そしてぼくには、そういうものをすべて一挙に破壊してしまう能力は
そなわっていない。
永山則夫的愚行にはしるには、いまのあたしゃ、インテリすぎる。
いずれにしても、「ハードロックはきけない」なんてのは、
どうしようもない保守反動だ。いずれおれが銃殺してやるからまってろ。
たとえば、NMMという雑誌の、こんぽんてきなマチガイは、
すべて、各種各様の古典的実存どもが、いろんな文章を
書いたりレコード評書いたりしている、という点にこそあるのだ。
理解する能力、自分にとって外的なものとして味わい鑑賞する能力と、
どうしようもなく「やられる」能力(?)とは、こんぽんてきにちがうのだ。
さて
カールパーマー、マイケルジャイルス、そしてイアンウォーラスといった
連中のドラミングは、それまでの名ドラマーのごとく、
ある固有のリズムにぴったしインしてくるのではなくて、
たえず外側からビートを加えて反撥されたり、むちゃくちゃに
ふみはずしたり、あるいは外側にはみでる、といったタイプの
ドラミングである。
(こういう傾向のさきがけは、すでに、ジョンボーナム、
ドンブリューワー、サイモンカークあたりに、はっきりにおっている。)
これは、たとえば、ビートルズ後期のレコードのような、
つまり、ジョンのオトの上で他の三人が、
チョコマカとおにんぎょしばいをやっているといった感じとは
まったく逆の、むしろ、強力なプラスの関係としてそうあるのである。
つまり、ロックバンドはコミュニティではなくて、
むしろディスコミュニティであるようなコミュニティであるという、
新しい関係がここには確立している。
いま、ぼくが、ドラムをやるとしたら、
やっぱし、こういうドラムにならざるを得ないだろう。
偽善的演奏でもしないかぎり。
これはどういうことか、というと、
つまり、いまや、ロックが、ひとりひとりの人間のものになった、
ということである。ひとりひとりの人間がロックになった、
ということなのだ。
つまり、ひとりひとりの人間が、
ロックへと、醒めたと、いうことなのだ。
産出行為の中で産出目的のために一体となった一定の複数の個人、は、
まだ醒めておらない。
したがって、Tripにおちこむキケン性を十二分にもっている。
たとえば、これまでの倫理学は、
「ひとりひとりの人間が勝手なことをやっちゃいけない」というものであり、
はなはだしいのは「ある特定の人間はある別の特定の人間に従わなければならない」というものであった。
とくに、これまでの歴史を推進してきたのは、主として後者の方である。
ロックは、そのいきつくところでは、
こういったデーゼをまったくけちらしてしまう。
それでいて、なぜ、まったく心配はないのか。
(ぼくはワカラズヤに説明することの無意味さにはコリているので、
この点についてはこれ以上書かないことにする)
古い音楽になじんでいる人はこいういった傾向にどうしても違和感を感じ、
ひとによっては拒絶反応をおこしてしまうらしいが、
これは黒人音楽になにんでいる人が「ロックはどーもイヤだ」というのと
相似的な関係にある。
まあそーいう人は、「ヘッド」の「永久革命」を
はじめから放棄してしまっている人なのだ。
(この節、平岡政明氏のような人に捧ぐ)
「あらゆる犯罪は革命的である」なんつっちゃって、
「革命的である」ことと、現実に「革命である」ことが
月とスッポンほど以上にちがうんだという、
この、ごく基本的なことすらわかってないバカが
この都会には多いような気がする。
人は、革命「的」であることについてなんて書いちゃいけないのだ。
なぜなら、そんな行為の中でこそ、
その人は、ほかならぬ自分自身の革命を完全に見失うからなのだ。
「現実に革命であること」は、すごく単純なことであり地道なことである。
あんたのいうとおり「たいくつでつまらない」ことだ。
