「学校は一種の纏足(※てんそく)だ」
※昔の中国で、子供の時から女の足に布を堅く巻
きつけて、大きくしないようにした風習。男の性
的対象物としては、足の小さい方が良いとされた
。
岩谷宏
私は昭和十七年生まれだが、私の頃も、学校は
、まあ、退屈でつまらない所だった。曖昧で無彩
色な時間を、よくもまあ、あれだけの年月、空費
したかと思うと、今でもゾッとする。今の私は、
現実の社会経験をきっかけとして、いろんな事を
考えられるようになったが、どの考えもわれなが
ら底が浅く、透徹していないのも、あの空虚な長
い年月に主な原因があるような気がする。学校は
人間をダメにする、と、私は私自身をサンプルと
して断言できる。
いま仮りに、生徒が六歳で教師が三十歳だとす
る。するとそこには二十四年の差がある。人間の
歴史の進行テンポ、情報の質的量的な変化のテン
ポからすれば、二十四年の差は、現実には無視す
ることは不可能である。制度としての学校はこれ
を無視しなければ成立しない。生徒にとって退屈
でつまらないものになって当然である。
前節をもう少しわかり易く言ってみよう。教師
は今三十歳だが、生徒が三十歳であるのは二十四
年後の世界に於いてだ、ということ。これが第一
。そしてさらに重要なことは、今六歳である生徒
は二十四年前の六歳の子供とは異なること。つま
り彼(あるいは彼女)は、今六歳であり、したが
って二十四年後に三十歳であるべき人間として生
まれ、育ってきていること。
さらに話をわかり易くするために、もっと根源
的に重要なことを言おう。子供とは、大人である
人間が、欲し、計画し、その欲し計画した通りに
生まれて来るものでは断じてない(高柳注、「子
供とは~断じてない」まで、字の横に「、」がふ
られています)こと。この意味で、(言葉は少々
大仰になるが)、歴史とは神の作品であり、子供
とは歴史の生命である。大人よりは子供の方が、
宿命的にススンでいるのだし、ますますススンで
行くのである。
つまり、原則として、子供は大人よりひとまわ
りスケールの大きい人間として生まれて来る。だ
から学校とは、現実の子供のための学校ではあり
得ず、大人達が自分の現状を基に想定した架空の
子供のための学校でしかあり得ない。落ちこぼれ
や逸脱、非行、登校拒否等は、したがって、当然
の健全な現象であり、本質的には全生徒に普遍化
しているものと見るべきである。私の世代の頃に
は、これらの現象はまだそれほど顕著でなかった
。人間としてのスケールが、今の子供よりは少し
小さかったからである。
スケールが大きいことの一例は、たとえば、も
のわかりが、大人よりも早くかつ速い。また疑い
のメスの刃先が、大人より鋭くこまかい。これは
当然であって、もしおんなじならば、そもそも歴
史という現象はあり得ない。拘泥の対象も、大人
と同じ次元では決して拘泥しない。繰り返すが、
子供は歴史の作品であり、歴史の成長細胞である
。成長細胞の成長テンポに合った教課や教科書な
ど、そもそも大人が作ることなど不可能である。
筆者の例で言えば、読むことは小学校入学以前
になぜかしらマスターしていて、一方、書くこと
はいまだに辞書の助けを借りる。すると、辞書と
いうメディアがこの世になかったなら、書くこと
に関しては学校があってもいい、という理屈にな
りそうだが、現実には、書くこと(の世界はあま
りに多様であるから)の学校など成立し得ないで
あろう。
ローティーン~ミドルティーンの女の子達から
の手紙では、セックスのことの書き方は、露骨で
率直で、あっけらかん・サバサバとしていて、私
の世代では考えられなかったことだ。今の大人に
は、とても対応できない事態であろう。性につい
ては、これを後生大事げに封じ込めることの方が
、明きらかに人間を遅延させる。性は、白日の下
に当然化し、足りれば、耽ることもない。
いまの一般的な認識の中に欠けているもっとも
根源的な認識は、学校というものもまたひとつの
歴史的なものだ、という認識であろう。およそ、
人間が作り上げる諸制度は、いずれも歴史的なも
のであり、永遠のものではあり得ないのだが、結
婚制度や貨幣制度等より一歩~二歩早く、今、そ
の歴史性があらわになりかかっているもののひと
つが、学校制度であろう。
歴史性という言葉を解説しよう。・・・・・・
みんながたらいと洗濯板で洗濯していた時代には
、それが当たり前で、だから、たらいと洗濯板の
歴史性はあらわになっていなかった。「くそ!
