知りたい宮島

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知りたい宮島 14 厳島合戦

2024年06月05日 09時28分36秒 | 貴方の知らない宮島
表参道商店街は最後に寄るとして、先に「貴賓通り」を抜けて、海岸通りに向います
すぐに、海岸通りを歩かないで、広島経済大学建物の前に行って見ると、目の前に「有の浦」そして
弥山の山々を望むことが出来ます。
山を良く見ると、まるで観音様が寝ている様に見えます。「観音様の寝姿」といっています。フェリーからも見ることが出来ます(なかなか気が付かれない人が多いようです)
フエリーからは、宮島を出発して2~3分したら良く見えます。 宮島口近くになると見る事は出来ません
有の浦の砂浜の綺麗なのに驚かれるでしょう、また「朱の大鳥居」を眼前に見ることが出来ます。
毎年8月11日には、ここで「花火大会」が開催されます、宮島の花火の主役は「水中花火」です
一箇所から15~16発の水中花火が上がる姿は圧巻です、また地響きもすごくて足元にビリビリ伝わってきます。

有の浦は別名「尼の洲」とも言われています、由来は1185年までさかのぼりますが、下関の壇ノ浦において、源平合戦が行われました。この時清盛の奥様「時子」は1181年に清盛が亡くなった時に
出家して「従二位」に叙せられたので「二位の尼」となっていました。

二位の尼は孫の「安徳天皇」を抱いて入水します、そのお二人の亡骸がこの有の浦に流れ着いたといわれている「浜」で、  尼の洲 とも呼ばれています。



二人の亡骸を見つけた、島民の人達が、現在の光明院の横にあった「神泉寺(しんせんじ)」に手厚く弔いました、しかし明治の神仏判然令により、「神泉寺」は取り壊しになり、現在二人の御霊は厳島神社本殿の裏にある「三翁神社」にお祀りされています。神泉寺は「時寺」とも言われておりました

「二位の尼木造」が神泉寺にありましたが、その後光明院に移り、現在は「歴史民俗資料館」に保管されています。昨年の12月までは展示してありました、30cm位の「木造」です。

以上「語り本系」ではその様に言われていますが、「読み物本系」の鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」においては、少し違います。

安徳天皇を抱いて「入水」したのは、「按察局(あぜちのつぼね)」で二位の尼は宝剣「雨の群雲の剣」を抱いて入水した、とあります。

当時天皇家は肉親を抱かない、お付に指示するのみである(宮廷の仕組みであった)
現在の天皇家においても、美智子妃殿下以前はこの様な慣例に従っていました。

娘徳子(後の建礼門院で安徳天皇の母)は傍で見ていただけとあります、建礼門院は後に京都の
「寂光院」にて余生をすごしています。

「語り本系」・・・・「覚一本」で平家物語など琵琶法師により全国に伝わったとされる
           人々によって、口から口へと面白可笑しく伝わった。

「読み物本系」・・・・「吾妻鏡」に代表される本

この壇ノ浦の戦いで生け捕られた平家一門は、平高清(六代)ら男38人(打ち首) 女43人
(女官は出家)となる。
女官は殺されることは無かったので、二位の尼も入水することは無かったので、と云う方もいます

なお「高清(六代)」は一時出家して許されるが、頼朝の「頭は剃っても、心は剃るまい」と云う
命令により殺された。

「壇ノ浦での戦いの模様について」
船は源氏方が3000艘、平氏方が1000艘とも言われ唐舟も少し混じっていたと言われています。
元暦2年(1185年)3月24日朝、長門の赤間が関、壇ノ浦で陣を合わせた。
間隔は3.58km、源氏の舟は潮に向かい押し返される、平氏の舟は潮に乗って進む、
この時平氏の阿波の国(徳島)の田口重能(しげよし)は子息の教能(のりよし)が生け捕られ、仕方が無いと思ったのか、「源氏」に寝返る。

「平氏」は身分のある者は「兵船」に乗せ、「唐船」には雑兵を乗せて、源氏が唐船に攻め入れば取り込めて討ち取る作戦であったが、この田口重能の寝返りにより目算が狂う。
源氏は大将軍が隠れ乗った「兵船」に攻め込んだ。
やがて、四国 九州 の兵も背き、天皇に弓を引き、主君に太刀を抜く、源平の国争いも今日かぎりと見えた。
当日は午前過ぎに西流れが最強となり、やがて東流れに反転、同11時過ぎに最強に再び反転して
午後5時過ぎに西流れが最強となった。

平氏は午前中から動き、当初東流れにのって優勢であったが、源氏はよく防戦。午後3時過ぎから逆転した西流れにのって反撃、平氏を壊滅した。
これは「玉葉」(九条兼実の日記)の「正午開戦、午後四時終結」と符号します。

有の浦は「厳島八景」のうちの一つでもあります。

正徳5年(1715年)光明院の第15代上人 恕信(じょしん)により発案され、風早参議公長卿
が中国の「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)」を元に厳島の景勝八箇所を選定する。
①厳島明燈 ②滝宮水蛍 ③大元桜花 ④境地秋月 ⑤谷原麋鹿 ⑥三笠の浜暮雪 ⑦有の浦客船
⑧弥山神烏
*正徳年間(1711-1715年)恕信は、岩清水八幡の神職・柏亭直條、風早参議公長卿、
冷泉中納言為綱卿らに、依頼して「厳島八景」を選定する。
後の元文4年(1739年)上・中・下 の三巻の書冊を発行した。(24年後になる)。


