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7 感染症の歴史 病原体が生物の体に侵入、定着・増殖して感染

2014-01-22 08:37:01 | 日記






#ккк #感染症 #伝染病

ウエストナイル熱・ウエストナイル脳炎と日本脳炎[編集]

ウエストナイル熱の病原体である西ナイルウイルスは、フラビウイルス科に属し、その1属である狭義のフラビウイルス属は、デングウイルス(DEN)、日本脳炎ウイルス(JE)、ダニ媒介性脳炎ウイルス(TBE)、黄熱ウイルス(YFV)の4グループに分類され、そのうち、日本脳炎ウイルスのグループを構成するのは西ナイルウイルス(WN)、セントルイス脳炎ウイルス(SLE)、マレーヴァレーウイルス(MVE)、クンジンウイルス(KUN)、そして狭義の日本脳炎ウイルス(JE)の5ウイルスである。


ウエストナイル脳炎[編集]

詳細は「ウエストナイル熱」、「ウエストナイル脳炎」、および「西ナイルウイルス」を参照

ウエストナイル脳炎の発生と前後して大量死が確認されたアメリカガラス(Corvus brachyrhynchos)

西ナイルウイルスは、その名のとおり西ナイル地方(ナイル川の西)で見つかった。

19世紀末、イギリス領スーダン(英埃領スーダン)南部の白ナイル川西岸地域を西ナイル地方と呼んでいたが、この地方は一時期ベルギー領コンゴに属し、1912年にはイギリス領ウガンダに編入されて西ナイル州とされた。

西ナイルウイルスは、1937年、黄熱の研究者がウガンダの西ナイル州の女性の熱病患者から単離したウイルスである[注釈 7]。

従来、日本脳炎ウイルスグループにおいては、世界地図上でのみごとな地理的棲み分けがなされていた。

狭義の日本脳炎ウイルスがインド以東の東アジア・東南アジア、マレーヴァレーウイルスが一部の東南アジア、クンジンウイルスがオーストラリア、セントルイス脳炎ウイルスがアメリカ大陸、そして西ナイルウイルスが発見地アフリカのほか、オセアニア、中東、中央アジア、西アジア、ヨーロッパの各地である。

スペイン語で西ナイルウイルスへの警告を呼びかけるポスター(2008年、ロサンゼルス)

このような地理的棲み分けに対し、異変が生じたのは、1999年8月23日のことであった。

アメリカ合衆国ニューヨーク市クイーンズ区内の病院の内科医が2例の脳炎患者症例を報告し、その後、市保健局の調べによって他に6例の脳炎患者をクイーンズ区内で確認した。

ヒトにおける脳炎の流行に相前後して、ニューヨークでは大量のカラスが死亡していた。

9月7日から9日にかけてはブロンクス動物園(ニューヨーク市ブロンクス区)で2羽のフラミンゴと、鵜とアジアキジそれぞれ1羽の死亡が確認された。

当初、ヒトや鳥類の死亡はセントルイス脳炎ウイルスによるものと診断された。

しかし、その後、アメリカ疾病予防管理センター(CDC)の調べで、ヒト、トリ、蚊より分離されたウイルスは西ナイルウイルスであることが判明した。

従来、西ナイルウイルスはアメリカ大陸にはまったく存在しないと思われていたので、この事実は米国全土に衝撃をあたえた。

以後、2010年現在までアメリカ全土で西ナイルウイルスが見つかっている。

このウイルスを病原体とするウエストナイル熱・ウエストナイル脳炎の最多患者数を記録した2003年には、合衆国だけで患者9,862人、死亡264人が報告されており、この年はさらに隣接するカナダ、メキシコ両国への広がりも確認された。

媒介する蚊は、トビイロイエカなどアカイエカの仲間を中心に13種(2009年にはさらに増加して60余種)、中間宿主である鳥類ではカラス、ブルージェイ、スズメ、タカ、ハトなど220種以上におよぶ種から西ナイルウイルスが分離された。

