、身に纏い、そして、天に向かい、真 っ直ぐに手を上げ、両手を広げ、しっかりとこの地を、踏みしめて、進むのです。如 何なる艱難辛苦の雨が、苦難の風が、この私に怒涛のごとく、降り注ごうとも、私に は、なんの恐怖もなく、迷いもなく、私の心は、無心となり、むしろ喜んで、一歩一 歩、祭壇へと向かうのです。棘の血を流しながら。盲いし者よ、私を、踏みしめて行 け。盲いし者よ、私を、罵倒せよ。盲いし者よ、私を通り抜けろ。私は、唯単なる「 試金石」にしか過ぎない。私が、汝によって、踏みしめられた時、そなたは、この私 の愛を、その足に感じるであろう。そして、この私を、汝が、罵倒した時、その時こ そ、汝が、何者であるのかを、はっきりと、視るであろう。汝が、私を、踏みしめた 時、汝の存在は、割れ裂けるであろう。私は、唯、「供犠の愛」として、ここに立つ ものである。私は、唯、「踏みしめられる者」として、ここに居るものである。私は 、唯、「試金石」として、ここに居るものである。コップはイコールコップだけを意 味するのか。A=Aは、真理であるのか。Aという言葉から溢れる、過剰なる意味を 、私たちは、既に、知っているではないか。すべからく、言葉は、言霊であり、それ だけでは意味をなさず、コンテキストの中でしか、生きることのできないものである と、私たちは、知っているではないか。愚かな者たちよ。自由を知らぬ者よ。「供犠 の愛」にしか生きられぬ私は、そのサクリファイス故、実に「無料(ただの)の娼婦 」ではないか。あなたに踏みしめられ、あなたの存在を、如実に浮かび上がらせるこ の私は、あなたの愛を、いつも希求している「無料(だたの)の娼婦」ではないのか 。「供犠の愛」に生きる者は、この私が、強く「踏みしめられた時」、「大声で罵倒 された時」、この私の愛こそが、この暗闇の中で、真に至高性を帯び、高らかに荒野 に解き放たれ、光り輝き、汝の軟弱な「生」に、力を与えるものであることを、知っ ているのである。私は、至高なる野獣である。私は、視神である。「供犠なる愛」は 、唯、この身を「あなた」に与えるだけである。「供犠なる愛」は、「無料の贈与」 である。知るがいい。愛の深さを、愛の濃さを、愛の崇高さを。そして、サクリファ イス故に、愛は、遍在し、愛は、成長し、愛は、すべからく、この世界を覆うもので あることを。愛は、濃く、愛は、深い。だからこそ、愛は、あなたの命の源へと、泉 へと、流れていってしまう程の、エネルギーを持つのである。ああぁ、汝の愛も、い かに濃く、いかに深いのか。私は、知っているのである。ああぁ、汝の愛は、あまり にも大きく、あまりにも、深い。眩いまでの光の中で、汝の棘の蔦は、人々に、視え ないのである。しかし、私には、視えるのである。汝の棘の蔦が。はっきりと、くっ きりと。あなたもまた、「供犠なる愛」に生きる、「愛の実践者」であることが、私 のこの瞳には、明瞭に、明確に、映っているからである。 ****************


デビッド・ボウイのニュー・アルバム[間借人]をめぐって

2007-12-09 13:30:56 | 岩谷宏 ロック
デビッド・ボウイのニュー・アルバム======[間借人]をめぐって

人間は「瞬間」において自由であり、自己として尊厳である。

今回は「男」とか「男の子」というものへの批判を、かなり具体性のあるカタチにしている。たしかに、いまでも、バスの中なんぞで、むくつけき、むさくるしき高校生の群(むれ)などを目にするたびに、人類の将来に対して悲観的になってくるけど、男批判は、いまでは、テーマとしての新鮮さはない。むしろ、同じくらいの鋭さをもって、大批判をやるべきではないか、と思う。女のいやらしさ、うっとおしさ、愚かさ等々、ーーーなぜなら、旧男と旧女は共犯者だからだ。