上卿雁木(階段の事です)があります。
どれが「上卿雁木」か解りますか?気が付く人はいないと思いますよ、昨年の暮れに砂を除去して、7段まで見えるようになっていましたが、現在は、また砂が押し寄せてきて「2段」しか見ることが出来ません

上卿とは・・・・勅使の代行を言い、棚守・祝師(ものもうし)などと共に厳島神社を司る主要な神職の
        一人である

明治維新前までは、厳島神社で最も重要な祭り事の「御鎮座祭」に際し、安芸の国府中(現在の府中町)
から、勅使(奉幣使ほうべいし)、勅使代行を務める、「上卿」が来島する時にここから上陸していた。

御鎮座祭・・・・12月初申日に行われる、市杵島姫の命が神烏(おがらす)と共に降臨され、御鎮座地        を探がされるにあたり、この地を治める「佐伯鞍職(さえきくらもと)」に神勅が下っ
        た。

源氏と平氏の戦いを少し書いたので、ここからは「厳島合戦」について少し触れておきます
まず最初は、簡単に総括をして、その後詳細をお知らせします。

毛利元就、厳島合戦までの経過とその後
大永3年(1523年)8月28日、若冠28歳の元就が「郡山城」に入城し、大江広元以来の本家を
相続してのち、某将ー元就の前半生は厳島合戦の準備時代と言っても過言ではない。
そのうち尼子氏に服属していた時代、「尼子家中興の英雄と言われた経久」が、元就の駿将
ぶりに恐れをなし、再三にわたり彼を呼び出して討ち果たんとした心底にアイソをつかし、
かつまた、毛利本家相続の時、元就の相続を妨害して異母弟の相合元網をたてんとした野心
に立腹し、大内義興の遺言を含んだ陶興房(晴賢)の勧誘に従い、大内家に長男ー隆元を
人質として送り、大内庇護のした安芸・備後の地を統率して安定を計る。
これに怒った尼子軍は天文9年(1540年)9月、大挙して吉田「群山」城下に押し寄せてきた時
大内軍の救援大将として派遣されてきた「陶晴賢」の勇猛ぶりに感心したものの、2年後の
天文11年(1542年)、大内軍が尼子征伐の雲州遠征にさいしては、晴賢が思慮分別の無い
猪突猛進型の武者であることを知り、他日 「厳島合戦に対する重要な参考資料となった」
そして晴賢がその主「大内義隆」を殺して防長豊筑にわたる「将」となるや、なかなか態度を決
めずして時間を稼ぎをして、「晴賢」の名を逆利用して着々、備後両国を制圧し、自分の勢力下に
に置く事を忘れなかった。
天文23年(1555年)3月、晴賢が津和野三本松城の吉見正頼征伐の軍をおこすや、
「戦機まさにこの時」とばかりに、吉見氏と密かに連絡を取り、芸州の各地に討って出て、陶軍の
警備兵をせん滅し、厳島に「おとりの城」を築き、最大限の謀略を駆使して陶軍を招く。
この時、思慮分別のある大将であれば、三万の大軍を、「狭く小さな厳島」に渡海さすことなく、
まず、全軍を三つに分けて1万を渡島させて、厳島城を攻め、他の1万を海田湾に上陸させて、
群山城に向かわせる、くらいの作戦に出て、自ら1万騎を率いて「桜尾本城」を攻めたなら、
元就がいかに智謀にたけた将とはいえ、僅か4千に足りない兵を三分割して戦わざるを得なくなり
対陶作戦は大狂いとなる事は必定であった。
しかも全軍が厳島に渡って後も、のうのうと日を送り、絶好の「総攻撃」の好機を逃し、
全毛利軍に上陸のチャンスを与え、僅か半日のうちに3万の大軍も壊滅することとなった。
陶晴賢の没後、時を移さず毛利軍の防長侵入戦となったが、元就は巧みに大内家内部の深部を
抑え、晴賢が主君を殺した大逆の罪を背負わせて殺した。
重臣「杉重矩の遺児、杉十郎重輔。同彦七」のもとに密使を送り、内部から同士討ちを計り、
陶家の居城「若山城」を陥落させ、投降してくる大内家の武将達を味方の陣営に加え、わずか
2年3か月にして「防長」を完全に掃討してしまった。
その精密な作戦は、「元就の智謀からでたもの」と言える。
厳島合戦
厳島合戦は、毛利元就と陶隆房(陶晴賢の事)との戦いを言う
陶は大内義隆の家来(家老)であったが、陶が主君大内義隆への反逆を志すに至ったのは
以下のとおりである

① 天文12年(1543年)5月義隆が雲州遠征に敗れて山口に帰還した後のことである。
この敗戦で義隆は養子の「義房」を失い、それまでまがりなりにも父義興の遺命を受けて
軍事に専念してきた義隆がまったく武事を顧みなくなったからである。
一方、陶隆房は武人の心を失わぬ大内氏重臣の随一であった。
(陶氏は大内氏の分家である。大内氏九世の祖である「盛房」の弟「盛長」が周防右田壮を領して
 石田氏を称したが、「陶」氏はその右田氏から分家している。 室町時代の初めに盛長の曽孫「弘賢」
 が周防陶(吉敷郡)を領して分家し陶氏を名乗った。これが「陶氏」の始まりである。
 陶弘政(弘賢の子供)の子「弘長」は応永8年(1401年)長門守護代となり、弘長の孫「盛政」は
 永享4年(1432年)周防守護代となった。まさに大内家随一の重臣である)