「マラリア」節でふれたように、従来、紀元前323年6月10日にメソポタミアのバビロンで死去したマケドニア王国のアレクサンドロス3世(大王)は、その高熱という症状やインドからの帰還での死という地理的要素から、古来、死因はマラリアであると考えられてきた。

しかし、2003年、アレクサンドロスの死は西ナイルウイルスによるウエストナイル脳炎ではなかったかという学説が登場した。

その根拠は、古代のバビロンが現代の西ナイルウイルスの流行する分布域に属していることのほか、1世紀から2世紀にかけて活躍したギリシア人著述家プルタルコスの『対比列伝』(「プルターク英雄伝」)のなかの以下のような記述である。

アレクサンドロスがバビュローンに入ろうとしている時に、(中略) 城壁のところまで行くと、多くのカラスが喧嘩をして互いにつつきあい、その内幾羽かが大王の足元に落ちた。

公的な記録によれば、アレクサンドロス大王は高熱を発してずっと熱が下がらず、そのあいだ激しくのどが渇いて葡萄酒を飲み、うわごとがはじまって、発熱後10日目に亡くなったといわれる。

これらの症状は、ウエストナイル熱やウエストナイル脳炎の症状と矛盾しない。

動物媒介性の感染症の新たな出現や伝播は、飛行機や船による人類や文物の大量移動を基礎として、たとえば近代化・工業化や地球温暖化などによって媒介動物である蚊の生息条件が変化して分布域が変動・拡散し、また、その宿主の生息域が変動するなどの事象によっており、「感染症の生態学」と呼ぶべきひとつの研究領域が成り立つような条件を生じさせているが、他方では、アレクサンドロスの死因のように、過去にさかのぼって史実の解釈さえ再検討の俎上に乗せる可能性を有しているのである。


日本脳炎[編集]

アジアにおける日本脳炎の発症分布(1970年-1998年、CDC資料)

詳細は「日本脳炎」を参照

日本脳炎(Japanese encephalitis)は、日本脳炎ウイルスによる脳炎であり、日本や東アジア、東南アジアを分布域とする。

感染者の発症率は0.1パーセントから1パーセントと推定されており、そのほとんどが不顕性感染である。

日本での媒介者は主としてコガタアカイエカといわれるが、熱帯地域では他の蚊も媒介する。

潜伏期は6日ないし16日間とされ、高熱を発して、痙攣や意識障害におちいる。

発症してからは対症療法にたよるしかない。

発症した場合の致死率は10ないし20パーセント程度と推定されるが、発症者の半数以上は脳にダメージを受け、脳障害や身体の麻痺などの重篤な後遺症がのこる。

1954年(昭和29年)、日本では不活化ワクチンの勧奨接種が開始され、1965年(昭和40年)には高度精製ワクチンの使用がはじまった。

日本での患者は、1967年(昭和42年)から1976年にかけての積極的ワクチンの接種によって、劇的に減少したといわれている。


日本住血吸虫症[編集]

詳細は「日本住血吸虫」および「地方病 (日本住血吸虫症)」を参照

日本住血吸虫卵

日本住血吸虫症は、日本・中国・フィリピン等でみられる住血吸虫症の一種で、ミヤイリガイ(オンコメラニア)という巻貝を中間宿主として成長した寄生虫(日本住血吸虫)が経皮感染によってヒトやウシ、ネコなどに感染することによって発生する感染症である。

日本では特に山梨県下で「地方病」と称されて地域特有の奇病と見なされ、古くから甲府盆地底部一帯が国内最大の罹病地域として知られてきた。

1904年に桂田富士郎が甲府市でこの寄生虫を発見し、1913年に宮入慶之助と鈴木稔が佐賀県鳥栖市において、寄生虫の中間宿主がオンコメラニアであることを発見したため、病名に「日本」の名が付されることとなった。

中国湖南省長沙市の前漢代の墳墓である馬王堆遺跡のミイラから日本住血吸虫の生活痕跡を検出したことから、中国において、この感染症の流行はきわめて古くからのものであることが確かめられている。

中国では、1950年代初頭、四川盆地をふくむ長江流域や広東省、福建省、雲南省など広汎な地域で日本住血吸虫症の流行が顕在化し、患者数は約3,200万人にのぼったと推定される。