いつまでもこんなシンドイことやれるかい!」と
発想した人にのみ、あらわになりかかっていた。
そして、今、普及してしまった電気洗濯機も、汚
れない繊維とか、自浄能力を持つ衣類とかがもし
出て来れば、どうなるかわからない。
さて、学校の歴史性だが、これはメディアの発
達と関係がある。筆者が五~六歳までに読むこと
をマスターしてしまったのも、主として身の回り
に雑多な本というメディアがあったためである。
親も子供がいちいち聞くことに、面倒がらずに応
えて呉れた。この場合、親もひとつの優秀なメデ
ィアである。
すごい後進国のことを考えてみよう。この場合
、メディアは学校しかない。親も、子供がたずね
る事に答えられない。唯一のメディアが学校なの
だから、子供を学校にやれるかやれないかが大変
な問題になる。(でも、そんな後進国でも、今で
は、子供の方さえ元気旺盛であれば、いろんな別
の道があると思えるが・・・・・・。)
今の日本のような国だと、いろんな本や雑誌は
月に何千冊と出版されるし、終日切れめなく放送
しているテレビ局が七ツ、放送局もそれくらいあ
る。テレビはくだらないけれどもそれでも、二~
三歳の子供にとっては結構、十分な情報量がある
ようである。このように多様化したメディアの中
にあって、学校というメディアは今、きわめて貧
しく硬直化した旧式のメディアでしかなくなって
きているのである。すなわち、退屈でつまらない
、のである。
学校というものが質的に貧しく硬直化したメデ
ィアに成り下がってしまったのは、単に自然現象
ではない。つまりそれは、政策を基盤に成立して
いるから、メディアの基本機能たるべき「開放性
」、「柔軟性」をもっとも欠くものになっている
。いわばそれは、重傷不具のメディアなのである
。すなわち、学校は、学校であること自体(=集
団一律同内容慣習的定型的教育)からも貧困化し
硬直化するが、さらにそれが政治家の政策である
ことによって二重に貧困化し、硬直化するのであ
る。すなわち、学校とは、おこがましく、ちゃん
ちゃらおかしいものなのである。―すべての教師
は愚鈍な顔をしている。どの教師の顔も、等しく
並みに愚鈍には見えないあなたなら、あなた自身
が致命的に愚鈍なのである。
歴史性、についてもうひとつ解説を加えよう。
それはたとえば、木の葉の堆積の上にやがてキノ
コが生まれるように、過去の蓄積を養分として新
らしいものが生まれ生育することである。植林し
てから何百年経っても、毎年、木々だけの青葉→
紅葉→落葉だけを繰り返しているのなら、やはり
歴史はない。
たとえば、最近の若いモンはだらしない、とか
、がんがらない、という言い方も、先代までがん
ばった地盤の上だからこそ、次代は少々ラクがで
きる、という歴史的事態を見忘れている。次代が
先代と同じ苦労をするなら、そもそも先代の苦労
そのものが歴史的に無意味だったことになる。こ
こでは、きわめて陳腐な例しか思い浮かばないが
、電卓がはびこった結果、そろばん等の計算技術
に長ける必要はもうない、とか、デジタル・ウォ
ッチが主流になれば、時計の文字盤の見方を習得
する必要がないとか・・・・・・。先代だって原
始生活には耐えられない。人間は、そのときその
ときの、歴史的蓄積の上でしか、原則として生き
られないのである。ニューヨーク停電のパニック
が、そのことを教えてくれる。
また、人間の勉学心というものは、強制しなく
ても、すでに一~二歳のころから、自然に旺盛に
発揮されてくる。そして一人一人、質や方向が違
う。大人は、なんら強制の根拠を持っていないし
、方向を制御する根拠も持っていない。それらの
根拠を持っているという思いあがりが、学校を成
立させ、教育とは外的に賦課すべきだという(親
の)思い誤りが学校を存続させる。子供の旺盛な
勉学心に親が十分に対応できないので学校を求め
る、という場合、いまのところそれは現実の学校
ではなくユートピアの学校である。
さらにもうひとつ。教師と生徒という関係は人
間の関係性のあり方として抽象的なあり方であっ
て、具体的でない。昔の、師と弟子というあり方
を具体的とすれば、今の教師と生徒というあり方
は、ロボットと人間の関係でしかあり得ない。中
には例外があるかもしれないが、今の教師という
立場は、子供にしっかりと教え込むべき貴重な「
事」と、それを渾身込めて教え込む「情熱」は持
っていないし、持ち得る立場ではない。教師自体
が、自分をそのように教育していないし、錬えて
もいない。筆者が自分の過去をふりかえってみて
も、教師との関りが、本当に人格的な関りであっ
たという記憶はない。本で接したり、レコードで
接したりした一部のアーチストや思想家の方が、
よっぽど人格的迫力があった。ゆえに、いまや、
教師こそ教育不適格者である。
現実の学校、つまり、いま現存する法・指導要
領・カリキュラム・教科書・教師、等によって構
成されている学校はない方がよい。筆者自身、な
にもかも中途半端で断片的でかつ古く冗長だった
という記憶しかないからである。そしてもし、教
育の社会的分業形態としてのなにかが必要であれ
ば、要するにキメ細かく、総合的で、最新の情報
システムがあればよい、と考える。それは、自分
でどんどんつっこんで勉強して行ける情報システ
ムである。
それは、本などのメディアに限定されない。毎
年一回メンテナンスの行われるコンピュータ化さ
れた百科教科書(論理的な脈絡を持っており、端
末機は学習者の部屋にある)でもよいし、一方で
は、出入り自由な研究機関やある教授の講座やシ
ンポジウムであってよい。また、小さいときから
の、オン・ザ・ジョブ・トレーニング=半労半学
があってよい。
いまの大人は、正直に自分を省みてみて、学校
という単一強制制度のもとに、子供に教うべきな
にかを、持っていると断言できるであろうか?