陶隆房(晴賢)が陶家を相続したのは弱冠19歳であった。しかし
翌年天文9年の吉田郡山合戦では、この陶隆房は大内軍1万を率いて吉田に出陣し、天子詮久
(晴久)の軍を撃退している。天文11年正月から始まる大内義隆の出雲遠征に積極的な出陣意見
を主張したのも、この「隆房」である。
陶隆房の積極的な意見に対し、消極的な意見を唱えたのが、文治派の「相良武任」「冷泉判官隆豊」
たちであった。
文治派
「相良武任」・・・外様の一介の祐筆に過ぎなかったが、文庫好みの義隆によってたちまち
    政治・軍事の中枢に座ることになる。
武断派
これは武断派である大内家の一族・しんだいの重臣たちにとっては、はなはだ面白くないことであった。
だから隆房と共に戦場で生命を的に戦ってきた武臣たちはこの「相良武任」の存在に悪感情をつのらせ
やがて、この感情が主君「義隆」への悪感情となって転化していく
三大家老 ①陶隆房 ②内藤興盛 ③杉重矩(しげのり)
 陶隆房は、吉川元春と義兄弟の約束をしている
 内藤興盛の娘は義隆の養女になりその後、毛利隆元の妻となる
 内藤興盛 杉重矩、共に昔から両家は公方から直の御家人と同じ様に
 「笠袋鞍覆」を免し(ゆるし)下されていた。

前述の様に、結果は惨憺たる「敗戦」であった。しかも義隆はこの遠征で敗走中に、
出雲の揖屋浦で養子「晴持(義房)」を失っているが、
晴持(義房)」・・・・土佐一条家に嫁いだ義隆の「姉」の子で、実子の無い義隆がこれを養子として
迎え入れたものであり、若干20歳であった。義隆はこの晴持をことのほか可愛がり、片時も自分の側
から離さなかったという。

晴持(義房)の死、も尋常ではなく「溺死」であった。戦場での死ではなかった。
揖屋浦から小舟に乗り損ねた雑兵どもが海に入って泳ぎだし、船縁にすがった為にとうとう船が
転覆してしまったのである。
甲冑を身にまとっていた「晴持」は泳ぐことが出来ず、そのまま海底の藻屑と消えたという訳だ。

山口遠征の失敗により、大内義隆はこれまでの、「尼子討伐積極策」を放棄して守勢に転じた。
宿敵であった、「尼子」「大友義鎮(よししげ)」の両氏とは和議を結び戦いを避けた。
大内義隆は築山館のある山口で、念願であった小京都づくりに本腰を入れ、明国にも積極的に
勘合船を送り出した。
これは戦国大名として着実に勢力を拡大しようとする「毛利氏」とは対称的な対策である。
 
義隆の中央志向や芸能尊重は大内家から朝廷への「献金」「勅使の接待」
「公家の山口下向歓迎」の費用となって表れ、それが「年貢」「断銭の増徴」「臨時の課訳」として
人民の肩に重くのしかかっていた。


陶隆房があらかさまに武力行使によって山口の町を騒がそうとしたのは、天文19年(1550年)9月
になってからである。
7日からは大内義隆は、毎日犬追物・笠縣・丸物等の遊戯を催し、13日には香積寺で終夜酒宴を
催し、更に15日には今八幡と三ノ宮で管弦の会が催される予定であった。
それほどまでに義隆は遊興にうつつをぬかし、時局の認識が全くなかったのである。

陶隆房は「是こそ願う所の時節なれど、犇々(ひしひし)と思ひ立ち、忍び忍びに軍勢を催し集め
相良武任が館へ夜討ちすべし」
と陰謀を決意し、「暮るる日遅し」と待ち構えていた。
しかし、当初 隆房は「義隆」殺害までは考えていなかった。義隆を隠居させた後に、その養子
「義尊」を擁立することで、政権を「武断派」の意のままに操縦できると考えていたようだ。
(この事は隆房が毛利家の隆元・元就・元春に対して援助を依頼した天文19年8月24日付の
 「吉川家文書」によってもあきらかだ。)
秘中の策として、大内義隆を亡き者にした後は、大友義鎮(よししげ)の弟「八郎晴英」
を主君として迎える事が隆房の秘策であった。
「八郎晴英」・・・母は義隆の姉
それが義隆父子諸共に殺害と決まったのは、家臣達との評議の結果だ。
この評議に加わった者は、野上平兵衛房忠・江良丹後房栄・伊香賀市次郎房明。達である。

天文20年(1551年)隆房は山口討ち入りの日を8月28日と決める。
しかし、義隆は、この儀に及んでもまだ、杉 内藤の両氏は裏切ることはあるまい、と まさに
「平和志向文化人義隆」の優柔不断が戦機を失わせ、ひたすら滅亡の坂を転がり落ちて行く。
家臣13名と共に、深川の大寧寺を左に見ながら、
仙崎港にたどり着き、ここから海を航して石見に逃れ、三本松城の吉見正頼を頼ろうとした。
(吉見正頼は義隆の義兄であり、先に家臣の相良武任をにがして、ここに拠らせていたから)
ところが、小舟に乗って2~3里漕ぎ出した時北風がにわかに起こり、波浪が高く
櫓もままならず、仕方なく「大寧寺」に引き返すのである。
その後、大寧寺にて自刃する


