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岩谷宏と一緒

岩谷宏の同居人岩谷啓子(けい子)が、犬猫まみれの官能の日々を綴る

岩谷宏のロック論 21 虚脱 キングクリムゾンⅣ

2008-01-16 08:31:00 | 岩谷宏 ロック
kilakilaさんから頂いた画像UPの直後なんだけれども、
高柳さんから、ロッキング・オン 創刊号から、岩谷宏の
キングクリムゾンⅣのレコード評のテキストを頂いたので、
UPさせていただきますね。

ROの創刊号よ、創刊号。 
創刊号は、ちまたの古本屋さんで、今、どのくらいの値段で、取引
されているのかしら~。

岩谷家には、創刊号は、たくさん(といっても、5冊位かな)
あったような気がする~。



レコード評


虚脱     キングクリムゾンⅣ

虚脱とは「無能力」の自覚であって、そしてじつ
は、ぼくらの、いろいろな能力にではなくて、
ぼくらの、こんぽん的な「無能力さ」にこそ、世
界を変えるカギがある、といった、いったいなに
をいっているんだかさっぱりわからんところに、ク
リムゾン四マイ目のみょおなフィーリングがある
ような気がする。じっさい、ぼくらは、いつも、
いろんな人のいろんな「能力」と、その結果とに
つかれはてる。世界を、いろんな人のいろんな能
力とその結果がうめつくそうとする。相互調整機
能として政治および個人個人の政治的能力という
やつがあり、その結果としてのもろもろの管理機
能がある。ああ、なんともめでたいことだ。

とにかく、たとえば、もおなんというか、あのAめ
んのおわりの「レターズ」なんつう曲は、よおする
に、いままでの、たとえば、オトコとオンナとのい
ろいろ、関係つうもんへの、なんてのか、じつに、あ
っけらかんとした、しかし、深層的には最高に激越
な、アンチテーゼであって、

たしかに、一般社会がそうであった以上、オトコと
オンナのそれも、それが“ソウル”と“ソウル”との、
普遍的なひびきあい、であったためしなどなかっ
たのであり、まあ、いまもなお、ナニするカニする
といったワイザツなコトバがはんらんしておる。

くりかえしていおうか。ぼくらは、いつも、いろ
んな人の、いろんな「能力」と、その結果とに疲
れはてる。そして、たとえば、食べるものなら、
いまとなっては、厚いトーストを水でくったり、
十円のコロッケをくってたりするほうがいい、と。

ボズの声、三マイ目のジョンアンダーソンの声な
んかよりはるかにテッテーしてきょだつした声、
そしてイアンウォレスのしらけたドラミング、深
みにあるやさしさ。

「アイランズ」、最後の曲で、やっとその正体をあら
わしてくれるものは、それは、「無能力さ」。ぼくら
の中で、ほんとうにみずみずしくいつも生きつづ
けているものは、そのような、「無能力さ」。「ぼくに
は、なんにもできないョ。」ということ。  (岩谷)


「隔月刊誌 ロッキング・オン Rockin’On」1972年8月
創刊号 22ページより

同じページには、渋谷陽一さんのレコード評「イート・ア・
ピーチ」オールマン・ブラザーズ・バンド も掲載されて
います。

改行、句読点の位置等、すべて原文のままです。「深みに
あるやさしさ」の「深みに」は太字になっています。





岩谷宏のロック論 19 スージー&ザ・バンシーズ ジョイン・ハンズの訳詞

2008-01-15 05:53:44 | 岩谷宏 ロック
スージー&ザ・バンシーズ/ジョイン・ハンズ」


1.ポピー・デイ・・・2分間の黙祷

・・・・・・フランダース、広大な戦死者墓地、どこまでも、
見渡すかぎりの十字架、十字架の間に密生して咲くケ
シの花、はるか遠くまで、墓地をおおうケシの花のむ
れ、ここが私達の場所、死人である私達の・・・・・・


2.リーガル・ゾーン

宝冠は死の額を飾る
戒厳令が常態になっている
一歩破れば、生命が危ない
しかし宝珠は輝き、玉葱はきらめく
目の前いっぱいに血のヘルメット

彼等は目をそむけ
そして言う
「すべてはお国のため
人類のため」
しかし支配者の身と立場だけは
常に絶対に安全だ

拷問室に吊り下がる多くの裸体
王達は肖像画のためにポーズをとる
王達は大理石板の上で
苦しげにのたうつ人を
平然と見つめる

彼等は目をそむけ
そして言う
「これもすべてお国のため
人類のため」
このように言う人もまた
支配者の孤立した席に
同席している


3.プレシィーボ・エフェクト

おまえは私の肉に深く手を差し入れ
しかも傷はつけぬと言う
信じねばなるまい
奇蹟を、驚異を

奥深くの千本の神経が持つ
千本の見えぬ針が
私のあらゆる感覚受容器を刺す
お守りにでも頼るしかない

不安を一時的になだめるために
いんちき治療法がある
つかの間の救いのために
気休め的な治療法がある

あれを試し、これを試し、
今日は何色の薬が良いか
新聞や雑誌には何と書いてあるか
その日その日の気休め治療法

毎日が
それの連続

いいかげん
後悔しないのか?
いいかげん
忘れてしまえないのか?


4.アイコン

私の両親は天に去った
盲目になる気はしなかった

 聖画よ ― 炎となり
 聖画よ ― 尖塔より落ちよ

汝の両目が天より降る
私のまことの目となるために

 聖画よ ― 炎となり
 聖画よ ― 尖塔より落ちよ

言葉は悪意あるつばのごとく
舌からこぼれる
目を閉じ、口を閉じよ
そしておまえのおだやかな
肉体だけをしっかり感じていよ

あいまいな記号や規則が
生まれたての子供の喉にもこびりつく
そして欺瞞といういつわりの目を育み
この世界が
完成された完璧な世界と思うに至る

 言葉ではなく
 姿あるものよ
 否、姿そのものよ
 生ける聖画よ
 世に満ちたまえ

わが身に焼き串を刺し
回教僧のように回れるか?
わが身に火をつけて
いわく難い欲望を
見せつけることができるか?

 聖画よ ― 火勢を強め
 聖画よ ― 尖塔より落ちる

この罪は黄金の罪
年代ものの虚偽
閉じられた瞳
夜景画
高みより落ちて
燃やさるべき聖画


5.プレマチュア・ベリエル

この地下墓地は否応なく
私を腐らせ無力にする
重く私にのしかかり
私を引きずり込もうとする
抵抗すべきか?
事実を認めるべきか?

 変わらず、変えることもできないものが
 死人を踊らせてる
 死人達は踊りながら「いらっしゃいよ
 お仲間になりましょうよ
 人類みな兄弟よ」と歌う

生まれてみたらこんな世界だっただけ
こんな連中と一緒に
埋められたくはない
でもどうやら私も硬直してきた
意識がはっきりしなくなった
私は本当に存在するのだろうか?

