人権意識の高まりにつれ
現在、犯罪を報道する場合、新聞も警察も最大限に被疑者の人権に配慮している。しかし、私が新聞記者になった40数年前は、今では信じられないような紙面が家庭や会社に届けられていた。例えば1969年3月、水戸市で起きた主婦殺人事件の場合、社会面の本記を受けて私が書いた原稿をもとに制作された茨城版の紙面はこうだ。
ヨモギ取り…無残 水戸の主婦殺し(横見出し)
働きものだったのに
鬼畜の犯行 怒り渦巻く(縦見出し二本で計五段)
容疑者「○×」は否認(縦見出し二段)
県版のスペースを大きく使い、最大級の取り扱いだ。おまけに取調室から連れ出され、留置場に入れられる直前の「○×」(記事は被疑者名を呼び捨て)の写真を正面から撮影した写真を三段で扱っている。被疑者の手には両手錠がはっきりと映り、被害者の主婦の顔写真も掲載している。どの新聞も、同じような内容だった。こんな紙面が現在、社会で通用するだろうか。当時は違和感がなくても、現代に通用するはずがない。
旧刑事訴訟法の影響が残り、自白偏重の捜査の在り方が問題化し、冤罪や凶悪犯罪の無罪判決が各地で相次いだ。警察と同じ視線で逮捕された人間を犯人と決めつけ、場合によっては極悪人扱いしてきた新聞などマスコミの責任はどうなるのか。
「犯罪報道による犯罪報道」が厳しく指摘されたこともあり、新聞は犯罪報道の在り方を見直し、全面的に改めなければならなくなった。報道人の多くが、殺されたり傷付けられる被害者の人権はどうするのかと自問自答しながら、指摘を受け入れざるを得なかった。新聞人を目指す若者たちに、人権意識の高まりとともに報道の在り方も大きく変化してきたことを考えてほしい。犯罪報道は、まさに激動の時代だったと言っていい。
順不同になるが、被疑者が映った写真はどうするのか。被疑者として逮捕された段階ではあくまで被疑者であり、裁判で有罪が確定するまでは「推定無罪」と考えられている。従って顔がはっきりと分かる連行写真など掲載できないし、手錠をかけられ腰縄をつながれた姿なども論外である。警察も随分以前から連行、現場検証の立会いなど被疑者を人前にさらすときはシートで外界をさえぎり、被疑者の頭に覆いをかぶせるなど気を遣っている。
また、被疑者の名前も以前は犯人と決め付けるように呼び捨てにしていたが、裁判で有罪が確定もしていないのはおかしいと、今ではすべて名前の後に「容疑者」を付けている。逮捕される前に実名で報道されるのはあり得ない。以前もそうだったが、被疑者が少年の場合、逮捕されても実名はあり得ない。
さらに水戸の主婦殺人事件の記事のなかでも使われているが、被疑者の犯罪歴、前科が紙面に載ることはない。「鬼畜の犯行」の表現も同様だ。以前、凶悪な犯罪者をすぐ「殺人鬼」と呼んだが、それもあり得ない……
自分が書いた40数年前の殺人事件をめぐる記事を読み直し、容疑者、被疑者の人権について時代の大きな変化を感じざるを得ない。しかし、現代でもなお冤罪は後を絶たない。被疑者の人権を守るのは当然だが、われわれは殺され、傷付けられる被害者の人権、立場も忘れてはならない。(写真:ベトナム戦争で米軍が上陸し、本格的介入を始めたベトナム・ダナンの海岸。私の風景写真アルバムから)