折敷畑の戦い(おしきばたのたたかい)
日本の戦国時代(1493-1573の80年間)に行われた合戦のうちのひとつ。
明石口の戦い(あかしぐち)とも呼ばれる。天文23年(1554年)に陶晴賢(派遣部将は宮川房長)と
毛利元就との間に行われた戦いである。厳島の戦いの前哨戦として扱う場合もある。

1551年 大内義隆(31代城主)が陶晴賢に討たれる(自刃)(大寧寺の変(だいねいじ) 
元就の長男、隆元は
大内義隆を岳父としていた為、「逆賊・晴賢討つべし」、 との意見を持っていた
隆元の妻(内藤興盛おきもり・・・長門国の守護大名、の娘)は大内義隆の養女になり、
その後 隆元の妻になる
この時の元就を取り巻く状況は以下の通りであった。
(大内氏は九州北部から中国地方全域にかけて絶大な影響力を持っていた大名で
(大内家は1152年から1551までの約400年間に亘り支配していた)
元就は陶と同盟を維持しながら、大内からの独立を狙っていた。
この様な大内家の内紛につけ込み、尼子晴久が兵を動かした為、対応をせざるを得ず
陶を攻める事は不可能であった

1553年 石見津和野、三本松城主・吉見正頼(大内義隆の姉婿)が陶晴賢に反乱する。ここで、
陶晴賢は「元就」に参戦を促がした。
しかし、元就は「吉見正頼」からも救援を求められていた、決める事が出来ずにいると
* 吉見広頼(ひろより)に嫁いだのが、輝元の妹(尾崎の局)。広頼の父が正頼である
陶晴賢は安芸の国人衆を調略して、毛利からの離反を計ってきた。
この事が毛利に露見し、「元就」は陶と対決する事を決める



1554年 5月11日  陶の諸城をわずか1日で攻略(銀山城・草津城・己斐城・桜尾城)
5月15日  周防にに侵入、玖珂郡小瀬と御庄で「陶軍」撃破
6月5日   陶晴賢は宮川甲斐守房長に兵3000名を与えて先行させ、途中で
 甲田丹後守や山代一揆・里山一揆・大田一揆・反毛利 4000名を合流させ
 桜尾城へ向かう、その途中折敷畑に布陣する、これを知った元就は
 6月4日の夜陰に兵3000名を連れて桜井城を出陣する
この時の布陣は ①元就・隆元父子は正面から毛利軍の主力をひきいて攻める
    ②吉川元春は右翼から、宍戸隆家、福原貞利は別動隊で元春の後塵を受け持つ
    ③小早川隆景左翼から、進行し一気に宮川甲斐守房長の軍を攻め落とす
    この時宮川軍は750人が討ち取られる(毛利軍は70人の死者)宮川甲斐守死亡日

折敷畑の合戦
後に、この合戦は厳島合戦の前哨戦とも言うべきもので、元就は数々の謀略をめぐらせた。一つに
桜尾城の桂元澄は陶晴賢に密使を送り、陶晴賢に味方する旨のことを伝え、戦略として
厳島に進行することを勧め、厳島落城後に桜尾城を打ち出て陶の本陣に合流すると進言し
陶方に7枚の起誓を書いて出した(桂元澄)

     (大板貢の岡)
吉川元春は夜南原に登って 宮川甲斐守 小早川隆景は海辺を通り
折敷畑の背面から攻める 3000余 尾根の南を廻り高砂より進軍した
(右より攻める) 7000余 (左より攻める)

右翼別動隊として 折敷畑山・者尾(はお)両所に陣する
宍戸隆家、福原貞年
元春の後塵となり攻める
正面からは、元就・隆元は本通り(長尾通り)
より進む 3500余名 1554年9月15日



6月7日   元就は「宮内の五十貫の地」を戦勝に祝いとして厳島神社に寄進している
五十貫の地の広さは、11ha(33300坪)になる

★ 宮川甲斐守の兵は農兵などの寄せ集め軍団で、毛利軍は精鋭部隊で固めていた
★ 元就軍が出発しようとした時、厳島神社の棚守房顕の使者「石田六郎左衛門」が来て
  「御供米と巻数(かんじゅう)」を元就に献じた。元就は大いに喜び
  「厳島神社の加護により今日の戦いは必ず勝てる」と将兵を激励する(陰徳太平記)
  巻数(かんじゅう)・・・・米穀や金品と一緒に寄進される場合が多く、寺や僧侶・行者がど読誦した
   経典の数を記録した文書を言う
★ 宮川甲斐守房長は陶晴賢より拝領した「瑤池(ようじ)」と号する駿馬に打ち乗り
   山里を3里逃げてそこで「末田新右衛門」に打たれたとあり、末田新右衛門はその
   「首」を太刀の先に貫いて夜半に帰ってきたと述べているから、宮川甲斐守の敗死は
   津田・浅原あたりとも推測されている。(1554年6月5日宮川甲斐の守の死亡日)

宮川甲斐守房長について
京都に船岡合戦(永正8年大内義興の戦い)以来、度々大内家で功名を表した人(16歳の時),
船岡合戦で手柄を立て、室町幕府第10代将軍足利義稙(よしたね)からその戦功を誉められ
感状(かんじょう、戦功を称える賞状)及び、太刀を賜る、
将軍からこの様な事を受けるのは異例中の異例で一躍有名になった.
折敷畑の合戦は天文23年(1554)6月5日、元就は57歳、陶晴賢は33歳、宮川甲斐守房長は59歳,
この合戦に元就は勝って、厳島合戦の前哨戦とも言える、折敷畑の合戦に勝利した事は
毛利氏にとって大きな意義があった。(宮川軍は3000名)宮川甲斐守房長の死亡は諸説あるが、
折敷畑の合戦で、山麓の明石で討ち死にした、宮川甲斐守切腹岩(市史跡)が佐伯町にあり