壁をかきむしりながら
あの歌声に溺れて行く
思考は散乱し
まとまりがつかない

 変わらず、変えることもできないものが
 死人たちをあやつって踊らせている
 死人たちは歌う「いらっしゃい、
 私とおんなじになりなさい、
 人類はみんな兄弟よ」

赤と白のカーネーション(葬花)も
私を酔わせることはできない
このめでたい窒息は
ひたすら苦しいだけ
ああ、なんたる屈辱

私はあんた達の兄弟じゃない
姉妹でもない
私を一緒に埋めるな
「さあさ、手をとりあって
私達はみんな兄弟よ」
私はあんた達と関係ない
あんた達は私と
なんの関係もない


6.プレイグラウンド・ツイスト

首つって、首つって
野の花の花輪で首つって
枝から下ってゆれている
すべての敵から逃れ
ひざから落ちる
ガクンと
ひざからくずれおれる

三匹の盲目のネズミ達よ
サイコロを投げろ
こんなことになるとは
思ってもみなかったろう
いやな思い出を
全部のみ込んでしまっても
ハラワタにたまって行く

ゲーム・センターに入りびたって
えんえんと時をつぶす
日影で踊り続ける
シーソーのように同じ幅で
いつまでも上がり下がりを繰り返す
いくら酒を飲んでも
この正確さは狂わない

責められる人がいる
恥ずべき人がいる
罪を帰せらるべき人がいる
しかしそんな胸のわだかまりは
家に帰ってだれかに渡してしまえ
そしてリーダーに従え

ぶら下がって、ぶら下がって
ジャングル・ジムからぶら下がって
それはまるで絞首台
友達と笑っていても
きみ自身が浅いときには
きみは溺れる
きみ自身の浅さの中で
きみは溺死する


7.マザー

ぼくたちは
お母さんを愛するよう
尊敬するよう、教えられた
「いけません!」と言われるたび
心の中で憎みながら
いつも言いなりになってしまう

お母さんはぼくたちを
あたたかく守ってくれて
ぼくたちの発育を妨げる
そしてついに
似た者同士になってしまう
人畜無害な
ものわかりの良い人間に

二障の物音は 階
お母さんのベッドのスプリング?
それとも彼女の関節の音?
私は自分のベッドに一人
そして二階には
お母さんが見守っている気配

逃げ出したいとき、さぼりたいとき
お母さんはきみの言葉を
決して正しく理解しない
ただヒステリックに荒れるだけ
どうしても出て行くときには
精一杯の笑顔をつくり
精一杯、ものわかり良さそうなふり

大きくなればなるほど
憎しみの増すもの
そして忘れることのできぬ愛
それがお母さん


訳 岩谷宏


8.主なる祈り

BONUS TRACKS

9.ラヴ・イン・ア・ヴォイド(7インチ・シングル・ヴァージョン)
10.インファントリー

8及びボーナス・トラックの歌詞・対訳は割愛させていただきます

スージー&ザ・バンシーズ 「ジョイン・ハンズ +2」
2006年リマスター 紙ジャケ仕様 初回限定生産付属の対訳より 
発売・販売元 ユニバーサル ミュージック株式会社




岩谷宏のロック論 18 続き 名無し人 広告画像

2008-01-12 09:00:06 | 岩谷宏 ロック
きょうは、またまた、kilakilaさんから
頂いた「名無し人」の舞台の広告の画像を、UPしますね。

この広告を作ってくださったグラフィックデザイナーさんの名前を、
岩谷さんに、聞いたら、「思い出さない」っていう、
なさけない答えが、返ってきたけれども、

この広告、けいこさん的には、すんばらしい!!って思うわ~。
けいこさんの、感性が、うひうひ、言ってしまう~。

デザイナーさんの名前がわかったら、誰かおしえてくらはい。

大きい画像は、こちらを見てね。

今日は、少し寒くなるみたいだから、絵文字は、雪。

岩谷宏のロック論 18 名無し人

2008-01-10 19:55:20 | 岩谷宏 ロック
あなたは名無し人(びと)

人はときとして職務訊問のあるいは、取調室の警察官になる。それは、なぜか、どういうわけだか、肝心の、目の前に、今いる、時が無垢にしたわたし、が見えないから。なぜか、いま、まさに、充実してあるものを見ようとしないから。いままさにここにあなたの目の前にいまあなたへの愛でいっぱいでほかのことはなにもないわたし、をちゃんと見ようとしないから、人はわたしの過去をさぐり生活環境をさぐる。そのようにして安心したところで、そのときはすでに、あなたとわたしとの間にはとりかえしのつかない巨離が硬化している。

”What is your nationality?”例によって、
おうむ返しに”Japan"と答えようとして、その寸前にブレーキを踏んだ。自分に関係ナイことを自分に関係アルことのように語るのがいやだった。でも、いま、この金髪の下っ端役人と議論などしていたら、あとの人が迷惑するだけだ。とっさに「日本人ってことになってるはずだ」というふうに答えた。いざとなると、かなりニュアンスに富んだ言い方が、われながら不思議なくらい流暢にできてしまうのだ。

個人性。たいていの人は、その個人性を後生大事にかかえて生きて行く。なにもない人でも、その個人性だけは、まるで唯一の私有財産であるかのように・・・。悩みであるにしろ、自足であるにしろ・・・。そしてまるで日本中が、近代化以前のアラブの女達だ。そして、でも、わたしがあなたと友達になりたかったのは、そんな個人性レベルの問題への理解や共有によってではない。きらきらとかがやくように、赤ちゃんのはだのように、きれいに、Sexyに、そして完全に、友達になりたかった。つまり、個人性においてではなく、そのとき、そのときの、新鮮で機敏で、前身をはった「パフォーマンス」において。「パフォーマンス」と、それを演りつづける人には、あとから評論家やジャーナリズムの根性が適当な名をつけるのであって、それ自体に名はない。もっと純粋なものである。つまり、そういった、新鮮な無垢な出会いが可能であるかは、日頃のあなたの生活態度いかんにかかっている、日頃、あなたも、パフォーマーであるかどうか、に。赤ちゃんのはだの自然な輝きが失せた年齢から、ひきつづいて輝くのは、こんどは、パフォーマンスがあるからだ。

時が、あなたを無垢にしていくか、あるいは逆に汚していくかは、あなたがパフォーマーであるつづけるかどうかにかかっている。

わたしはおもに日本人しか知らないから日本人ってきらい。時に汚されていく人が圧倒的に多い。小さく、暗く、しなびて、声がボソボソし、重く、気も重く、腰も重く------それら黒い小さい個体のあい間を、伝統的政治や伝統的制度の、白濁した、いや今では灰濁した粘液が、ねっとりと充填していく。

そしてその粘液にくっついてしまう、そのこちらがわの、うすい皮膜のような接着剤層が、もし、あなたにもあるとすれば、それがまず「名前」なのである。そしてもしまた、あなたが、名前というものに違和感をもちつづけているとしたらその正体は、感覚的詩的理由からではなく、政治的制度的違和感なのである。つまり、感覚的で、名前Aがいやだから名前Bに変えたところで、結局、あなたはあなたの個人性を脱却できはしない。

わたしは、この都市の、みなし子である。いっこの名無し人(びと)である。同時にあなたもそうであってほしい。

いろんなところで、いろんな人達を、そして自分も含めて、“名無し人(びと)というコンセプトでみなおしてみてほしい。そうすると、それらの人達が、ひとりひとり、急に、きれいに、透明に、やわらかく、いとしくいとしく見えてくることにあなたはカンゲキするだろう。