デビッド・ボウイは、男の、変わり行くべき姿を呈示したのだから、こんどはだれか女のアーティストが、女の変わり行くべき姿を呈示する番だ。そういうものが明確に出てきたときには、男たちもまた、さらに新しい次元へと移行できるのである。旧女が旧女でありつづけることを、もっぱら商売のネタにしている連中、したがって日本で大儲けしている連中は、そのファンもろとも処刑。

ロックと呼ばれる音楽も、ここ十年間の間にものすごく多様化して、いまでは、先進(?)資本主義国に存在するあらゆる価値観、人生観、世界観等にそれぞれ対応する、それぞれの音楽がある。それぞれ、どういうタイプの人間が聞いているのかもわかるのである。そんな中で、相変わらずトニ・ヴィスコンティと一緒に仕事したりして、ロックのもっとも本質的な部分を純粋に継承しようとしている、いまとなっては数少ない人の一人がデビッド・ボウイ。

ロックの本質的な部分ーーーそれは、人間の現状を批判し、乗り越え、変っていこうとすること。

A1は、思想、主義、信条、国家といった、主に男性的な動機に対して、いろんな所で、いろんな人が、いま、とにかくなんとか生きてる、生活しているという事態を、やんわりと対置させる。しかしこれだけでは、ものごとの一方しか言っていないのだ。つまり、前述の、「女批判」に相当する補完的な観点が欠落している。

A2、巨大なアフリカに幻惑された小さな白人。彼は、観光客としてあっちこっち行くが、行った先を対象化することができない.それは、彼が、生活をもたないスーパー・スター様だからである。しかし、なにか巨大で神的なものの中に呑み込まれそうだ、といった言い方で、彼はアフリカの本質を"予感"する。やはり、並の観光客とは違う。

A3、これは駄曲。地球ったって狭いもんだし、そろそろ旅にアキていいんじゃないの?私(筆者)は、旅なんてものに幻想を持てるいっさいの人間を軽蔑しているし、だから、ロンドンのくすんだ下町でちゃんと生活できないボウイという人の、音楽的な限界(後述)もわかっている。

A4、トルコの都市の老人になりきって歌う。都市は決して好きになれないが、田舎ではもはや経済的に生活が成り立たない。だから、都市で生き続けるしかないまま、年老いてしまった。文明と歴史との、わけのわからぬ大変動の中で、貧しく、しぶとく生き抜く、無力で非闘争的な老人たちへの賛歌である。しかし、老人といっても、中にはひどいのもいるけどね。---したがってこの曲も、ものごとの一方だけを言った曲。

A5、中国軍の少年兵になりきって歌う。いま、中国兵は、アフリカにもいるのだろう。世界的な進軍を展開する共産主義ファシズム---しかし、その少年兵の中にも、ひとつの純粋な生命が息づいているだけだ---と歌う。そういう、人間一人一人の、弱い生命に立脚した、保守でも革新でもなく、右でも左でもない、第三の勢力が世界的規模で必要。

B1、ディスク・ジョッキーという人種を皮肉った曲。そういえば、ひところはロック評論家になりたいという人がよくいて、私は、なんとあほらし、と思ったものだ。---ロック評論家の書くものがどれもくだらないのは、彼(彼女)が、評論家というワクを得て書いているからだ。文章なんてものは、専門家の資格や社会的地位で書くものではない!文章は目的ではない!それから、この曲はDJのファンも皮肉っている。

B2、黙示録に出て来そうな天使が「怒りを込めてふり返れ!」と扇動する。しかし、誰も聞いていない。そのうち、天使のほうもだれてきて、雑誌をめくったり、あくびをしたり、しまいには寝てしまう。B3、「男の子っていいなァ、男の子って素敵だなァ」と、男の前身である少年をウツロに揶揄する。B4、アメリカの非エリート・サラリーマンとその妻との日常をテーマに、男批判。B5、金、および金に代表される難攻不落の巨大ななにものかへの不快な違和感。金に不自由しない人の立場で歌っている。

さて、音であるが、アルバム・タイトルが「間借人」である。それは、間借先にうちとけることはできないし、さりとてそこの文化等の本質を把握することもできない、きわめて表層的なつき合い方しかできない間借人である。彼は、彼と外界との間に、竣絶的な、分厚い音の壁を構築する。ブライアン・イーノの手によって、相当、高級な(?)音づくりにはなっているが、基本的にこれはオールド・ウェーブの精神である。