山代一揆
国人と呼ばれた「武士達の連合体」の名称で、江戸時代の「百姓一揆」とは違う
毛利家ではその領地を①岩国 ②萩 ③長府の藩領に分けた
山代地方に置かれた「山代宰判」はその管轄が周防国玖珂郡29カ村の内14カ村に拡がり、
行政の中心の代官所所在地は「本郷村」にあった、芸州・国堺の要地には毛利の直接支配ではなく、
これらの地侍を通じての間接支配を以って臨んだことから、当時 人々は「山代一揆」と呼んだ

有事にまとまった兵力を提供する代わりに、領主に自治権を認めさせる、言うなれば
「合意による地方自治」を勝ち取る事に成功した「一揆」である

1555年
10月1日(早朝6時から14時には終わる) 厳島にて、毛利元就と陶晴賢の戦い(厳島合戦)があり一夜に
して、陶軍の敗戦となる、陶晴賢は自刃(高安ヶ原)、弘中隆兼父子は駒が林にて討ち死にする
この時の攻め方も折敷畑の戦いと同じで、三方から陶軍を攻略している(合言葉は、勝つ、勝つ)

要害山(宮ノ尾城跡)
標高27m、三方は海に囲まれ、周囲は約60度の急傾斜地である。
元就はこの場所に本陣を築いてのは最大の失敗であったと偽りの情報を流し続けた(スパイがいた為)
陶軍は囮の城とも知らず、今津から500隻の軍船に2万人の兵を乗せて多宝塔付近に陣地を設ける、
しかしここは毛利の本陣がよく見えないので、五重塔付近に本陣を設ける。
毛利軍は、石や巨木などを落下させ、又城壁が倒れそうになると兵士達の着物で紐を作り引き起こすなどし、
陶軍の攻撃から守り又翻弄した、毛利軍が陶軍の後方に回るまでの間の時間稼ぎの為、
全力を挙げて戦ったのである。

陶軍が囮の城を攻めあぐんでいる間、毛利軍は夜半暴風雨をついて宮島の裏側「包が浦」に上陸。
陶軍の後方陣地であった博打尾を襲撃し毛利軍の勝利となる。
夜明けの6時に総攻撃をかけ、昼の午後2時には終わっていた程の激しい戦いであった。
堀切を設け、西側に5郭、東側に10郭が構築されていた。「郭」とは囲いの事

10月5日  桜尾城で陶晴賢の首実検が行われる(洞雲寺に首塚がある)
なお、洞雲寺には桜尾城主で320年間居城した藤原氏(藤原親実・神主家)の墓もある
① 友田(藤原)興藤(逆修塔)
② 桂元澄の墓(毛利の重臣 家老) 嫡孫に桂太郎(第11・13・15代内閣総理大臣)がいる
③ 穂井田(毛利)元清の墓・・・・元就の四男

厳島合戦
弘治元年(1555年) 元就は宮尾城の築城を始める(決戦の前)、  500人(300人とも言う)の兵を置く
天文23年(1554年) 5月13日 陶軍の攻撃
7月7日  陶方白井越中守賢胤の攻撃あり・・・・落城せず
7月21日 陶晴賢は1200余隻に分譲して厳島に上陸・・・落城せず
この時 6~7挺だが鉄砲が使用された。
陶晴賢は大内義隆を弑逆した後、厳島ではそれまで村上衆が取っていた交通の警護料金の徴収を
禁止した
「弑逆(しぎゃく)  弑逆とは下士が上士を強制的に自刃に追い込むことを言う」
(陶晴賢は厳島を商業港として発展させる為、自由に諸国の商人や船を寄らせようとした、しかしこの事は
村上衆にとっては、不利益なことなので陶晴賢は村上衆の恨みを買ったと考えられている)

9月26日    村上の警護船200~300隻が廿日市沖に碇を下ろす、
(能島武慶 来島道康 村上宗勝とその一門が毛利方に見方する)
9月27日    これらの人々の働きによって、宮尾城と連絡が取れる

桂元澄は(桜尾城主)陶晴賢を厳島におびき出す謀略の中心であった。



陶晴賢
海からの 攻撃 厳島、 仁保島の 毛利の本城 陶の本陣に合流
宮尾城の落城 城を落城 吉田へ進行


桜尾城 草津の児玉就方を破って     
桂元澄


陶晴賢
陸からの 攻撃 大野より陸路で東進すれば、桜尾城との合戦 たとえ元澄が城を明け渡して
陶晴賢に見方しても、元就にとっては
となる たいして痛手にはならないだろう

だから是非厳島に渡って、もし毛利元就が厳島に出てくればこれを挟み撃ちにすれば良いと進言する、
陶晴賢は全面的に信じたわけではないので陶は桂元澄に「七枚の起誓文」を書かせた、
元澄は魂まで売って、毛利元就に忠誠を尽くした、と言う事

厳島合戦
1555年(弘治元年)9月末、  水軍力の力関係
陶晴賢軍 主力部隊は屋代島(山口県大島郡、宇賀島警固衆)
毛利元就軍 主力部隊は毛利元就が育った、川の内警護隊と小早川警護衆
因島(因島市)、能島(愛媛県越智郡宮窪町)、来島(今治市)、三島の水軍をどちらが抱き込むかが、カギであった。