まず入門者用としてフリーってグループのレコードでも聞いてみなさい。
たしかにそうだってことがわかるから。
(アリスクーパーの声は、きいているとぼくのセキズイから
オロオオロとナミダがにじんできそうな、イイ声だなあとおもって、
いま、しばしボーゼンとしているところ)
(今日の日曜日は早めにおきてせんたくをすませて、
めしをくい、まずキーボードでコーラをのんで一回、
そして夕方サブマリンでビールをのんで一回、つごう二回、
ライブクリームⅡBめをでかい音できいた。
よっぽど買おうかと思ったけど、クランプトンのギターインプロは、
いまとなっては、いっこうに古めかしい。だめだ。)
(四月下旬から五月上旬にかけてはキャベツがいちばんやわらかくて
おいしい季節あのだ。今日は一日中キャベツばっかしくってた。)
いまの、くるしみの中からこそ、新しい生命はうまれる----と
グレッグレイクの詩はあくまでカッコいいし、
また、それは、すごくほんとうだと思う。
ほんとうだと思うよ。
なにも心配することはない。
知っている人もかなりいると思うけど、
十九世紀末のフランスにランボーという大変な詩人がいて、
そいつは、十七、八才のころ、パリコミューンの影響をうけて
ちょうどロバートプラントのシャウトみたいな感じの詩を書き、
しかし、オトナになるにつれ、いたたまれなくなってアフリカへ逃げた。
二十世紀末、ひとつ。
いたたまれなかろうがなんだろうが、ここ、を、動かぬこと。
「ここ」で、すでに、なにかがはじまっているのだから。
ふたつ。アフリカも、黒人のブルースも、
すでにぼくらには一種のギマンであること。
つまりぼくらはいまや、まったく新しい、
すなわち「自覚的な」そして「当然な」コミュニケーションの次元
にいること。
「世界がはがれおちる」とは、
実体的な思考実体的な認識感覚から解放されてゆくことだ。
肥大し、世界を占領した幻想をまえに、実体が萎縮し無意味化してゆくことだ。
キースエマーソンは、いまや、意識的にそれをやろうとしているのだ。
そして、ぼくらの特徴として、やろうと思ったことは、
次の瞬間には、完全に成功している。
幻想は、世界を占領している。
レッドゼッペリンは、まだ、完全に「意識的にやっている」というほどではない。
その証拠に、といってはおかしいかもしれないが、
彼等は、「本当は自分たちはカントリーがやりたい」といっているそうではないか。
「本当はカントリーをやりたい」やつらが、
状況的に、すなわち意識の状況としては
とてもじゃないがそんなことはやっておれず、
また、やっておれないからこそ、
それにあこがれてやまない、というありかたは、
歴史の、ある決定的な変節点に特有の現象である。
レッドゼッペリンとはそういう過渡的を記念する偉大なグループなのだ。
彼等は、意識の、時代的な状況というものに忠実であった。
「カントリーをやりたい者」が、実際に「カントリーめいたことをやる」ことの、
とんでもない欺瞞性を彼等は完全にまぬがれているのである。
ザ・バンドは偽善家である。
ひとが、実体的な思考にしばられているかぎりは、
人間同志が本当に仲良くなることはぜったいにあり得ない。
ロックはなぜ巨大な音でなけりゃならないのか。
また、なぜ、巨大な音であるがゆえに、
なぜ、ああまでもキラわれ、ニクまれるのか。
それは、実体的な思考を、そのとき、
暴力的に切断するがためであり、
また、その切断のずうずうしさが、
旧人、すなわち実体的な思考のワク内にいる人には、
とおざけたくてやまない対象であるのだ。
幻想の中にいること。
シラケた、すなわち普遍的な、主観性の中にいること。
認識論のマリファナ。
ピンクフロイドは、実体に対する主観の主張ならびに拡大である。
エマーソンレイクアンドパーマーは、実体の慣性に対する主観の自由行動である。
前者は存在論的であり後者は人間論的である。
続く。