前節と関係あることだが、音への感度、なにに感じ、なにには感じないといったことも、その対象グループ、アーティスト、ミュージシャン等は、とくにいまとなっては、あなたがあなたの日常生活において、きちんとした、全面的全身的なパフォーマーであるかどうか、あなたが名前からなにからひっくるめて、ちゃんと、つよい敏捷なはだか身であるかどうか、で、主として変わってくる。

そして今、日本やアメリカで圧倒的に売れているのは、あきらかに、なまけ者を安心させる音ばかりだ。ーーーでも、わたしとがっちり組めて、キラキラといっしょに生きていける友達は、当面は、まあ、5万人くらいでいい。わたしたったひとりでそれを50億人にしようとは思わない。たとえできるとしても。


【ロッキング・オン 1978年4月号 P.42】




岩谷宏のロック論 17 エルトン・ジョン ユア ソングの訳詞

2008-01-09 10:39:35 | 岩谷宏 ロック
1973年頃、岩谷さんは、
NHKのエルトン・ジョンの番組の訳詞を手がけたことが
あったわ~。
番組スタッフと、四谷の曙町の小汚いアパートの近くの
喫茶店で、会うことになって、
岩谷さんは、NHKの女性スタッフと、なんか仕事のお話を
していて、その席に、けいこさんも一緒だったの~。

けいこさん、今でもそうなんだけれども、10才位の
子供っぽいところがあるわけね~。
女性スタッフと岩谷さんは、仕事の打ち合わせをしていたんだ
けれども、
けいこさん、話はわからないし、
もう、その辺で、いい加減、仕事のお話はいいんじゃないのって
思って、
思いっきり、二人に、「つまんない!!」って大きな声を出して
しまったの~。
あふぉなけいこさんよね~。

そんでもって、けいこさんの、つまんないコールで、
二人の仕事の打ち合わせは終わったわ~。

あの時の、女性のスタッフさま、本当に、けいこは
わがままで、ごめんなさい。
あの時は、ただ、けいこさん、みたいテレビ番組があって、
そのテレビ番組が始まってしまうのが、
嫌だけだったの~。

けいこさんは、こういう、わがまましほうだいの
子供っぽい、けいこさんなわけ~。

あの時の、女性スタッフさま、
このブログを読んでいたら、
どうか、あふぉで、わがままな、けいこさんを、
ゆるしてくらはい。


と、いうことで、今日は、エルトン・ジョンさまの、
ユア ソングの訳詞よ~。


YOUR SONG
(inspired by エルトン・ジョン)

不思議な時代になったものです。人は
多様化した時間の中へバラバラに拉致
されて、 僕も君のそばにいつも居て
あげることができません。でも、泣か
ないで下さい。(と言っても、僕の分
別がきみを泣き止めさせることなど決
してないでしょう。)  僕だって別
に悟った訳ではありません。ただ、要
するに次善の手段として、僕はきみに
歌を送ります。僕はこれがラジオで一
日中かかること、きみがラジオをつけ
っぱなしで聞いてくれることを望みま
す。僕は、いつもいつまでも、きみの
ものです。したがってこの歌は、きみ
の歌です。僕ときみが一緒に居れば、
それはもう完全に信じられる時間です
が、不毛で不安な時間でもあるのです。
僕は、レコードとかラジオとか印刷と
かテレビとか、そんなもので、きみと
僕との、もっと完璧に信じられる時間
を作りたいのです。作ったつもりでい
たいのです。 誰だって、愛がちっぽ
けなみじめなものとは思いたくない。
アパートに安酒場に、小さく閉鎖され
ている愛が、おそらく今も、東京中で
もだえているのだよ。 ひろくひろく、
しなやかにしなやかに、流動せねば。

    「ロック訳詩集」P16・17 

岩谷宏のボウイさんのLodgerの訳詞の手書き文字 その⑦

2008-01-09 09:36:06 | 岩谷宏 ロック
今日は、岩谷宏のボウイさんのLodgerの訳詞の手書き文字の
最終回ということで、

「ボーイズ・キープ・スインギング」と「レピティション」をお送りしますね。

こちらこちらをご覧ください。

kilakilaさんからは、「名無し人」の原稿はじめ、たっくさんの岩谷宏の
原稿を頂いていますので、
一つ一つUPさせていただきますね。

高柳さん、kilakilaさん、いつも、ありがとう!!
YOSHIさん、けいこさん、YOSHIさんにも、感謝よ~!!


岩谷宏のロック論 16 キングクリムゾン エピタフの訳詞

2008-01-07 11:37:26 | 岩谷宏 ロック
みなさま、ご心配をおかけして、申し訳ございません。

けいこさんの日常においては、正月などなにもないわけ~。
元旦も、お仕事で、忙しいの~。

そんでもって、けいこさん、一応、元気です~。
まだまだ、病気だから、気分の落ち込みは激しいわけだけれども、
けいこさんは、なんか昔から、気分はいつも、LOWの人だったわけ~。
大学の寮に居たとき、このキングクリムゾンの、エピタフを良く聞いて
いたわ~。
そんでもって、この曲を聞くと、けいこさん、気分はLOWになるのよ~。
けいこさん、生まれた時から、気分は、いつも、LOWね~。
気分が、HIGHの人って、まあ、けいこさん的には、あまり信じられない人ね~。
人は、この日常においては、たいてい、気分は、LOWなんじゃあないの~。
気分は、LOWでいいのよ、LOWで。
それで上等よ~って、けいこさんは、思っている~。

女子大に行っていた頃、
ロックを聞くなんて、おかしいんじゃないって、大学のみんなから、
軽蔑されていたけいこさん~。
ボウイの詩を大学の先生に訳してもらおうとしたら、
アメリカ帰りの女の先生に、すんごく、叱られた。
というより、その女の先生、めんどくさそうに、
ボウイさんの詩を読んで、
なにか日本語をしゃべったけれども、
けいこさん的には、なにを言われたのか、よくわからなかった~。
まあ、ボウイ信者以外の人に、ボウイの詩について聞くこと自体
間違っていたわけよ~。

けいこさん、大学の友達で、ロック聞いていた人、いなかったな~。
だから、大学の友達ってあまりいなかった~。

そんでもって、けいこさん、
ときどき、新宿のサブマリンなんどに、昼間から
音を聞きに行ったけれども、サブマリンあたり、昼間行っても、
なんかつまらない場所で、お店に入っても、アイスコーヒーを飲んで、
すぐに店から出ては、伊勢丹あたりを、一人うろうろしていたわ~。

けいこさんは、外出は、いつも、一人。
岩谷宏と、一緒に、外出なんどしたことはない~。
子供とも、一緒に、出かけるなんていうことはない~。
一人で、いろいろするのが、大好き~。

