坐忘日記

このコラムは、僕が日々の出来事のなかで、何か変だぞ、と感じたことを
縦横無尽に書き殴ります。

臓器移植法案に思う

2009-06-23 13:21:26 | Weblog
脳死は人の死とするA案が衆議院で賛成263、反対167、棄権(投票せず)47、という結果で可決した。僕自身は臓器移植自体に違和感を覚えているので「臓器提供をしない」旨のカードを所持している。

医療とは人を生かす所作に他ならない。だから、「人の死を期待する」移植医療には反対の立場である。ただし、生体肝移植や生体腎臓移植などに類する人の「死を期待しない」移植医療には賛成である。

脳死が人の死であるということは科学的に検証されており、そのこと自体を理解できないわけではない。ただ、僕は自分自身の連れ合いや子供達が脳死として亡くなったときに直ぐに臓器提供に向かえるような気丈さは持ち得ていない。

母が亡くなったとき僕は31歳だったが、葬儀を済ませ、火葬に付した後でもいつものようにマンションのドアを開けて帰ってくる母の幻を見た。



産経新聞によると今国会で採決の直前に河野太郎衆議院議員が衆議院本会議場で「A案支持者と、投票先を決めかねている方へのお願い」と題した文書を配った。その内容は「A案はWHO(世界保険機構)が推進する法案です」「かならず、A案に投票してください。仮にA案が否決された場合、その後の投票は棄権せず、反対票を必ず投じてください」と強く迫っていたらしい。



よく臓器移植に関して脳死が論議されるとき「先進国では当たり前」という医師や有識者医療関係者などがいる。何かと言えば先進国では、欧米ではという輩を僕は信じていない。日本人は日本人の死生観を持っていればいいのであり、ことさら先進国や欧米の考え方に沿う必要はない。



海外で移植を受ける人を批判する気もない。



どこまでいっても家族の死は家族自身が決めればいいことで移植医療のために「脳死を人の死」と国会で採決するなどもってのほかだ。



脳死を人の死と認める人も認めない人も両方あって良いのだ。



参議院を通過すれば、これからはドナーカードさえ持つ必要がなくなる。「脳死が人の死」となり生きている家族の同意だけで移植のドナーと成り得るからだ。



本当にそれで良いのか。



脳死状態になったら、これからは人の死だから、直ぐに移植コーディネーターが脳死状態だが、まだその死を受け入れられない家族に向かって「ドナー提供して頂けませんか」「○○さんの心臓だけでもどこかで生き続けるのですよ」などと声掛けをするのだろう。そして断れば、助かる人がいるのにみすみすそれを無視するのかというような批判が出てきたり眼差しで見たりされるのが空恐ろしい。



何度でも言う。僕は人の死を期待する移植医療には反対です。



人の死はその家族によって様々な形があっていいのだ。



「脳死を人の死」と科学的には分かっていても、どうすることもできないのが身内の死を目の当たりにしたときの家族です。そして、それはおかしなことではないし、社会的に指弾されることでもありません。



本当に国会議員の皆さんは自分自身のこととして考えているのでしょうか。

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