9月21日 陶晴賢が厳島に上陸して、陣を構えた日
9月23日 毛利元就は宮尾城を立てなおす為に歴戦の重臣「熊谷信直」を同城に差し向ける。
宮尾城は総攻撃に向けた「おとりの城」として重要な役割を担っている為、絶対に落城させてはならなかった
9月26日 毛利は因島村上衆の支援は取り付けた、しかし残る二島の村上衆の態度はこの時点では不明であった。
9月27日 毛利元就は吉田を出発する
9月28日 「吉田物語」「温故私記」のよれば、元就は9月28日付けで厳島神社に願文を捧げた。毛利家の
「志道就良」が元就の使者となって2日後にせまる陶晴賢討伐の事を神社に奉告し、戦勝祈願したもの。
志道は、社人に変装して浄衣・烏帽子を着、雑魚を売る小舟に便乗して厳島に渡ったという。
おそらく志道は敵情視察も兼ねたと思われる。
社人は志道就良の帰ったあと願文を陶方にさしだした。陶は黙殺したが、弘中隆兼は、この願文によって
元就が近いうちに厳島渡海を画策していることを予感し晴賢に告げる、しかし晴賢は「冷笑」してこれを受け
止め、城攻めは1日後れの明後10月1日と定めた。この1日後れが「命取り」の結果をもたらす
10月1日の朝、毛利軍が博打尾を占領した時、そこに布陣しているはずの「弘中隆兼」軍が居なかったの
は恐らく、この日に予定されていた「宮尾城総攻撃」に備えて、有利な働きが出来るよう、陣地を下方まで
移動していたと思われる。(宮尾城を攻撃する場合、この博打尾からでは余りに後方で離れすぎている為)
来援が懸念された、能島・来島の両村上衆の警護船団の到着と、毛利元就の軍勢が地御前から包が浦
まで嵐をついて渡海を強行する29日までは、わずか1日しかなかった。
小早川の120隻に、村上水軍の200隻を加えた320隻の兵船を整えて、火立岩に陣を敷いた
9月30日 総攻撃の日である (火立山がありその麓)
新暦11月23日 陶晴賢は2万の大軍を率いて厳島に渡り、宮尾城の攻略にあたる。厳島の沿岸の平地は以外に狭く、
城攻めに参加できる人数は2000人位、新兵器の鉄砲も利用した。
来島・因島は毛利方。能島は陶方(参戦せず)
元就は軍令を発す、士卒すべて3日分の食料として「餅袋・焼餅袋・米袋各一つと棚用の木一本、
縄一筋を携帯させ「勝つか」といえば「勝つ、勝つ」の合言葉を定めて夜陰に乗じて出陣した

10月1日 30日は闇夜、しかも暴風気味の荒天となる、未明から宮島水道に多数の兵船が乗り出してくる(2000人)
新暦11月24日 これを見た「陶軍」は 勝った と思った(決して油断をしていたわけではない)
2万の大軍のところに4000人で上陸してくれば、撃滅出来ると思ったのは確実である
前方の海上に気を取られていた陶軍は大混乱に陥り、前方に遊弋(ゆうよく)していた、
小早川勢も上陸してきた、又 巧みな時間差攻撃となった。