そんでもって、エピタフなんだけれども、
「コンフュージョン ウイル ビー マイ エピタフ」っていう
あの有名なフレーズが、忘れられないけいこさんよ~。

そんでもって、今日は、けいこさんの画像をUPして
おきますね。

この画像は、「ぺ・ヨンジュン作品評」出版会の時のけいこさんで、
オンブックの市川編集長が、けいこさんを撮ってくれたわけ~。
この時は、けいこさんの幸せ絶頂の時で、お顔が、ふっくらしていたわけ
だけれども、
これが、2007年3月17日のけいこさんよ~。
それから、2ヶ月後5月末、お友達の男の子といろいろあったもんで、
けいこさん、見事、人生こけてしまったの~。
人生、得るものがあれば、失うものもあるのよね~。
すべて、うまくいくなんて、そんな都合の良いことはないわよね~。
けいこさん、今は、病気だから、本当に、元気が無いんじゃあないのって
いう姿になってしまって、
だから、今年の目標は、この2007年の3月17日の頃のけいこさんに戻るって
いうことに、決めたの~。

なんとか、元気を、取り戻したいわ~。


EPITAPH
キング・クリムゾン

詩人、思想家、教祖
過去のこれらの人たちは
思えばラクであったと言える
彼等には少なくとも
物言うスペース
物書くための壁面が存在した

今は その壁さえも崩れてゆく
今 陽の下に公然と存在を許されているのは
盲目の死の行進だ
しょせん いつの世にも
世にはびこるは盲者の大群
もてはやされるのは
盲者への甘いささやき

歴史の種子を播くという愚を犯したのは
おそらく少数の人であったろう
そのごく少数の人が同時に
暴力団(軍、兵士、等)を配下にし
武器を保有したことから
ああ・・・・・・
この何千年という
私達の苦しい大行進が始まったのだ

さからえば ただちに
死刑だった
から・・・・・・・・・・・・

彼等は彼等の有無言わぬ支配性を
貨幣というかたちで細分化し
世に流通せしめた
だから結局
一見どんなに自由な人でも
最初からかんじんの首根っこは
おさえられていたのである

支配性の階層というものが出来上り
それがもうひとつの別の階層体系と
衝突するときに
戦争 というものが起きるのであった

知識 は
階層体系のできるだけ上部に上がる
あるいは階層体系自身をできるだけ
強固にするための
それは一つの武器 であった

私は今これらの総体を総括して
「大バカ者」と呼ぶが しかし
人類をこれからも死へと追いやっていくのは
これら「大バカ者」達の方である

さて いまとなって私達は
歴史という名の過誤を修復できるであろか?

私達は
この非常にくだらない重荷を肩からおろして
私達自身のやわらかい円環をつくり
みどりの野に坐って
笑い合えるであろうか?

世界の現状に照らして
この完全に良き夢を考えるとき
瞬時にして
暗欝(あんうつ)たる恐怖心の方が
優勢を占めるのを感ずる
国家とは暴力であり
体制とは暴力であり
つぎの体制をめざす反体制も暴力である

大から小までの
アダム・スミスの亡霊たち
大から小までの
スターリンの亡霊たち・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

で 私としては ついに
茫然とするほか
途方にくれるほか
テがないのであろうか

あるいは明日ともなれば私も
第二次大戦の記録映画で見た
日本兵に斬首される前の中国人苦力(クーリー)のように
もう あられもなく
ワ―ッ ワ―ッと
泣きわめくしかテがないのであろうか

私は
明日が恐い。

(訳注:これは私にとって十度目くらいのエピタフの訳であります。そしておそらく、これがベスト。一九七五・三・十八)

「エピタフ叢書第一回 ロック訳詩集」著者 岩谷宏 P64~P69 

岩谷宏のロック論 15 学校は一種の纏足だ

2008-01-05 14:23:01 | 岩谷宏 ロック
「学校は一種の纏足(※てんそく)だ」  
※昔の中国で、子供の時から女の足に布を堅く巻 きつけて、大きくしないようにした風習。男の性 的対象物としては、足の小さい方が良いとされた 。  
岩谷宏

私は昭和十七年生まれだが、私の頃も、学校は 、まあ、退屈でつまらない所だった。曖昧で無彩 色な時間を、よくもまあ、あれだけの年月、空費 したかと思うと、今でもゾッとする。今の私は、 現実の社会経験をきっかけとして、いろんな事を 考えられるようになったが、どの考えもわれなが ら底が浅く、透徹していないのも、あの空虚な長 い年月に主な原因があるような気がする。学校は 人間をダメにする、と、私は私自身をサンプルと して断言できる。  

いま仮りに、生徒が六歳で教師が三十歳だとす る。するとそこには二十四年の差がある。人間の 歴史の進行テンポ、情報の質的量的な変化のテン ポからすれば、二十四年の差は、現実には無視す ることは不可能である。制度としての学校はこれ を無視しなければ成立しない。生徒にとって退屈 でつまらないものになって当然である。

前節をもう少しわかり易く言ってみよう。教師 は今三十歳だが、生徒が三十歳であるのは二十四 年後の世界に於いてだ、ということ。これが第一 。そしてさらに重要なことは、今六歳である生徒 は二十四年前の六歳の子供とは異なること。つま り彼(あるいは彼女)は、今六歳であり、したが って二十四年後に三十歳であるべき人間として生 まれ、育ってきていること。

さらに話をわかり易くするために、もっと根源 的に重要なことを言おう。子供とは、大人である 人間が、欲し、計画し、その欲し計画した通りに 生まれて来るものでは断じてない(高柳注、「子 供とは~断じてない」まで、字の横に「、」がふ られています)こと。この意味で、(言葉は少々 大仰になるが)、歴史とは神の作品であり、子供 とは歴史の生命である。大人よりは子供の方が、 宿命的にススンでいるのだし、ますますススンで 行くのである。

つまり、原則として、子供は大人よりひとまわ りスケールの大きい人間として生まれて来る。だ から学校とは、現実の子供のための学校ではあり 得ず、大人達が自分の現状を基に想定した架空の 子供のための学校でしかあり得ない。落ちこぼれ や逸脱、非行、登校拒否等は、したがって、当然 の健全な現象であり、本質的には全生徒に普遍化 しているものと見るべきである。私の世代の頃に は、これらの現象はまだそれほど顕著でなかった 。人間としてのスケールが、今の子供よりは少し 小さかったからである。

スケールが大きいことの一例は、たとえば、も のわかりが、大人よりも早くかつ速い。また疑い のメスの刃先が、大人より鋭くこまかい。これは 当然であって、もしおんなじならば、そもそも歴 史という現象はあり得ない。拘泥の対象も、大人 と同じ次元では決して拘泥しない。繰り返すが、 子供は歴史の作品であり、歴史の成長細胞である 。成長細胞の成長テンポに合った教課や教科書な ど、そもそも大人が作ることなど不可能である。

筆者の例で言えば、読むことは小学校入学以前 になぜかしらマスターしていて、一方、書くこと はいまだに辞書の助けを借りる。すると、辞書と いうメディアがこの世になかったなら、書くこと に関しては学校があってもいい、という理屈にな りそうだが、現実には、書くこと(の世界はあま りに多様であるから)の学校など成立し得ないで あろう。

ローティーン~ミドルティーンの女の子達から の手紙では、セックスのことの書き方は、露骨で 率直で、あっけらかん・サバサバとしていて、私 の世代では考えられなかったことだ。今の大人に は、とても対応できない事態であろう。性につい ては、これを後生大事げに封じ込めることの方が 、明きらかに人間を遅延させる。性は、白日の下 に当然化し、足りれば、耽ることもない。