彼は、アフリカ人の生き方からも、最近の黒人音楽の変化からも、能の音楽からも京都竜安寺の石庭からも、その他その他、彼が触れるものすべてから、なにも学びとっていないし、影響されてもいない。ただ、めったやたら、音を何層にもバカみたいに塗り重ねて行くだけである。それは、おそらく、彼の不安の裏返しであろう。やたらと居場所を変えるのも、そうだ。

自由とか、人間の尊厳とかは、状況の問題ではなく、認識の問題である。言い変えれば、それは、状況といった単調な時間認識の中にいては、永遠に見えてこないものであり、常に"目標"としてしか存在しない。だが、人間は常に、「瞬間」において絶対的に自由であり、自己として尊厳である。それは、どんなにみじめな死の瞬間においてであろうと同じである。それは、海の上を泳いでいたのでは疲れてくるし、いつまでもたどりつけない、しかし、逆に思い切って海にダイビングして沈んで行き、すりばち状の海の底には、実は、みんながちゃんといた、といったようなことである。

アフリカから学ぶことは必ずしもアフリカへ行くことではない。なにか、これまでの自分を形成してきたものとは根本的に違う存在観なり時間観なりがあるんじゃないか、と予感するところからそれは始まるだろう。ボウイは、変化、変化といいながら、自己の認識論や時間感覚については全く根底的な変化を成し遂げない。あくまでもヨーロッパ白人的な知性感性のままである。したがって、同じく、古い椅子に坐ったまま、「状況」についてくだくだ言う怠け者のたぐいを甘やかし、そのことで金を儲ける。飛び込むこと、自分が変わることがこわい連中から。

私は、あまり黒人とのつき合いがある方ではないが、それでも、黒人独特のファンキーなというか、日本語の俗語でいえば「越えてるう!」を「抜けてるう!」とでも言い変えたいような、なんともすっこ抜けた感覚を何度も経験している。そして、最近では、それらの意味がよりはっきりわかってきた。そのように、最近かなり本格的にずっこぬけてきた私の感覚にとっては、イーノ&ヴィスコンティ作の今回の音ばかりでなく、白人の音の99%が、わずらわしい。次回以降は、もっとシンプルに、すっきりと、カタくやることを努力して貰いたい。ボウイよ、転身せよ。変化しろ。そしてあなたも(でないと280円の損)。

岩谷宏


【ロッキング・オン 1979年7月号 P.18~19】

kilakilaさん、岩谷の原稿のテキスト起こし、
ありがとうございま~っす!!
昔のロッキングオンって、280円だったのね。
思い出したわ~。


岩谷宏のボウイさんのLodgerの訳詞の手書き文字 その②

2007-12-09 08:51:29 | 岩谷宏 ロック
ええーと、今日は、
下と同じく、
ボウイさんの「Lodger」から、
”Fantastic Voyage”の岩谷宏の自筆手書き訳詞を
お送りするわ~。

こちらを見てね。


素晴らしき航海かあ~。

こんな詩を、読むとさあ。
人生、なんやかんや言ってもさあ、
生きて行くっていうこと、
生きのびるっていうことのほうが、
大切よ~。

”Life goes on !!”よね~。

人はさあ~、
ハムスターちゃんがさあ~、
懸命に、懸命に、ひたすら、あのまわり棒を、
蹴り続けるように、
自分の足許の、その場だけをさあ~、
踏みしめるのよ~、
ソレが、このくそったれの世界を、
生き延びるこつよ~、
けいこさん的には、そう思うわ~。

人はさあ~、
この厳しい日常を、気負いなく、
生きのびなければならないわ~。


「信ずるところに誠実であることは大切だが、
生きていること自体が、同じくたいせつだ」・・・か~、

かっちょいいじゃあないの~。

kilakilaさん、またまた、ありがとう!!





岩谷宏のボウイさんのLodgerの訳詞の手書き文字

2007-12-08 21:30:08 | 岩谷宏 ロック
ボウイさんの日本版レコードの「ロジャー」の訳詞が、
宏の自筆になっていたらしく、
またまた、
kilakilaさんが、画像で、送ってくださいました。

画像は、
こちらでご覧ください~。

kilakilaさん、ありがとうございます!!