未明、包が浦に上陸する
〇 一方、大野瀬戸を迂回して厳島の正面に向かった軍勢は。小早川隆景率いる沼田三原の警固衆と
厳島神社前から陸上部隊を上陸させるまでは「伊予の海賊衆」も同一行動をとる。
当日は、暴風雨で海上が荒れている為、それほど敵の眼を恐れる心配はなかった。
通常なら陶方・宇賀島の大将(宇賀島十郎左衛門)・大島水軍の配備は厳島の聖崎長浜のあたりから
南の洲屋浦辺りまで、くまなく兵船を配置し船首を廿日市方面に向けているが、9月晦日の夜は暴風雨で
海が荒れて警戒できない為、ほとんどの兵船は入り江に入って碇泊していた。
陶軍の主力水軍は、宇賀島・大浜・桑原・神代・沓屋・浅見、などの屋代島の警固衆
したがって小早川隆景率いる警固衆と島衆は300と言う大船団を組んで厳島神社の正面の大鳥居の所
まで押し寄せても一向に敵は気づくことはなかった。
〇 武家万代代記(三島海賊家軍日記)と万代記(厳島合戦記)を見ると。
三島海賊家日記によると、玖波からの強風により、櫓を使わずに舵ばかりで真夜中厳島に侵入した様が
書かれている。
厳島沖から見ると敵船は繋がり並んでまるで筏のようである、しかも船中の武者は酒に酔い、船に酔い
くたびれて寝転がっているのだからすぐに夜討ちをかけてたいと思ったと言っている。
厳島合戦記によると、
風邪が強くこのままでは乗り組みの武者達は船酔いで戦えなくなる、この様な大雨の中では敵も味方も
区別が出来なくなっている、いっそのこと敵船中を押しのけて、鳥居あたりに船を着けようと、真正面に
押し進んだ。しかし敵は数百隻も船橋をかけ、船筏を組んだように密集しているから中に割り込めない。
すると、乃美兵が一計を案じ「これは筑前国より加勢にきた宗像・秋月・千手の者にて候。陶氏に
お目通りする故、ここを開けたまえ」と大声で叫んだ。闇夜の事であるから陶の水夫もそれが敵の船団
だとは気が付かない。 しかし碇を上げれば船が陸に打ち上げられるから、碇はそのまま、船を少しづつ
寄せて通路を作った。すると小早川の船団はその間から船を鳥居前に押し入れ、徐々に船中の将兵を
社壇へ上陸させた。そして上陸部隊は夜の中に塔の丘の坂下まで詰めかけて、戦闘の熟するのを待った。
かくして、敵の船団の中には、何食わぬ顔で小早川警固衆の兵船が機をうかがい、沖の荒波の向こう
には、三島村上の海賊衆が虎視眈々と合戦の合図を待っていたのである。
〇 卯の刻(午前6時ころ)次第に明けてくる東の空の白さを背にして、元就は三度太鼓を叩かせ
四度目にその太鼓の拍子に合わせて、一斉に鬨の声を上げさせた。突撃命令である。
陶晴賢とその将兵にとっては、全く寝耳に水の出来事であった。今日に予定されていた「宮尾の城」
総攻撃を思い描きながら、勝利の夢に酔いしれていたのである。
その夜明けを襲われたので全軍なす術をしらず、この場合数の優勢さはかえって負の要素となった。
二万と言う大軍が身動きの出来ない程までに、この塔の丘に詰め掛けていたのである。
〇 一説によると、この時博打尾に陣を取っていた「弘中隆兼」は、不意を襲われてなす術もなく
陣容を立て直すために「陶」の本陣に合流したが、これが敵の来襲と見誤られ、かえって陶軍の混乱
を増大させた。
かくして、陶軍は総崩れとなり、大将・陶晴賢の𠮟声怒号も、兵は先を争って大元浦に逃れる。
ところが、その海岸線でもまた、思いがけない出来事が起こっていた。
陶の船団の中に奥深く入り込んでいた「小早川も兵船」が、これまた陸上部隊の攻撃に呼応して
一斉に「陶」の船団めがけて挑みかかったからである。
昨夜来の暴風雨で、碇を下ろし船団を密集させていたので、陶の水軍は身動きが取れない
慌てて碇を上げて沖へ漕ぎだそうとすると今度は外海から、手ぐすねを引いていた「村上水軍」が
襲いかかってくる。
味方の形勢悪しとみて、陶水軍の内「周防大島の桑原入道一族」が、間もなく「小早川水軍」に
加担したのは、戦いの前から予定されていた行動であった。
弘中隆兼、隆助父子は踏みとどまり、「滝の小路」を背に500ばかりの兵で追撃してくる敵を待ち
受けていたが、元春・熊谷信直・天野隆重の軍勢が駆け付け、陶軍に切りかかり弘中父子は
退却した、この時弘中父子は滝の小路の左右の民家に火をつけて、そのどさくさにまぎれ山頂へ
逃げる、元春はこれを追撃しようと思ったが、「厳島神社の寝殿」に火がかかる心配をし、
「弘中を逃がすとも苦しからず、神殿を焼かすな」と言い。すぐさま消化活動を行う。
その後弘中父子は「大聖院」に退き、多宝塔や大元の戦況をうかがい、気を見て攻撃に転じようと
したが、結果谷あいを「駒が林」に逃れ100余人余りで「龍ヶ馬場」に籠る。
この弘中父子は厳島に渡った陶の武将の中では、最も手ごわい相手であり、部下も猛卒揃いであった
から、元就は「一人も残らず討ち殺すべし」と命じる、最後は主従3人のみとなった。
隆助は元春の家臣小坂越中守が「矢」で射、それを熊谷信直の家臣末田新右衛門が走り寄り首を取る
隆兼はこれを見て自害しようとしたところ、阿曽沼豊後守広秀の部下、井上源右衛門が駆け寄り戦いを
挑む、隆兼の応戦したが力尽き対に打ち取られる。
弘中父子に付き添っていた郎党一人も、元春の家臣井尻又右エ門が打ち取る。
10月3日(11月26日)の朝のことである。
陶晴賢は大元浦から船を求め海岸を西に走り、大江浦にたどり着くが、ここにも船は無く、晴賢は自己の
運命が尽きたのを知り、ついにここで「自刃」を遂げる
弘治元年(1555年)10月1日、享年35歳であった。
「晴賢の首」は近侍の、伊香賀民部少輔が介錯する
その首を晴賢が着用していた朽葉の衣に包んで、垣並佐渡守・山崎勘解由と共に山中に持ち込む
板並・山崎は二人が刺し違えて死んだ。伊香賀民部少輔は自分がここで死ねば敵が自分の死体を
見つけて「晴賢の首」を探し出すに違いない。と思い、2から3町浜手にでて自害する。三人の首は、
児玉内蔵充の手の者によって切り取られたが誰の首か不明なので船中に取り入れ掛けていた。
元春の家臣、粟屋三河守・二宮杢助は落人をたずね山中を探し、敵を多く討ち留めたが、その帰る
途中、児玉の船に首が三つ掛けてあるのを見た、二宮は伊香賀達をよく知っていたので、
この三人の首が、伊香賀・垣並・山崎のものであることがわかった。
「さだめて、陶もこの三人と一緒の所で自害したに違いない」と思い探すがどうしても見つからない。
10月4日になって、晴賢の草履取りで乙若と言う、十四、五歳の少年が捕らえられた。この少年が
「一命をお助け下されば、入道(晴賢)の首のある所を教えましょう」と、児玉内蔵充に言った。
そこで、児玉はこの少年を先頭に立てて首の所在を探し当て、晴賢の首級もまた毛利軍の手中
に帰したのである。
この時の晴賢の辞世の句は
「何を惜しみ何を恨みん元よりもこの有様の定まれる身に」
伊香賀民部少輔
「思ひきや千年をかけし山松の朽ちぬる時を君にみんとは」
垣並佐渡守
「莫、論 勝敗迹  人我暫時情   一物不生地  山塞海水清」
山崎勘解由
「有りときき無しと思ふも迷ひ也  迷ひなければ悟りさへなき」