いまの一般的な認識の中に欠けているもっとも 根源的な認識は、学校というものもまたひとつの 歴史的なものだ、という認識であろう。およそ、 人間が作り上げる諸制度は、いずれも歴史的なも のであり、永遠のものではあり得ないのだが、結 婚制度や貨幣制度等より一歩~二歩早く、今、そ の歴史性があらわになりかかっているもののひと つが、学校制度であろう。

歴史性という言葉を解説しよう。・・・・・・ みんながたらいと洗濯板で洗濯していた時代には 、それが当たり前で、だから、たらいと洗濯板の 歴史性はあらわになっていなかった。「くそ!  いつまでもこんなシンドイことやれるかい!」と 発想した人にのみ、あらわになりかかっていた。 そして、今、普及してしまった電気洗濯機も、汚 れない繊維とか、自浄能力を持つ衣類とかがもし 出て来れば、どうなるかわからない。

さて、学校の歴史性だが、これはメディアの発 達と関係がある。筆者が五~六歳までに読むこと をマスターしてしまったのも、主として身の回り に雑多な本というメディアがあったためである。 親も子供がいちいち聞くことに、面倒がらずに応 えて呉れた。この場合、親もひとつの優秀なメデ ィアである。

すごい後進国のことを考えてみよう。この場合 、メディアは学校しかない。親も、子供がたずね る事に答えられない。唯一のメディアが学校なの だから、子供を学校にやれるかやれないかが大変 な問題になる。(でも、そんな後進国でも、今で は、子供の方さえ元気旺盛であれば、いろんな別 の道があると思えるが・・・・・・。)

今の日本のような国だと、いろんな本や雑誌は 月に何千冊と出版されるし、終日切れめなく放送 しているテレビ局が七ツ、放送局もそれくらいあ る。テレビはくだらないけれどもそれでも、二~ 三歳の子供にとっては結構、十分な情報量がある ようである。このように多様化したメディアの中 にあって、学校というメディアは今、きわめて貧 しく硬直化した旧式のメディアでしかなくなって きているのである。すなわち、退屈でつまらない 、のである。

学校というものが質的に貧しく硬直化したメデ ィアに成り下がってしまったのは、単に自然現象 ではない。つまりそれは、政策を基盤に成立して いるから、メディアの基本機能たるべき「開放性 」、「柔軟性」をもっとも欠くものになっている 。いわばそれは、重傷不具のメディアなのである 。すなわち、学校は、学校であること自体(=集 団一律同内容慣習的定型的教育)からも貧困化し 硬直化するが、さらにそれが政治家の政策である ことによって二重に貧困化し、硬直化するのであ る。すなわち、学校とは、おこがましく、ちゃん ちゃらおかしいものなのである。―すべての教師 は愚鈍な顔をしている。どの教師の顔も、等しく 並みに愚鈍には見えないあなたなら、あなた自身 が致命的に愚鈍なのである。

歴史性、についてもうひとつ解説を加えよう。 それはたとえば、木の葉の堆積の上にやがてキノ コが生まれるように、過去の蓄積を養分として新 らしいものが生まれ生育することである。植林し てから何百年経っても、毎年、木々だけの青葉→ 紅葉→落葉だけを繰り返しているのなら、やはり 歴史はない。

たとえば、最近の若いモンはだらしない、とか 、がんがらない、という言い方も、先代までがん ばった地盤の上だからこそ、次代は少々ラクがで きる、という歴史的事態を見忘れている。次代が 先代と同じ苦労をするなら、そもそも先代の苦労 そのものが歴史的に無意味だったことになる。こ こでは、きわめて陳腐な例しか思い浮かばないが 、電卓がはびこった結果、そろばん等の計算技術 に長ける必要はもうない、とか、デジタル・ウォ ッチが主流になれば、時計の文字盤の見方を習得 する必要がないとか・・・・・・。先代だって原 始生活には耐えられない。人間は、そのときその ときの、歴史的蓄積の上でしか、原則として生き られないのである。ニューヨーク停電のパニック が、そのことを教えてくれる。

また、人間の勉学心というものは、強制しなく ても、すでに一~二歳のころから、自然に旺盛に 発揮されてくる。そして一人一人、質や方向が違 う。大人は、なんら強制の根拠を持っていないし 、方向を制御する根拠も持っていない。それらの 根拠を持っているという思いあがりが、学校を成 立させ、教育とは外的に賦課すべきだという(親 の)思い誤りが学校を存続させる。子供の旺盛な 勉学心に親が十分に対応できないので学校を求め る、という場合、いまのところそれは現実の学校 ではなくユートピアの学校である。

さらにもうひとつ。教師と生徒という関係は人 間の関係性のあり方として抽象的なあり方であっ て、具体的でない。昔の、師と弟子というあり方 を具体的とすれば、今の教師と生徒というあり方 は、ロボットと人間の関係でしかあり得ない。中 には例外があるかもしれないが、今の教師という 立場は、子供にしっかりと教え込むべき貴重な「 事」と、それを渾身込めて教え込む「情熱」は持 っていないし、持ち得る立場ではない。教師自体 が、自分をそのように教育していないし、錬えて もいない。筆者が自分の過去をふりかえってみて も、教師との関りが、本当に人格的な関りであっ たという記憶はない。本で接したり、レコードで 接したりした一部のアーチストや思想家の方が、 よっぽど人格的迫力があった。ゆえに、いまや、 教師こそ教育不適格者である。

現実の学校、つまり、いま現存する法・指導要 領・カリキュラム・教科書・教師、等によって構 成されている学校はない方がよい。筆者自身、な にもかも中途半端で断片的でかつ古く冗長だった という記憶しかないからである。そしてもし、教 育の社会的分業形態としてのなにかが必要であれ ば、要するにキメ細かく、総合的で、最新の情報 システムがあればよい、と考える。それは、自分 でどんどんつっこんで勉強して行ける情報システ ムである。

それは、本などのメディアに限定されない。毎 年一回メンテナンスの行われるコンピュータ化さ れた百科教科書(論理的な脈絡を持っており、端 末機は学習者の部屋にある)でもよいし、一方で は、出入り自由な研究機関やある教授の講座やシ ンポジウムであってよい。また、小さいときから の、オン・ザ・ジョブ・トレーニング=半労半学 があってよい。

いまの大人は、正直に自分を省みてみて、学校 という単一強制制度のもとに、子供に教うべきな にかを、持っていると断言できるであろうか?  なにを、どう教えるのか、本当に明確な目算があ るのであろうか? よほどの変人でもないかぎり 、「ない」と白状せざるを得まい。日本のような 国では、学校は、すでにその歴史的な役割を終え ようとしているのである。それに、くどいようだ が、大学で教職単位を取って、教師になろう、な んて人物は、断じて「師」たるにふさわしい人物 ではないし、だから、なってはいけないのである 。

筆者自身、二歳十ヵ月をかしらに三人の子供を 育てているが、基本的なしつけ(危いこととか) のほかは、ただ、聞かれたことに答えているだけ である。また自分(親)が好きなこととか、興味 のあることについては、やや詳しく説明する。た だし、効果など期待しない。学校は、本人が行き たいなら、行きたいうちだけ行けばいいだろう。 あと四~五年後に、学校がかつてない素晴らしい 学校になってるなんてことはないだろうから。