岩谷宏本人に、kilakilaさんから、届いた画像、
転送したらさあ~、

(岩谷家においてはさあ~、
家族のおしゃべりは、PCからPCなのね。
会話はさあ~、なんか、唐突に、行われるの~。
社内LANみたいにさあ~。)


そんでもって、宏に、kilakilaさんから届いた画像は、
あんたの自筆?って、確認のメールを打ったのよ~。
そうしたら、まあ、本人からは、こんな返事が
返ってきちゃったんだけれども~。

****************
Keiko IWATANI さんは書きました:

転送
これは岩谷宏の自筆?

****************

****************
啓子殿

字の特徴は、たしかに私の字のようですが、
こんなものを書いたという記憶は
全然ありません。
ただし、国会の証人喚問と同じで、
記憶がない=やってない、と
はかぎりませんね。

****************

でもさあ~、
これって、岩谷宏の自筆よ、絶対に。
けいこさん的には、100ぱーで、
そう思うわ~。

だからさあ~、
kilakilaさん、宏の自筆訳詞、
もっと送ってちょうだいよ~。
首長くして、待っているわよ~。




岩谷宏のロック論 7

2007-12-06 22:23:38 | 岩谷宏 ロック
ブライアン・フェリー
6月5日
新宿厚生年金会館

超豪華メンバーが実にさりげなくステージに出てくる(マンザネラ g、スペディング g、ウエットン b、トンプソン d、メル・コリンズ他二人 h)。一瞬遅れてフェリー、袖をまくりあげたワイシャツに、ゆるんだネクタイ。酔っぱらってロックのステージに迷い込んだサラリーマンだ。思ったより小柄だしやせていて青白い。両肩両腕を緊張させたまま身を前後にくねらせ、一時間半を一本調子にやってしまう。よくイギリスの推理小説に出てくる残忍なインテリ殺人犯、あるいはマイクロフォンに長時間犯されっぱなして身悶える小さなオカマのヘビ。マイクが道具でなくて完全な生理器官になっている。

オープニングは「レッツ・スティック・トゥゲザー」。昔のラブソング・ポップスをきわめて真剣なメッセージ・ソングに変えてしまう彼の独壇場的な作業にはやはり、このような苦悶の表情がが伴うのだな。具体的なものの不可能性(たとえば一緒にくっつく…スティック…)。不可能ゆえの、しかし、必要性。いや、まったく、個別的な具体性で自他を処理しようとするやからにはロクなヤツはいない。これはROを五年経過した私の感想。五日(厚生年金)の客は、よくわかっているのか、拍手などの反応も、淡々としておだやかなもの。熱狂じゃなくて酔狂だな。

初期のロキシーのきわめつきナンバーは一曲もやらない。したがって、なんとなく深みが出ない。出て来たときの、むーっとしたタイハイ的な感じはすごいし、とくにギターとドラムスは大人の「ビザール・ロック」として超一流だが、フェリーが激しく吹くハーモニカの音の、空間を引き裂くような効果がなかったら、ねむい音になっていたかもしれない。歌詞の言葉の意味をひとつひとつ踏まえて聴衆をがっちりと掌握して行こうとするフェリー、フェリーの言葉と声は私達の深層意識に食い入って来る。彼はマイク・コードの先端が私達の脳の中心にささっている事を信じているので、派手なしぐさや目付きは少しもなく、ただひたすら苦しげに身を屈して声を絞り出していた。

岩谷宏


岩谷宏のロック論 6

2007-12-05 04:53:10 | 岩谷宏 ロック
BRYAN FERRY.. IN YOUR MIND

あなたの中で
ブライアン・フェリー
解説訳とという手法による今野雄二徹底追放論
訳●明日野雄二ジス・イズ・トゥモロー(岩谷宏)


ONE KISS

今が今
ここがここ
そしてあと1時間かそこらで
私はホテルに帰り
あなたは家(うち)に帰る
今は確かに
お互い見つめ合っている
しかしこれは
それほど確かなものか
近ごろでは自信が持てない
コンサートという名の口づけ
それだけのことか?
口づけ、歌
それはねぇ
私にも口ぐらいあるもんねぇ
  失われた恋
  失われることが
  最初から確定している恋
  それを私は
  毎晩こうやって繰り返す