なにを、どう教えるのか、本当に明確な目算があ
るのであろうか? よほどの変人でもないかぎり
、「ない」と白状せざるを得まい。日本のような
国では、学校は、すでにその歴史的な役割を終え
ようとしているのである。それに、くどいようだ
が、大学で教職単位を取って、教師になろう、な
んて人物は、断じて「師」たるにふさわしい人物
ではないし、だから、なってはいけないのである
。
筆者自身、二歳十ヵ月をかしらに三人の子供を
育てているが、基本的なしつけ(危いこととか)
のほかは、ただ、聞かれたことに答えているだけ
である。また自分(親)が好きなこととか、興味
のあることについては、やや詳しく説明する。た
だし、効果など期待しない。学校は、本人が行き
たいなら、行きたいうちだけ行けばいいだろう。
あと四~五年後に、学校がかつてない素晴らしい
学校になってるなんてことはないだろうから。
・・・・・・団地なので子供が沢山いる。その
子供達を見るにつけても、学校(ならびに学校に
ついて無反省な親達)は子供のまなこをうつろに
し、不安げにし、たよりなげにし、狭小にする、
としか言いようがない。惨劇が、今日も明日も、
日常の中で、音もなく進行している。そして、今
の時代には、なぜか、一部の女の子達に、これら
すべてに超然とし、安定したまなこを持つ、すっ
きりと美しい(容貌のことじゃなく)人達がいる
。スケールが(体格ばかりでなく)、ぐんと大き
い感じがする。女らしさとか女の子らしさではな
い。男の子はおおむね、ひよわげで矮小で、ある
いは粗暴だ。なにが起きつつあるのか。
私も実は、超然としていたかったのだが、原稿
を頼まれた都合上、くだくだと書いてしまった。
まとめは、
①情報質量の世代差
②学校そのものの歴史性(メディアとしての)
③教育は強制不要
④教育は画一化してはいけない
⑤教師は「師」でない
以上によって、学校は実は非力無力であって、
世の大人達よ、そろそろ、あの過大なる学校幻想
から醒めてくれ! と私は叫びたい。
今かしましい教育論争は、非力が暗に自覚され
てきたことの現れである。非力がいくらじたばた
したって非力は非力だ。いっそ、すっぽり放棄す
ることこそ、真に大人らしい。そして、各人の自
己教育のための、素材と機会提供の、十全なる社
会システムの形成に取り組んで貰いたい。いまは
、たとえば絵本ひとつとってみても、いわゆる絵
本作家という連中がバッコしていて、数ばかり多
くて、いいかげんで、なにがなんだか分んない状
態だ。
矮小な自由など押しつぶして強大な筋(すじ)
を。硬直狭小な支配性・管理性は溶解して、大き
な自由を。―学ぶことの世界は、本来、こういう
世界のはずであり、しかも、それは、学ぶ者自身
の内面にひろがってくる世界なのだ。それが、い
まは少なくとも、学校を脱してからでないと可能
でない。なにか、やはり、根本的にまちがってい
るのだ。
こうやって「学校」について書くこと自体、思
考にちっぽけなワクをはめられたようで、肩苦し
く、いい気持のものではない。十五枚も書きゃ十
分だろう。この辺で終りたい。
「宝島」1977年10月号 74~80ページ