・・・・・・団地なので子供が沢山いる。その 子供達を見るにつけても、学校(ならびに学校に ついて無反省な親達)は子供のまなこをうつろに し、不安げにし、たよりなげにし、狭小にする、 としか言いようがない。惨劇が、今日も明日も、 日常の中で、音もなく進行している。そして、今 の時代には、なぜか、一部の女の子達に、これら すべてに超然とし、安定したまなこを持つ、すっ きりと美しい(容貌のことじゃなく)人達がいる 。スケールが(体格ばかりでなく)、ぐんと大き い感じがする。女らしさとか女の子らしさではな い。男の子はおおむね、ひよわげで矮小で、ある いは粗暴だ。なにが起きつつあるのか。

私も実は、超然としていたかったのだが、原稿 を頼まれた都合上、くだくだと書いてしまった。
まとめは、
①情報質量の世代差
②学校そのものの歴史性(メディアとしての)
③教育は強制不要
④教育は画一化してはいけない
⑤教師は「師」でない  

以上によって、学校は実は非力無力であって、 世の大人達よ、そろそろ、あの過大なる学校幻想 から醒めてくれ! と私は叫びたい。

今かしましい教育論争は、非力が暗に自覚され てきたことの現れである。非力がいくらじたばた したって非力は非力だ。いっそ、すっぽり放棄す ることこそ、真に大人らしい。そして、各人の自 己教育のための、素材と機会提供の、十全なる社 会システムの形成に取り組んで貰いたい。いまは 、たとえば絵本ひとつとってみても、いわゆる絵 本作家という連中がバッコしていて、数ばかり多 くて、いいかげんで、なにがなんだか分んない状 態だ。

矮小な自由など押しつぶして強大な筋(すじ) を。硬直狭小な支配性・管理性は溶解して、大き な自由を。―学ぶことの世界は、本来、こういう 世界のはずであり、しかも、それは、学ぶ者自身 の内面にひろがってくる世界なのだ。それが、い まは少なくとも、学校を脱してからでないと可能 でない。なにか、やはり、根本的にまちがってい るのだ。

こうやって「学校」について書くこと自体、思 考にちっぽけなワクをはめられたようで、肩苦し く、いい気持のものではない。十五枚も書きゃ十 分だろう。この辺で終りたい。

 「宝島」1977年10月号 74~80ページ



岩谷宏のロック論 14 学校嫌いのススメ

2008-01-03 19:54:38 | 岩谷宏 ロック
みなさま、あけまして、おめでとうございます。

今日は、高柳さんが、コメント欄に書いてくださった、
岩谷宏の「学校嫌いのススメ」をUPいたします。

高柳さん、サンクス ア ロット!!

「学校嫌いのススメ」

岩谷宏

この雑誌の読者は主に10代の人達であろう。ところで私は今34才である。生まれたの が昭和17年、高校入学が昭和32年、大学卒業が昭和39年である。小学校から数えると 、「勉強」に費やされたのが16年、「労働者」になってから12年、というところであ る。大学生時代にはアルバイトをひっきりなしにやっていたから、それを加えると労 働者歴16年、となる。

で、現代の教育制度には重大な欠陥がある。その重大な欠陥については、学校にいる あいだはわからない。現実社会と関わるようになって10年以上経って、やっとどうや ら、そのことがわかって来た、といって、この私が格別に鈍い人間かというと、そう でもないらしい。社会人としての生活を10年やろうが20年やろうが、全然、気付くこ とのない人達の方が、どうやら圧倒的に多いようだから。

その欠陥をひとことで言うなら、人類の歴史が蓄積して来たこれまでの諸形成をもっ て世界とし、その世界を静態的なものとして教える、ということだ。が、これはきわ めて非現実的な教育である。現実を知ることをもって教育と呼ぶなら、これは教育で はないと極論してもいいくらいのものである。

世界の構成要素を時間と空間とするなら、少なくとも私達人間にとっての世界として ウェイトが圧倒的に大きいのは時間、すなわち動的な要素である。たとえば「社会」 という概念を考えてみても、これは複数の人間の動的な関り合いによって形成されて いるのだから、時間的な概念である比重の方が圧倒的に大きい。なによりも、人生そ のものが時間である。もろもろの課題や問題が発生し、それらを解決したりあるいは 打ち負かされたりして行くのも時間においてであり、今の教育の持つ致命的な欠陥と は、ものごとを時間の相において見ることを教えない、という点である。

 もともと、人間は完全に馬鹿ではないから、学校教育がどんなにおろそかなものであ っても、その後の時間において、時間というものの現実性・具体性にぶつかって行き 、時間を自主的にこなすべく努力するが、それはぶっつけ本番、個別バラバラだから して、非常に効率が悪い。鈍感な人間になりおおせるか、あるいは激しい欲求不満者 になるか、この二つの、いずれも不健康な道しかない。

 静態的な世界の側からでなく、具体的・現実的な時間性の側から、教育の体系をすっ かり組み変えるべきだ、というのが私の意見である。静態的な世界は、それ自身すで に、いくつもの動的な問題をはらんだ、過渡的なものとして(それが正確な教え方だ )教示すべきである。

 実際になんらかの仕事についてから、時間性の問題にぶつかっても時すでに遅いので ある。仕事をやるようになったら、その日その日の仕事をまがりなりにもこなすだけ で精一杯になってしまう。そして、俺は、私は、いったいこれまで何を勉強してきた んだ! と、自分自身に腹を立てるのである。

エレクトロンクス・コミュニケーションなどと言われる時代になっても、人間全体の おろかしさがいっこうに改善のきざしを見せないのも、教育が無力であることに一因 がある。現実(時間)対応への勉強がゼロであった場合、暴発(戦争など)が起きて しまうのもやむを得ないのである。

ヘーゲルのフレーズを借用して言えば、時間とは神の狡智、論理というものの狡猾さ 、である。そして教育とは、その狡智に流されるのでなく、むしろ有意義に利用でき るような知恵と技術と考え方とを身につけさせることでなければなるまい。現在ある 唯一の時間性的な論理はマルクシズムであるが、これは完全なものではない。

 たとえば、大学の工学部に入れば、コンピュータを組み立てたり使ったりする技術は 身につく。しかし、現実(時間)の中でのコンピュータとはコンピュータ自身ではな く、コンピュータのユーティリティ、すなわち時間の側に発生しあるいは潜在してい る諸問題である。―かくて、この教育ギャップから、いま世間で稼動している汎用コ ンピュータの稼働率は40%にも満たない。

 同じ言い方で、たとえば、音楽・音楽家の本質は、現実の中では、その音楽・音楽家 そのものではなく、それらのあなたへの機能・働きかけである。だから音楽をやると は決して、楽器や歌がうまくなることではない。あなたならあなたが、また別の人へ と機能すること、働きかけることである。ゆえに、荒井由美(などなど)〔※高柳注 、由美ではなく、正しくは由実です〕は音楽ではない。

 閉鎖的な実験室内でガソリン・エンジンというものを考案したからといって単純に喜 んで、それをただちに自動車(という現実存在)へと応用すべきでない。このような 、静的世界と、現実の動的時間的世界との無思慮な短絡が、交通事故や公害の真犯人 である。すべての発想は現実世界の側から行われるべきだ。