ALL NIGHT OPERATOR

この暗く静まった世界に
この、へだてられた世界に
(それぞれ)一人っきりで
今宵も終夜起きつくし
心と心をつなぐ仕事が発生するのを
期待しているあなた
私は今
そのようなあなたに
せつなく呼びかける
私にもっといい線を
つないで下さいと

たしかに肉声というやつは
感情的でよくない、しかしもう
書けるようなことは
書き尽くしてしまったのです

こんなにたどたどしくしか言えないけど
私の中に今あるうながしは
すごく強く、しっかりしたものなのです
だから、あなた
私と最高に真剣に対応して下さい
そしてこの想いを
伝える手伝いをして下さい

これは最後の望み
最後のきずなです
落ちる寸前の橋です
だから私は受話器を置かずに
あなたのコールを待っています

でもこれもあなたにとっては
いろいろ沢山聞くレコードの内の
一枚(ひとつ)にすぎないのでしょうか
レコード棚を埋めている
ひとにぎりの空しいためいき達
またその受け手である人達の
孤立したためいき達
でもあなたは違います
あなたは遅番(深夜番)の電話交換手で
だからあの沢山の欺瞞と欺瞞との間の
ほんのわずかなすき間にある真実を
あなたには確かに読みとれるはずです

ほとんどの人がいたずらに
夢ばかり見(追っ)ているこの世界で
でも私に今
あなたの目の奥に確かに見えるのは
息(いき)をしている交換台
複雑なつなぎ方がひと目で解る一覧表
もう、そういう具体的な
はっきりしたもの

だからこの私をも
もっといい線につないで下さい
あなたはまたこの私が
こうやって例によって自分の歌に
のめり込んでしまったと
感じているのだろうか
私が私の歌に隠れてしまったのなら
あなたが電話交換手であることも
忽然と消えてしまっているのです

 (注:ミュージシャン対受け手という単一関係存在を完全に否定。
あなたはどちらでもない、と言い切っている。)

LOVE ME MADLY AGAIN

あなたはまだ、町で目立とうとしているの
だれかに会うとまた
そそくさとした情事を重ねるの?
そういう屈曲の多い変化の多い影の道は
いつまで歩いてもまだまだ沢山いくらでも
なにかがありそうな気がするんだよな

  言わなくてもいいよ
  話さなくてもいいよ
  ありのままを見せてくれればいい
  そして少くともこの私は
  もっと本格的に愛してくれればいい

あなたはまだ、なんか派手なこと
突飛なこと、目新しいことに
いちいち気を奪われるの?
私もそうできるといいけどねぇ

  いいよ、聞きたくはない
  私も一見、いろいろ趣向を凝らすが
  私は全然違うんだよ
  一緒にしないでほしい
  あなたにももしかして一度くらいは
  記憶があるでしょうあの激しい恋を
  いまもう一度
  この私にささげ尽せ!

私に安易(イージー)な恋をするな
しっかりしたのがいい
愛なんて私にとっては
てんでラクなことで
そうやってこれまでも
沢山々々の恋(ホール・ロッタ・ラブ)が
そそくさと終っていった

  もう話すな
  私の目の前に
  全身で立て
  おしゃべりというやつは
  もっとも安易(イージー)な行為だ
  もう、こんりんざい
  口をつぐめ!
  私を愛しぬけ!

恋というやつは
そんなに思ったほど情熱的でしたか
リアルでしたかそれとも
一種の幻想みたいでしたか

  答えなくていい
  私は違う
  この今度は違う
  もう一度あの狂おしい愛を
  おまえの中に
  完全に呼び起こせ!

 へだてられ
 お互いの消息も確かでない今
 しかしことさら会うこともなく
 すでに障壁は壊たれ
 すべての想いはもつれたきり
 もはや一言(ひとこと)も語らず
 ただ
 狂おしく
 もういちど
 私を愛し貫け(つらぬ)け!

