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森永ヒ素ミルク中毒事件は、1955年(昭和30年)6月頃からヒ素の混入した粉ミルク食中毒の事件。

2012-09-03 14:42:14 | 日記








森永ヒ素ミルク中毒事件 - Wikipedia
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%B0%B8%E3%83%92%E7%B4%A0%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%82%AF%E4%B8%AD%E6%AF%92%E4%BA%8B%E4%BB%B6



森永ヒ素ミルク中毒事件

森永ヒ素ミルク中毒事件(もりながヒそミルクちゅうどくじけん)は、1955年(昭和30年)6月頃から主に西日本を中心としてヒ素の混入した森永乳業製の粉ミルクを飲用した乳幼児に多数の死者、中毒患者を出した食中毒の事件。森永ヒ素ミルク事件(森永砒素ミルク事件、もりながヒそミルクじけん)とも。

食品添加物の安全性や粉ミルクの是非などの問題で、現在でも引き合いに出される事例となっている。また、食の安全性が問われた事件の第1号としてもしばしば言及されている。

事件の概要

森永乳業は、1953年(昭和28年)頃から全国の工場で乳製品の溶解度を高めるため、安価であるという理由から工業用のヒ素を触媒にして作られた化合物(添加物)を粉ミルクに添加していたが、1955年(昭和30年)に徳島工場(徳島県名西郡石井町)が製造した缶入り粉ミルク(代用乳)「森永ドライミルク」の製造過程で用いられた添加物・工業用の第二燐酸ソーダに、不純物として砒素が含まれていたため、これを飲んだ1万3千名もの乳児がヒ素中毒になり、130名以上の中毒による死亡者も出た。

1955年(昭和30年)当初は奇病扱いされたが、岡山大学医学部で森永乳業製の粉ミルクが原因であることを突き止めた。1955年(昭和30年)8月24日、岡山県を通じて当時の厚生省(現厚生労働省)に報告がなされ、事件として発覚することとなる。

1956年(昭和31年)当時の厚生省の発表によると、ヒ素の摂取による中毒症状(神経障害、臓器障害など)が出た被害者の数は、12,344人で、うち死亡者130名である。また、認められた患者についても消費者の権利が確立されていない時期でもあり、満足の行く救済措置が執られない患者は多かった。

患者は、現在も脳性麻痺・知的発達障碍・てんかん・脳波異常・精神疾患等の重複障害に苦しみ、手足の動かない身体をかがめ、皿に注がれたお茶を舐めるように飲むなどの日常を強いられている。また、就職差別や結婚差別を受けたり、施設に送られた被害者や、ミルクを飲ませた自責の念で今もなお精神的に苦しんでいる被害者の親らも多いといわれている。

森永側が原因をミルク中のヒ素化合物と認めたのは、発生から15年経過した1970年(昭和45年)の裁判中のことである。その際、森永側は、第二燐酸ソーダの納入業者を信用していたので、自分たちに注意義務はないと主張していた(納入業者は「まさか食品に工業用の薬品を使用するとは思わなかった」と証言)。しかし、後に国鉄仙台鉄道管理局が、第二燐酸ソーダ(日本軽金属製造)を蒸気機関車のボイラー洗浄剤として使っていたが、使用前の品質検査でヒ素を検出し、返品していた(国鉄は、蒸気機関車のボイラーの状態保持には細心の注意を払っていた)事実が明らかとなった。

「食品としての品質検査は必要ない」と主張していた森永の態度は厳しく指弾され、1960年代には、森永製品のボイコット運動が発生した。当時、森永は乳製品の売り上げでは明治・雪印をしのぐ企業であったが、長期裁判となったこともありイメージダウンは拭いきれずシェアを大きく落とした。特に岡山県では事件以降森永製品への不信感が消費者に根強く残ったことから、売り上げの見込めない森永製品を一切扱わない商店も数多く存在した。岡山県内でのこのような動きは事件が一応の決着を見た昭和50年代まで続いた。

一審では森永側が全員無罪とされたが、検察側が上訴。刑事裁判は1973年(昭和48年)まで続くが、判決は過失の予見可能性判断において危惧感説(新々過失論)を採用し、徳島工場元製造課長1人が実刑判決を受けた。ちなみに危惧感説が採用されたと見られる裁判例は本判決が唯一である。一審の判決が衝撃的だったため、被害者側は民事訴訟を断念。のちに後遺症問題が明らかとなるが、その際も森永側は長らく因果関係と責任を否定した。最終的に、被害者・厚生省・森永乳業の話し合いにより、1974年(昭和49年)に被害者の恒久的な救済を図るため財団法人ひかり協会が設立され、活動を続けている。

事件のその後

被害者側で支援活動をしていたのが、当時弁護士だった中坊公平である。彼はこの事件に関わるまでは、地位が安定している企業の顧問弁護士で一生を過ごそうかと考えていたが、父親の一喝で関わることになる。

中坊公平は「法廷外戦術も駆使することにした。それは、森永製品の不買運動である」[1]「同時に森永製品の組織的な不買運動も収束させました」[2]、和解交渉の局面に触れて「被害者たちとの対面を渋る国と森永を引っ張り出すために水面下で動き続けていた」[3]「森永がけしからんという人は、本当に誰一人いわない」[4]「被害者というものは…(中略)…森永もやってくれたということについて、やっぱり、それなりに感謝もしてますよね」[5]といった説明をしている。