 出産と育児に関する知識と技術の習得は高校の正課に組み込むべきである。医療知識 と技術のうち、臨床蓄積のきわめて長いもの、たとえば風邪、下痢、腹痛のたぐいに ついては、医師に独占させるべきでなく普通教育の中へ公開させるべきである。

外国語は、現実にある、あり得る、文章や会話文について教えるべきである。アイ・ アム・ア・ボーイやジス・イズ・ア・ペンは、単に、“論理的にあり得る”文章にす ぎない。だからいつまでたっても現実の英文は読めない。

数学は、授業時間を減らすとか、集合を教えないとか、小手先細工ではなく、対数、 集合、級数、微積分等について、それらの“考え方”の由来、必然性、必要性につい てまず教えるべきである。いまの状態だと、かりに問題がうまく解けたってこれがい ったい何なのか、については、ついにさっぱり解らない。

 現実の、現実的な側面については、あえて私達は知らなくともよい。知らなくとも、 歴史というものはそれなりに進むものだ。たとえいくら犠牲者が出ようとも・・・・ ・・。とする論があるとすれば、それは暴論である。

あるいは、ごく一部の人さえ知っておればよい、とする暗黙の了解は、独裁者あるい は独裁グループに好都合な論理である。多数の人間が単なるロボットであればよし、 とする論理である。静態的教育は、視野がせまくて、かつ、おとなしいロボットを量 産する。

 さて、予定枚数10枚のところをすでに8枚まで来てしまった。現実的に良い方法とい うとたとえば今の中国の方法、つまり、労働と勉強を半々にしながら教育していくと いう方法などは良い方法なのかも知れない。だが、今の(日本などの)学生アルバイ トは最悪だ。自分が勉強していることとなんら関係のない肉体労働がほとんどだから である。

 私達が、単純な、あるいは逆に自閉的な、欲求不満者にならずに、ちゃんと問題を対 象化して、自分自身の勉強の課題とし、論理的かつ実証的に研究して行く、という態 度は、今の学校制度や教師に期待していても身につかないであろう。結局、自分自身 で始めるほかないのであって、自分で積極的に本を読んだり、調べて歩いたりが深ま った結果、自然に学校にはあまり行かなくなったり、あるいは逆に、ある種の研究の ためにある学校(あるいは研究団体)のある教授をしばらく師としたい、というよう なことになったりするのは、すばらしいことと思う。

今が一九七六年で、私は34才である。これから10年後20年後の34才が、今の私と同じ ような思いを抱かないで済むようにこの文章を書いたつもりである。“現実”を 10 年以上体験した身から、今の教育体系や教科書の構成・内容を、具体的に批判し始め たらキリがないし、この短いエッセイ向きのテーマではない。なにしろ、とんでもな く、まぬけた内容だ、ということは言っておこう。

今の、私達が知らない間に醜怪に肥大してしまった都市や社会を見ると、得てして私 の中には単純な暴力衝動・破壊衝動が湧く。でも、実際に出来ることは、それぞれ、 微細な部分に具体的に取り組んで行くことである。重大な問題がぶらさがっている分 野は、保健、医療、コミュニケーション、経済、食糧、精神科学、などなど、沢山あ る。こういった、現実的な諸問題と積極的にひっかかるところの少しもない教育など は、あなたから積極的に今日からただちに、無視すべきである。そして、いったん労 働者になってから、否応なくひっかかってきても、その時はもうすでにかなり遅いの である。そのようにして、うかうかと「なんにもできない欲求不満者」になりおおせ たときに、そのカタルシスとしての諸芸術があったところで、そんなものにはむしろ 、唾を吐きかけてやろう。

最後に、「音楽雑誌」へのおあいそ。最近、元気づけのために良く聞くのは。60年代 中期の、つまりブルース→リズム&ブルース→ソウルと呼び名がだんだん積極性・肯 定性のあるニュアンスのものへと変り始めた頃のR&Bヒット曲である。マーサ&ザ ・バンデラスの「ダンシング・イン・ザ・ストリート」なんて、最高だなァ、と今さ らのように感心しながらしきりに聞いている。まあ、なにもかも、リバプールの人達 も、ロンドンの人達も、サンフランシスコの人達も、こういうのに「いいなァ」と感 激することから始まった訳で、この文章も、あなた自身の始まりの、その何十分の一 かであり得れば、とても嬉しい。

 「ROCK MAGAZINE」VOL.5 December 1976 P72~75より






岩谷宏のロック論 13 キングクリムゾン 「アイランズ」の訳詞

2007-12-31 04:50:16 | 岩谷宏 ロック
今日は、高柳さんが、コメント欄に書いてくださった、
キングクリムゾンの「アイランズ」の岩谷宏の訳詞を
UPしますね。

高柳さん、ありがとうございます!!


ISLANDS KING CRIMSON

足元の土、流れ
木、その四方を海が囲み
波は岸辺の砂を掃き去る
この小さな島が 私

日、没し
野と森、ひたすら雨を待つ
年経(ふ)るごとに愛は
私の絶望を蝕(おか)す
潮(うしお)を避け
風を宥め
ほぼ風化した私の岸壁を年毎(としごと)に
愛は蝕す

その巨怪な花崗岩壁の高みに空
海烏(うみどり)は輪を描き滑空し
我が小島にかなしみの歌うたいかくる
我が曙(あけぼの)は花嫁のベール
青ざめ、涙かわくまもなく
昇る陽に溶け
愛は豊かなる布を織り出(いだ)しその上で
猫たちは鼠を追う
愛は野イバラの茂みとなり
私を閉じ込めそこでは私の
知性は静かなふくろうの目のようだ
すみれ色の空が今
私の小島をおおう
私をつつむ

 風と波の交わるこの下に
 大いなる
 やすらぎこそあれ
 私と同じくひとりひとりが
 小さな島であるすべての人々よ
 その手が天国の大海の下に
 むすばれてあれ

暗い埠頭が 石で造った指のように
飢えた男の指のように
私の小島から伸びている
水夫達の言葉のひとかたまり
小島の浜に
捨てられて散る真珠と酒瓶も
よく見ればこれもまた
愛のひとくさり

地は流れ
木は海に帰還し
波は私の小島から
砂を掃き去る
私 という この
宿命の小島から・・・・・・・・・・・・・・・・・


注、改行はすべて原詩のままです。
  一文字分あけてあるところもそのままです。
  振り仮名は原詩ではもちろん、文字の上に振られていますが、
  ここではカッコ内に書きました。

