知りたい宮島

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知りたい宮島 13 僧誓眞

2024年06月05日 09時28分56秒 | 貴方の知らない宮島
僧誓真(そうせいしん)について述べておきます。

本名 村上頼冬(よりふゆ)と言い、伊予村上水軍の末裔であったが、それでは生活が出来なかった様で
広島城下の大工町(今の広島市、堺町 榎町 十日市の辺りを言う)に移りここで米穀商を営む
「この当時、広島城下町では、現在の広島駅裏辺り(市内の東側に当たる)と大工町(西側に当たる)この二箇所が城下町の宿場があった所)
ある日、この着物を「米」に換えて下さいと、一人の母親らしき人が着物を胸に抱き、体を小刻みに震わしながら細かい声で言った。
その着物に触れてみるとまだ温かく、何か事情があるのではと思い尋ねてみたところ、
「自分は二三日前から何も食べていない、明日子供たちに食べさせる米が無いので、先ほど子供たちが寝たのを待って着物を脱がせて来た、薄着の子供は私が背負えば良いと思った」
この話を聞き頼冬は驚き、その温もりのある着物を突っ返しながら、米と少々の野菜を持たせ帰らせた。
しかし、その夜は寝つかれず、つくづくと世の無常を感じ、これからの人生を貧しい人々の為に捧げる
事を決心した。
後日、心の苦しみを家族にも告げず、置手紙を残して家を飛び出し厳島に渡り、光明院・第15代住職
恕信上人を尋ね、頼冬は一生命をかけて不運な人達に愛を捧げる決心である事を上人に告げると、上人は頼冬の態度と眼をみて弟子入りすることを許すこととなった。(縦僧である)
25歳の時出家して、「誓真」となる。
やがて、島民の暮らしや、生活状況が徐々に解るにつれ、特に飲料水に大変困っている事に気づき、
自ら水脈を求めて島中を歩きまわり10箇所の井戸を掘り当てた(天明2年1783年~寛政7年1795年までの12年間)
その資金は自ら托鉢して得たものを全て充てた。
現在その井戸の内、1か所が現役で豊富な水を汲みだしています(宮島桟橋の前の商店の路地を入った所にあります
島内は厳島神社より南西側(神社より向こう側、社家・供僧が住んでいた場所)は、白糸川・大元川が流れており、大西水道と呼ばれる私設水道があり水には困っていませんでしたが、神社より手前側(一般庶民がすんでいた場所で、現在の商店街あたり)は水が無く島民は困っていました。

なお誓真は、厳島弁才天の持っている「琵琶」の形から「宮島杓子」を考案したり、道路整備や雁木(石段)を築き災害を防ぐなど、今で言う「公共事業」に尽くした人物である。
雁木(がんぎ)とは階段状になった船着場の事で、広島原爆ドーム近くの元保川でも見ることが出来、
島内では存光寺の横にある「100雁木」(100段の階段) 石の大鳥居の近くにある
「上卿雁木(15段はあったが現在は3段しか見ることが出来ない、昭和33年頃の写真を見ると
      15段あることが確認できる、砂に埋もれた下にはあと12段隠れている)

このことから寛政3年(1791年)広島藩より特別表彰されている。
この誓真の道徳をたたえた「誓真大徳頌徳碑(せいしんだいとくしょうとくひ)」の記念碑が建てられた。毎年1月にはこの「大徳碑」の前で「宮島杓子供養」が行われる。
誓真は「宮島の恩人」と言われている。
この「碑」は大変見晴らしの良い場所にあり、春には樹齢80年とも言われる「桜」が満開になり、観光客の方々がめったに行かない静かな場所です、光明院のすぐそばにあります。

厳島の恩人ベスト6は、①平清盛 ②神主佐伯影弘 ③棚守房顕 ④毛利元就 ⑤林春斎 ⑤僧誓真

光明院の前の道を下ると、すぐ左手に「牡蠣祝(かいわい)」と云うお店があります。
カンバンも出ていませんが、隠れた店で、この店内からは千畳閣・五重塔・対岸の景色が一望できて宮島に来たら、時間が許せば寄ってみたら記憶に残るお店です。ケーキ コーヒ 位しかありませんけどね。
「牡蠣のオイル漬け」がこの店のお勧めだそうです。
この前の坂道から、日本を代表する画家の「平山郁夫画伯」が千畳閣・五重塔を望んで「絵」を描いています、秋は紅葉が増し本当に綺麗なところです。でも急ぐ観光客の方は知らないで場所なので本当にもったいない、どこにあるかさがしてみて下さい。

この近くには、これによく似た景色の良いお店が一軒あります、あるコーヒーショップの姉妹店になりますが、ここからも千畳閣・五重塔を一望する事が出来るお店です。
非常に解りにくいところにあるので知らない人も多いかと思います、「天神閣」といいますよ。
時間にゆとりがあったら、さがして

商店街は現在は「表参道商店街」と読んでいますが、一昨年NHKにて「平清盛」が放映された時は、一時的に「清盛通り」と呼んでいました。約250mの商店街には70数件のお店が並んでいます。
宮島と言えば「紅葉饅頭」ですが、現在22店舗の製造販売店があり、あんこの種類は18種類もあります。
「紅葉饅頭」の言われ
諸説あるのですが、一つには、伊藤博文が茶屋の娘の手を見て、「まるで紅葉の様だ、
食べたらさぞかし美味しいであろう」といったとか?
また、紅葉谷の前に「岩惣」と云う旅館があり、岩国屋惣兵衛によって嘉永7年(1854年)の創業
この岩惣の女将(岩村栄子)の紅葉谷の宿にふさわしい饅頭を作って、との要望に答えて、
岩惣に出入りしていた、「高津常助」が考案したのが、現在の「紅葉饅頭」で
「紅葉形焼饅頭」として特許(商標登録)取得する。
対岸の赤碕踏み切りを渡った所に、現在も「高津堂」があり、紅葉饅頭を販売している。

宮島に来られた観光客の方達が、「なま紅葉」はどこで売っていますかと良く聞かれますが、残念
宮島島内では販売していません。(にしき堂さんのお店が島内には無いのです。
「なま紅葉」と同じ紅葉饅頭を島内で販売しています、やまだ屋さんの販売している「桐葉菓(とうようか)」です。「あんこ」もですが、外皮が、もちもちして従来の紅葉饅頭とは少し違います。
従来の饅頭の外皮がカステラのようですが、これは「もちもち」して変わった食感があります。

土産物店の「やまだ屋の桐葉菓のお菓子」の名前の由来を知っていますか。
豊臣秀吉の家門が「五七の桐」であり、家来の上田宗箇(上田重安)は武勇で知られる武将でありました、
流祖上田宗箇は、豊臣秀吉の側近大名として寵愛を受けた桃山時代を代表する武将茶人の一人です。広島藩初代浅野長晟に仕えた、以来、上田家(広島藩国老)代々により連綿と今日まで広島の地に伝えられています。

豊臣秀吉から拝領した上田家の御家紋「陰上田桐」を焼き印が饅頭に押印してあります

ある建物の「」をひっくり返すと、裏に「桐葉」と書いてある、この「桐葉」と言う、「言葉」からできました。
どこの建物の「瓦」か、塑像してみて下さい。なるほど、と思いますよ














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