一方、「森永砒素ミルク闘争二十年史」は不売買運動を開始させ、収束させたのは当時の救済運動の指導者であり[6]、和解交渉にあたっては、追い詰められた森永のほうが国を通じて被害者との面会を切望したものである[7]とする。

また同事件では重症者も多いが、ほとんどの被害者が森永に感謝している事実はないと被害者家族は指摘している。 「森永ミルク中毒のこどもを守る会」は機関紙「ひかり」の第11号(1970年4月20日付)に次のような主張を掲載し、森永乳業への警戒を呼びかけていた。 「事実、森永は15年前(=事件が起きた1955年のこと)にも、そのような人を利用して、事件をヤミに葬る手段に使いました。曰く『森永の処置に十分満足している』『森永に感謝している人が沢山いる』『騒いでいるのは一部の人たちだけである』と」。

「森永事件はまだ終わっていない」として恒久的な社会的監視が必要だとの意見もある。[8]

事件の震源地となった徳島工場は粉ミルクの製造を中止した上で操業を続けていたが、2011年1月、同年9月の閉鎖が決定された[9]。

「森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会」(森永ミルク中毒のこどもを守る会から改称)に対して、救済のあり方を問題視した被害者家族が「守る会」内で発言機会を奪われるという言論制限事件があったという報道がなされた。(出典:2003.6.25付山陽新聞報道)また、重症被害者の親によって「守る会」「ひかり協会」を相手取って人権救済の訴えが提起されている。[10]。

更に、2009年(平成21年)2月、機関紙「ひかり」で行った批判キャンペーンに対して、事実無根の羅列であるとして名誉毀損の損害賠償請求訴訟を提起された(「平成21年(ワ)第249号損害賠償等請求事件」)

グリコ・森永事件

1984年(昭和59年)のグリコ・森永事件では、読売新聞社(週刊読売編集部)への挑戦状で、森永乳業と関係が深い森永製菓をターゲットにした理由が「森永 まえに ひそで どくの こわさ よお わかっとるや ないか」と記されており、ヒ素ミルク事件が遠因になったことを示唆している。

参考文献・注


第24回自治体に働く保健婦のつどい実行委員会編『私憤から公憤への軌跡に学ぶ 森永ひ素ミルク中毒事件に見る公衆衛生の原点』せせらぎ出版、1993年1月、ISBN 4915655415

滝川恵清著『十七年目の訪問 森永ヒ素ミルク中毒のこどもたち 滝川恵清写真集』柏樹社、1972年

田中昌人、北条博厚、山下節義編『森永ヒ素ミルク中毒事件 京都からの報告』ミネルヴァ書房、1973年

長谷川集平『はせがわくんきらいや』すばる書房、1984年3月 / ブッキング、2003年7月、ISBN 4835440587、(絵本)

ひかり協会編『ひかり協会10年の歩み: 恒久救済の道を求めて』ひかり協会、1985年3月、(非売品)

協会前史年表・協会史年表: p291 - 324



森永ミルク中毒事後調査の会編『14年目の訪問 森永ひ素ミルク中毒追跡調査の記録』(復刻版)、せせらぎ出版、1988年6月、ISBN 4915655164

森永砒素ミルク闘争二十年史編集委員会編『森永砒素ミルク闘争二十年史』医事薬業新報社、1977年2月

森永砒素ミルク中毒事件関係資料・森永砒素ミルク闘争二十年史年表: p.343 - 380



森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会編『守る会運動の歴史から「三者会談方式」を学ぶ 守る会運動の歴史学習版』森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会、1991年6月、(非売品)

事件史年表: p123 - 164



森永ヒ素ミルク中毒「被害者」の会編『太陽の会の歩み17年 事業と運動の発展をめざして 解散記念文集』太陽の会、1988年10月、(非売品)

吉田一法著『エンゼルの青春 森永ヒ素ミルク中毒事件被災児の記録 吉田一法写真集』草土文化、1973年



^ 今井彰・首藤圭子『野戦の指揮官・中坊公平』 日本放送出版協会、2001年1月・第1刷、p82

^ 中坊公平『中坊公平・私の事件簿』 集英社新書2000年12月・第4刷 p. 58

^ 今井・首藤(2001)、p. 96

^ 今井・首藤(2001)、p. 88

^ 今井・首藤(2001)、pp. 103-104.

^ 岡崎哲夫著「民事訴訟の展開と不売買運動─たたかいの実情─」『森永砒素ミルク闘争二十年史』医事薬業新報社、1977年2月 p148-153

^ 岡崎哲夫著「三者会談の開始と財団法人ひかり協会の設立─ひかり協会の設立をめぐる諸状況─」『森永砒素ミルク闘争二十年史』医事薬業新報社、1977年2月 p156-157

^ 東海林吉郎/菅井益郎著「砒素ミルク中毒事件」『技術と産業公害』宇井純編、国際連合大学、1985年

^ “森永ヒ素ミルク事件の徳島工場、閉鎖へ”. 読売新聞. (2011年1月26日) 2011年1月26日閲覧。

^ 2003年6月24日の岡山県における人権救済申し立て事件(岡弁庶第33-1号)及び、2003年7月8日の広島県における人権救済申し立て事件(広弁第57号)
2003年6月25日付読売新聞岡山版報道


関連項目


食中毒

ヒ素中毒

和歌山毒物カレー事件

食の安全

カネミ油症事件


外部リンク


森永ヒ素ミルク中毒事件 資料館

財団法人ひかり協会

森永ヒ素ミルク中毒事件~発生から50年~被害者救済事業の実施状況

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