村上水軍
毛利家臣、浦兵部丞宗勝が、水軍の元に駆けつけ先陣を努めることを願い出、能島村上通康が快諾する
この時、敵をけん制する為「射手」を200名乗船さす

陶軍が「鉄砲隊」を持っていた、・・・・・6丁  当時としては大変珍しい

10月4日 戦闘は終結、敗走した陶晴賢については「大江(西浦地区)と言う所にて腹を切らせ申す」とある、
討ち取った首 8000の数字も見られる。 陶軍の戦死者は4785人と毛利の資料、「芸候三家誌」

* 戦国時代の年齢感覚は、1.2倍してプラス3 とする
厳島合戦の後2年たらずで防長2国を完全制圧、北の尼子家を攻略、1566年(永禄9年)に尼子を
平定する。この時の元就70歳(今では87歳に当たる)、75歳(1571年)で逝去する(現代の93歳位)。

弘中隆包(たかかね)
弘中隆包(たかかね) 隆助(たかすけ嫡子)
隆包の予想通り、罠にかかった大内軍は一夜にして壊滅した。大混乱に陥った大内軍の中で唯一陣を保全した
隆包は、自ら盾となって総大将の晴賢を逃がし、大聖院にて吉川元春らの大軍勢に立ち向かった。
やがて晴賢は自刃したが、大内軍の中で弘中軍だけは百名足らずで天険の駒ヶ林(竜ヶ馬場)に残り、
孤軍奮戦したが、3日間の激闘の末、最後は吉川軍に囲まれて遂に討死した。
隆包の智勇と忠節を深く悼んだ毛利元就は、毛利家で登用、保護するなどして弘中の縁者を特に厚く遇した。
そのため、安芸や周防一帯では弘中家の縁の者が住職を勤める寺院が数多くあった。
吉川広家が隆包の領土であった岩国の領主となった時、今地氏を名乗り始めた
隆包の孫が白崎八幡宮の宮司になることが許され今に至る。また、藩内に隆包の曾孫が通津専徳寺を開基
することを許され、昭和16年(1941年)に隆包の墓がその境内に移された。自らの死を知りながら
忠義のために渡海した弘中隆包の悲劇は、西国の悲運譚として講釈等で語り継がれている。
岩国に駐屯した毛利元就に降伏。元就にその智勇を認められて毛利家臣となり、名を弘中就慰と改め、
300貫の所領(66haの土地)を得た
その後は毛利水軍の一員として主に吉川元春を支え、門司城の戦いや立花山城の戦いなどを歴戦。

江良房栄(えらふさひで)
大内義隆、次いで大内義長を傀儡とする陶晴賢に仕えた。天文20年1551年の陶晴賢の謀反(大寧寺の変)
の際も陶軍の主力として活躍する。義隆没後の大内陣営では弘中隆包と並ぶ勇将であった。
その智勇には毛利元就も一目置いており、元就がまだ弱小勢力であった頃、陣を連ねて活動していたため、
元就の手の内を良く知る人物でもあった。
武勇にだけ優れた人物という訳ではなく、陶氏の重臣として厳島を利用する上方商人から通行料を
徴収するための交渉事も行っている。大内義長を迎え、大内家中が一定の安定を保つと、
安芸国内での影響力を高める毛利氏は晴賢にとって不穏分子としか映らなかった
そして吉見正頼が反乱を起こすと、毛利氏と陶氏の緊張は一挙に高まることとなった。元就は先手を打ち、
陶氏の重臣である房栄を味方にすべく、内応の誘いを入れたが拒否されたため、「房栄が元就と内応している」
という虚報を山口周辺に流し、晴賢は疑心暗鬼に陥る。天文23年(1554年)、房栄とその子・彦二郎をはじめとする
江良一族(兄の江良賢宣を除く)は、岩国琥珀院にて、晴賢の指令を受けた弘中隆包らによって暗殺された。
一説によると、房栄は本当に毛利側に内通しており、その強欲な性格から味方に引き入れても危険と判断した
元就によって、陶方に内通の情報を故意に漏らされたともいう。これにより陶軍は大きく戦力を低下させ、
折敷畑の戦い、そして厳島の戦いで敗北を喫することとなる。
なお、生き残った江良賢宣は晴賢が厳島で討たれた後も大内家に仕えていたが、
防長経略で山崎興盛らと須々万沼城に籠城、攻め寄せた毛利軍に降伏した。

県立広島大学の秋山教授の言葉
最近の研究で判ったことは、陶軍の人員は2万とも言われているが実際、
大内氏の家臣で重鎮といわれる人は陶軍には参加していなかった(内藤興盛 杉重徳 両家老)
また、毛利軍が3000名とも言われているが、瀬戸内の有力者が多数参加した為、
陶軍は多めでも 10.000人。毛利軍は少なめでも5.000人と言うことが判明、
実際の戦いでは、大きな差は無かったのではないか、と言うことが解った。














































































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