最初の写真は龍安寺の鏡容池。
それ以外の写真は、フォトチャネルを作って写真を貼り付けてみた。嵐電の写真の前が龍安寺で、電車の写真の後は広隆寺。
京都駅から嵯峨野線(山陰本線)太秦まで行き、嵐電に乗り換え一つ前の御室仁和寺でおりて、きぬかけの路を歩いて龍安寺へ。ここは枯山水と池泉回遊式庭園であまりに有名。知足のつくばいは、黄門様の寄進によるとされており「われただ足を知る、吾唯足知」と読む。水溜部分の四角を「口」の部首として知足の心をデザインしてある。「足るを知る」って、子供の頃によく母に言われていたなぁと思い出した。
足るを知る、自分は幸運なのだ・幸せなのだって噛み締めてみるって大事なことよって意味だと思って育った。たとえそえが「あのおもちゃも欲しいんだけどな〜」が叶えられなくて、「そのおもちゃがあるじゃない」と窘められた後に、現状を受け入れよといわれているような低レベルな文脈で使わただけだったとしても(苦笑)。大人になって、いとこととの会話で「kebaのうちにはおもちゃも本もなんでもたくさんあって、遊びに行くのをみんな楽しみにしてたよ」って言われて、足るを知らない子供のあたしは悟りとは程遠い存在だったと改めて思い知らされた。
というような恥ずかしい話はさておき、ここからは嵐電の龍安寺駅まであるいて、帷子の辻で折り返して広隆寺へ。
広隆寺は、国宝の弥勒菩薩半跏思惟像のある霊宝殿内部の写真撮影は禁止。保存のためにかなり照明が落としてあるので、明るい秋晴れの外から入ると目が慣れるまで時間が必要。見学者が10名いないような静かな空間で、国宝第一号の半跏思惟像と飛鳥時代から鎌倉時代の貴重な仏像の皆様とゆっくりご対面。豊かな時間だった。
続きはまた後日
日常をありがたいと思って暮らす、それができればきっと穏やかな毎日になると思うのですが、ついつい自分の予定通りにならないと苛立ってしまう自分がいます。
今回この旅行を考えついたのは、コロナで仕事が蒸発してしまったかのように消えて、日常があっさりと奪われた時に、支える風でもなく支えてくれた主人にお礼がしたいと思ったことがきっかけでした。
なので、この蹲をみて、当たり前のことをありがたく思えることができる人になれってあれほど口をすっぱくしていったのに、とあちらから母に叱られてるような気がしたのでした。母に連れて行かれた龍安寺だったのかもしれません。
広隆寺の弥勒菩薩のアルカイックスマイルを居たいだけいて見つめていられたのは、本当にラッキーでした。
賑やかな外国人観光客も修学旅行生も居ない秋の京都、京都の方からすれば今年で最後にして欲しいとお思いでしょうが、観光客にとっては夢のようでした。
名のある古刹がこの人出なら嬉しいですね。
これこそ本来の京都ですね。
龍安寺の名高いつくばいは 水戸黄門様のご寄進でしたか。
恥ずかしながら私は今まで 書かれている「吾唯足知」は
銭形平次の投げる 銭の文字もこれと思っていました。
当たり前と思い ありがたいと思ってもいない日常が
ある日突然 なんらかの理由で送れなくなったとき
きっと私は反省や後悔があるでしょう。
吾唯足知 今の生活のありがたさを私は
今一度噛みしめなくては。
広隆寺の やさしいお顔の弥勒菩薩像は書物や映像で
見ただけで 本物は見たことがないです。昔の教科書にも載っていました。
見学者が10人足らずとは これも良かったです。
再び海外からの観光客が来るようになったら
どのお寺でも 静かに鑑賞する時間が持てませんもの
こんな京都旅いいなぁ。