坐忘日記

このコラムは、僕が日々の出来事のなかで、何か変だぞ、と感じたことを
縦横無尽に書き殴ります。

オーマイニュース、「この記事にひと言」欄の問題はやはり記事の問題か?

2006-10-24 18:04:40 | Weblog
なぜ市民記者からの意見が少ない?

いま、オーマイニュースの「この記事にひと言」欄のご意見募集で、様々な意見が出てきている。しかし、市民記者の書き込みが異様に少ないことに疑問を感じている記者として一言述べておきたい。

「この記事にひと言」欄はこのままでよい、というのが僕の意見である。

最初に言いたいのは「この記事にひと言」欄の問題は「この記事にひと言」欄だけの問題ではなく、本質的にアップされている「記事」自体の問題じゃないのか、ということだ。この意見募集が始まったときから、そう感じている。これは僕だけが感じていることなのだろうか。そのことも皆さんに聞いてみたかった。

編集部が意見募集を始めようと思った原因の数々が書き連ねてある。

「記事の内容とは関係のない書き込みを何とかしてほしい」「誹謗中傷がひどすぎる。これでは議論にならない」との声が寄せられていると書かれている。

しかし、全ての記事に目を通しているわけではないが、そんな書き込みは少ないし、そんなに酷いものにはお目にかかっていない。どちらかというと記者から的を射た反論が少ないからそう見えるのかも知れないが、記者の方がエキセントリックになっているのではないか。というか、批判や誹謗は、記事としてアップされたものの内容自体が、その原因であり、結果として批判や誹謗がある。多く見受けるのは記者の勉強不足を批判するものだ。これは記事を書いたのなら甘んじて受けるべきだ。

「ほかのサイトのURLを貼るのはいかがなものか」という意見も書かれてある。これもおかしな話で、貼っていて何ら問題はない。関連して見た方がよいものが貼ってあるだけだ。どちらかというと、リンクしていないから不便を感じている。また、その書き手がどこかの団体の代表であったりする場合は、そのリンク先でどういう人物かが分かるので、記事を読むときに良識のバイアスを掛けて読むことができる。

「『ひと言』欄を読むのが怖い。もう記事を書きたくない」、そして「このような誹謗中傷を書き込まれるなら、市民記者を辞めたい」に関しては、どうしてこうした市民記者の言い分を斟酌しないといけないのかが分からない。

編集部は「それならお辞めください」と、毅然とした態度で一刀両断にすべきだ。そんなことを言ってくる市民記者には実名をさらして記事を書くということをもっと真摯に考えてもらいたい。と同時に、自分が書いた記事が広く一般に読まれる場所へアップされるということは、ネットとはいえ「責任」と「義務」が生じることを自覚すべきだ。

あまり安易に考えすぎていないか。ブログもあるのだから、そんな人はブログで書けばいい。

「記事を削除してほしい」に至っては、いい加減にして欲しい。

オーマイニュースに記事を送った段階で、編集権はオーマイニュース側にある。後で記事削除を願い出るぐらいなら送稿しないほうがよい。

こういう記事でこうした批判があったという事実を消すのは、大手新聞社が大誤報をして縮刷版でその誤報を削除して出すようなものだ。

これまでに北欧の記事などで記事削除があったが、記者本人の申し出があっても編集部として記事削除はすべきではない、と僕は考える。安易に記事を送稿し安易に載せ、批判を受けたら安易に削除するでは、サイトとしての責任感と信頼性が問われることになる。

オピニオン会員の実名表記には反対である。

僕は記者だが、自分の記事のコメント欄に書くときに「クルアーンこと田村圭司です」と断るのが面倒臭いのでコメント欄も実名にした。オピニオン会員で、もし実名にしたい人がいればされれば良いし、そうでなければしなくてもいい。それより情けないのが、そうした意見がオピニオン会員から出てくるのではなく、批判や応援、誹謗の対象になっている記者の側から出てくること自体、理解できない。

正直、今の日本社会で、特にサラリーマンをしていて実名をさらして批判のコメントは書けない。自社あるは自業界に関する記事で事実誤認やもっとつっこんだ事実があったとしても誰が見ているかわからないサイトで実名で指摘はしにくい。ある種、内部告発者を守るのと似ているのではないか。記者は正当な理由があれば現在でもペンネームを使える。オピニオン会員の場合、一端、編集部が引き受けて、ペンネームの使用を許諾することは事実上無理だと思う。

それよりはオピニオン会員が自由に発言できる今の状態が一番だ。

もしオピニオン会員を実名にしてしまったら、オピニオン会員が徹底的に批判したい記事はコピペされ2ちゃんねるにさらされて、その場で批判の嵐に遭うだけだ。

自サイトに編集部が責任を持ってアップしたものは、その場で批判にさらされるべきであり、そのためにもオピニオン会員の実名には反対だ。他所の場所で炎上しても自サイトには関係ないから「よし」としようというような考えは、サイト自身の信頼性を落とすだけである。

最終的に自分のけつは自分で拭きたい、と思っている。

日本のオーマイニュースは韓国のオーマイニュースとは違う。独自の展開と発展を心から祈っている。

※このブログ記事はオーマイニュースにも載っています。

卑しい人間になるな!

2006-10-07 10:18:40 | Weblog
 これは僕が主宰しているマスコミ適塾「ペンの森 大阪」の塾生やOBOGに宛てたメッセージです。

 世の中は利害関係だけで動いているのではない。

 ある個人が何かの目的を達成するために動いたとしましょう。これは自分の利を求めて動いているわけです。その利を求めるために様々な側面で様々な個人から援助を受け、その「利」を手に入れた途端、そうした援助を受けたことは過去のこととして忘れてしまう。

 そして、新たなその人にとっての「利」を求める。以前の関係性では次の「利」は求められませんから、関係性を極力絶つようにします。そして新たな「利」の地平で動き回る。

 これも一つの生き方です。その生き方に対する善悪はありません。ただ、人生を全うしていくなかで、そうした生き方は「卑しい」のひと言で片付けることができます。そこに金品が介在しているかどうかは、さして問題ではありません。新聞記者や編集者などマスコミを自分の人生の舞台として選んだ人は、この「卑しい」人間にだけはなってはいけません。だからこそ「志」と「謙虚さ」が重要なのです。

 社会学では「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」を学びます。

 「ペンの森 大阪」はお金を取る私塾ではありますが、決して「ゲゼルシャフト」ではありません。最終的な内定を手にするまで苦楽を共にしていく過程で「ゲマインシャフト」として形成されていく集団です。そこには精神的な連帯が必要なのです。

 内定した人は、まだしていない人を親兄弟以上の慈しみを以て接する。内定していない人も、した人に遠慮なく甘える。そうした一種、家族のような関係性があるからこそ、これだけの内定率を勝ち取れるのです。

 塾生、OBOGの皆さん、そこのところを肝に銘じてください。新聞記者になった暁にも塾生同志が切磋琢磨し、しんどいときは助け合い、楽しいときは共に喜ぶ。違う会社に入ろうとも塾生だった者同志、いつまでも共に笑い、涙し、怒り、憤り、喜び合う。そして、最終的には、自分が生まれ育った日本をより良いものにしていくために、みんなが力を合わせる。そのための一里塚が「ペンの森 大阪」なのです。

 忘れないでください。お願いします。