岩谷宏のロック論 12 「ピーターと狼」ライナー

2007-12-27 07:35:35 | 岩谷宏 ロック
デビッド・ボウイーと子供

 デビッド・ボウイー(1947年1月8日ロンドン生)がアンダーグラウンドのプリンス から世界的ロック(&ポップ)スターへの飛躍を遂げたのは1972 年。当時から彼は 「大人達が何を言おうと、何と書こうと、ぼくは気にもとめない。唯一、肝心なのは 子供達なのだから」と言っている。また、最近の米紙インタビューでは、「なにより も子供が好きだ。育てられさえすれば子供は何人いてもい。でも、エゴっ子なら要ら ない。世界中のどんなパンク・バンドより、数人の子供の方が、断然、ぼくには素晴 らしい」を、結語として語っている。  大人は、(少なくとも現代の水準では)よほど超人的に神経&感愛性(高柳注、感 受性ではありません)と自己注意意識の発達している大人でもないかぎり、どの大人 もその人なりに、世界や人間に対して、一応、わかったつもりになって生きている。 大人にとってのアートとは、いわば、自分の肖像画を見ながらマスターベーションと なる。わかっているつもりで(注、つもりでの上には、・が打たれています)生きて いるから、その“わかり”の範囲外のことはすぐさま、批判や非難や、あるいはもっ ともらしい“解釈”の対象におとしめられてしまう。そして、大人がおちいる自家撞 着の最たるものは、自分にとって顕在化してきた問題に対して、その事が問題化する に至った基本原因を排除できないままに対応しようとすることだ。これはたとえば、 “着る”という概念しかない人間がひどい暑さに遭遇した場合、この暑さから逃れる には、さらになにを着たらよいか、と考えるようなことにも似ている。  デビッド・ボウイーが「子供しか相手にしない」という場合、これは、子供はまだ 何にも染まっていないから、なにかを教育しやすい、吹き込みやすい、といったこと では決してない。それは、人間の子供が持っている「歴史展開の生命力」に対して言 われている。(動植物の子供は親達とほぼそのままの形態や生活パターンを継承する だけであって、歴史をきりひらかない。)言い換えれば、人間の子供とは、人間の大 人にとって、本質的に“未知なるもの”なのである。それは、UFOほどにもわかられ ていない、わかることを不可能、という点において、UFOなどよりよほど本格的に“ 未知なるもの”なのである。(実際、筆者の生活実感でも、せまい家に毎日、3人も の子供がいれば、それはほとんど“恐怖”に近い。)  ロック音楽の主対象は完全な子供、ではない。大人への入口にさしかかって、迷っ たり、疑問を抱いたり、消極的にあるいは積極的に反抗したりしている、いわば“子 供最終期”の子供達に、あらためて子供であることの自覚をはっきり取り戻させ、こ れまでの、あまりにもモンダイ多い大人達ではなく、これまでになかった新しい大人 達(注、新しい大人達の上には・が打たれています)への成長の道を、みずから造り 出させようと促す、アジテーションとしての機能を、すぐれたロック音楽は持ってい る。すぐれたロック音楽は、子供達が、従来的な大人へと硬直化することを完全に防 ぐ、強力な効能を発揮するのである。  ここのところ、ロック界の大御所みたいになってしまったボウイーは、自己のメデ ィアを多角化するのに熱心だ。映画主演(すでに3本)、絵画等の展覧会、自分以外 のミュージシャンのプロデュース(これは数多い)、テレビへの積極的な出演(死ぬ 直前のビング・クロスビーの番組にもゲスト出演した)、ポピュラー・スタンダード ・ナンバーのレコーディング、そして、今回はこの「ピーターと狼」のナレーターで ある。  RCA自身も含めすでに各社何種類ものレコードが市販されている「ピーターと狼」 、新企画のナレーターには既存の大スターを起用するのが商売的には一番てっとり早 い。そしてプレスリー亡きあとのRCAにおいてはその候補はボウイーも含めて2~3人 に限られるであろう。―あとは、多くを書かなくてもいいだろう。すぐれたロック・ ボーカリストの日常会話音声の特長である、“ほとんど母音だけ”みたいな、やわら かい、おだやかでよく響く、そしてしかもベトつきや微温的なところも全くない、ボ ウイーのナレーションをあなたは肌で感じとればよい。イギリスの英語、といっても 、従来それは、往々にしてもっと陰湿な、あるいは残虐ですらある音(注、オンと振 り仮名が振ってあります)だったのである。                      岩谷宏

高柳さんのコメントを今日は投稿としました。
高柳さん、ありがとう!!



岩谷宏のロック論 11 ロックの直接性とは何か

2007-12-23 09:28:19 | 岩谷宏 ロック
ロックの直接性とは何か

この9月は子供の自殺が多かったが、そのひとつ、1日には東京都葛飾区で4年生の女の子が団地の屋上から飛び降りた。

諸報道によれば、大学ノートの切れはし3枚に遺書めいた走り書きがあった。その3枚とは--

これは大塚先生にあげてくださいね!! さようなら

これは兄がほしがっていたもので、とっといてください。

これはどうか家の中においてください。私だと思って。
どうか私の自分かってなわがままをゆるして下さい。

「これ」が何をさすのか、家族にも警察にも新聞記者にもわからない・・・・・・という。

1日は始業式の日である。母親は、いやがる娘を無理やり美容院に連れて行って髪を切らせている。

2日が宿題の提出日であるが、彼女は始業式から帰ったその日に、宿題帳をひろげている。それは一応、全部やってあったものだ、というから、たぶん提出前に見直していたのだろう。そして、自殺した。

自殺者は往々にして「もとの自分にかえしてほしい」、「出発点に戻してほしい」、「時間をとりかえしてほしい」、などと難題を訴える。(徳田良仁/神経研究所診療部長/朝日ジャーナル9月23日号)



「これ」が何をさすのか、あまりにも明らかである。3枚の大学ノートの切れはしである。(雑に言えば)自分の分身、(正確に言えば)自分そのもの、である。

現代の狂気(ルナシー)の社会には、自分を自分としてうけとめてもらいたい願望に対する、大きな障害ばかりが立ちふさがっている。美容院、学校の宿題などは、その、氷山の一角である。

大人になれば、いやなことは、ずるずるとやらずに済ませてしまったり、まずい酒を一気に飲み干すようにエイヤッとやっつけてしまったりできる。子供にはその図太さはない。

彼女としては、3枚の大学ノートの切れはしの走り書きに、かろうじて、本来の自分を託し、先生と兄と兄弟とに、それをうけとめてもらおうと願った。

ところが、家族も含めて、どの大人達にも、「これ」が何をさすのか、ついにわからなかった。外(そと)のもの、対象的なものしか見ないという、心の視線の慣性しか、もはや「彼等」は持っていなかったからである。だから、自殺へと現実化するとっくの以前に、すでに、彼等は子供を完全に殺消していた、と言える。このような家庭(等)では、子供は生まれたその時から殺されている。

親(達)は死体を切ったりはったり削ったりして自分たちの幻想作品を仕立て上げようとする。



彼女がノートの走り書きにかろうじて託そうとしたものと、たとえばこの私が、日頃書くことに託しているものとは、全く同質のものである。私はかつて一度たりとも、えげれすやあめりかのミュージシャンやスターや音楽について書いたことはない。そう思ってるとしたらあなたの完全な誤解であり、あなたも「彼等」の一味だ。

親や学校が分厚い壁(かべ)のようにしか感じられないとしても、ロッキングオンがあるじゃないか、私がいるじゃないか!と私は叫びたいが、小学校4年ぐらいだと、まだ、本屋でこの種の雑誌に手を出したりはしないのだろうか。

目の前がまっ暗でも
まわりがぐるりまっ暗で
手ざわりがなくっても
目を閉じて
あなたの心を感じてみろよ
あなたの中の奥深くで
ずっと前からぼくが
あなたに語りかけているよ
ほら 今も


【RO 1977年12月号 P24】


kilakilaさん、テキスト化ありがとう!!