 私とあなたをつなぐ線を
 だれかが引いてくれはしない
 あなたにも私にも引けない
 世界は空間であり
 空間は距離で構成されている
 距離を無視しようというのは
 白人的エゴというものだ
 愛するのはいと容易(たやす)く
 ところが終らせるのはすごく難しい
 書き上げたラブレターなんか
 破ってしまいなさい
 そして私を
 もっと本格的に愛しなさい

 そしてあなたがその時を
 正しく見付けたときには
 どこかでほんのしばらくの間
 絹のようになめらかな愛撫を交そう
 鏡と鏡を合わせ
 窓に窓を重さね
 あなたの中で
 あなたに、もう、あなたがいなくて
 私を愛しぬき
 愛しつづけなさい、ずっと

 (注:鏡とか窓かは、いわゆる個人的精神、認識視界、というやつ。)

IN YOUR MIND

あなたの心の中で凍結している鐘の音に
耳を澄まし、それにしたがえ!
ひりひりとした、結晶したうずきに
それだけにしたがえ!

それはあなたがもっと若かった日には
手なずけられなくて困ったほどの
優しく、至上に受け身で
しかも燃え立つような想いだった

いまあなたの回りは見渡すかぎり
なにもない広い野だ
すべての過去はみずからをすでに
地中にほおむってしまった

今ではもう
問うて途方に暮れることはない
答えもあらかじめ解っている
今のあなたの心の奥底では

もしも今のあなたが元気な盛りで
いろんなものに心を奪われて
まるで
夏の庭園をぶらついているとしても
私のことをセンチメンタルだ
などと言ったら後悔するぞ
あなたが今気にしているいろんな人は
あなたがぶらついている夏の庭の中でさえ
それぞれが恋人を見付け
究極的な友人を得るのです

あるいはもしも今のあなたが
年月に押し流されてしまった人でも
家づくりにばかり凝る理由はない
あなたの哲学、あなたの人生観とやら
私の上に勝手に投影させているかもしれないもの―
それは、ガタガタに揺すぶれ
売り払え!
あなたが最初にタネを播いたもの
そして育てたもの
それはしっかり刈りとれ、収穫せよ
そしてから眠れ

いまや予測だの期待だの
イデオロギーだの宗教だの
そういうもっともらしい預言者達は
顔はしなびているしおまけに
ベールをかぶって曖昧さのみ
それでもなおあなたはいじきたなく
「新しいこと」とやらのギラギラした
ヴィジョンをしまいこんでたりして

ほら川がゆるやかに
いくつもの牧場(まきば)を経めぐって
海に流れてゆく
どの栄光の道もこのように
段階的な小さな変化を経ながら
ついに落ちてゆくのです

ああ、やっと笑ってくれましたね
その今の笑いも、そして
あなたが経験したいくつもの苦しみも
(外に(外で、外から)ある(あった)のでなく)
あなたの中で書き記されたのです
そして、この詩(うた)も

 (注:これは、たとえば、キッスやクイーンみたのに今夢中な層も、
あんなのバカバカしくなった層も、両方を相手どってメッセージを展開している。)

ROCK OF AGES

ステージに立つ立場ってのは
今でも相変らずかっこ良いんだね
こちらはもう長年さんざん聞いて
いまや冷たくどっしりなっちゃった

いまや一人ぼっち
パーティーはとっくに終ったし
空しさも噛みしめた

いまやそういう同じ次元に
ちゃんと居てくれて
悲しみを分ち合ってくれる
音楽屋さんでないと
イミないなあ、だって
ロックは私に触れて(キョリがなくなって)
私は冷たい岩(ロック)になってしまったのだから

だからこれからはもっと
普遍的な賛歌が必要だし
全体的な変化が各地各人いっせいに
始まる必要がある

 訳者後記:なるべく、どんな人にも、わかるようにわかるようにと訳した。
今野雄二氏には「ジョンの魂」の訳詞以来、
一人のロック・ファンとしてウラミがある。
彼は、日本をダメにした百人、の内には入らなくとも
一万人の中には入るだろう。




YOSHIさん、またまた、ありがとう!!

岩谷宏 朝日ジャーナル入選論文 1970年 おまけ

2007-12-02 12:36:29 | 岩谷宏 ロック
kilakilaさんから、なんと、1970年当時の、岩谷宏の
写真が届きました。

図書館で、昔のロッキングオンを調べ、熱心に読んでくださったそうです。
その時、朝日ジャーナル入選論文も見つけて、コピーして保存していたそうです。

若かりし日の岩谷宏で~っす。