中華人民共和国では、建国以来、大衆動員によって古いクリークを埋め立て、新しいクリークを開削する方法によってオンコメラニア対策が採られ、1958年には、江西省余江県での成功にちなんで、当時の中国共産党の指導者毛沢東は「送瘟神(瘟神を送る)」と題する漢詩をつくっている。

日本住血吸虫症は、こんにちでも中国やフィリピンを中心に年間数千人以上の新規感染患者が発生しているが、日本では1978年に発生した山梨県の罹患者を最後に新規感染者が確認されておらず、1996年には山梨県知事の天野建によって「地方病終息宣言」が出された。


SARS[編集]

詳細は「重症急性呼吸器症候群」および「SARSウイルス」を参照

台湾のSARS治療医院(2004年)

20世紀にはいると、次々と新しいウイルスが登場したが、SARSウイルスは21世紀に見つかったウイルスであり、それによる感染症は重症急性呼吸器症候群(SARS)と呼ばれる。

高熱、咳嗽、息切れ、呼吸困難、低酸素血症あるいは肺炎などの症状をともなう。

2002年11月16日に中華人民共和国の広東省で40歳代の農協職員が発症した例が最初とされたが、広州市呼吸病研究所は最初の患者は7月にさかのぼると発表している。

11月の発症後、中国政府はこの疾患が広まらないよう対処するいっぽう、世界保健機関(WHO)にこの情報を知らせたのは2003年2月であり、自国の名誉と信用をまもるため報道を規制した。

秘密にした結果、国際的な対応が遅れ、被害を拡大させてしまったため、中国政府はのちにこのことを謝罪している。

4月3日、日本政府はSARSを新感染症として取り扱うことを発表、さらに4月17日、原因が判明したため指定感染症へ切り換える方針を発表した。

4月上旬、SARSが大問題としてメディアで取り扱われている頃、中国政府の公式方針は変わったが、北京の軍病院で実際の患者数より少なく発表していたのが判明したのもこの頃である。

国際世論の強い圧力ののち、中国政府はWHOなどの国際公務員がこの件に関する調査をおこなうことに同意した。

これにより、過度の分散、形式主義、コミュニケーションの不足など、中国医療制度の古い体質が暴かれた。

4月下旬、中国政府は患者数のごまかしが医療制度上の問題であることを認め、蒋彦永博士は中国政府のもみ消しを暴露した。

こののち、北京市長や保険局長を含む多くの人が解任され、ようやくSARS調査と予防に向けた効率的で透明なシステムがつくられるようになった。

なお、WHOは2003年、異例の「地球規模的警告」を発した。


公衆衛生と感染症[編集]

詳細は「衛生」、「公衆衛生」、「疫学」、および「ウジェーヌ・プベル」を参照

ジョン・スノウの調査結果

コレラによる死者(黒点)の分布から規則的なパターンが読み取れる。

スノウはコレラの原因がブロード街の中央にある手押し式の井戸であると判断した。

最終的には、手押し井戸のポンプのレバーを取り外すことでコレラが収束した。

後年の調査によると、肥料に用いるために備え付けられていた汚水溜めに1854年8月末の最初の患者の糞便が混入したこと、汚水溜めと問題の井戸が90センチメートルしか離れていなかったことが判明した。

公衆衛生の起源は古く、都市の起こりによって汚染水や塵芥の処理がなされないまま放置されると伝染病が発生することが、いわゆる「瘴気説」(空気感染説)として知られていた。

古代に起源をもつ宗教の多くは、日常の食物や飲酒・性的関係の制限、清浄さの維持など、健康のための習慣づけを規範や教義として内包していることが少なくない。

古代ローマでは、適切な汚物の排出は都市における公衆衛生の常識として理解されていた。

また、ヨーロッパで黒死病が流行した14世紀には、死体を遠ざけておくことが感染を遠ざけると信じられた。

近代的な公衆衛生の概念は、19世紀のヨーロッパにおいて、産業革命後の急激な都市化にともなう住環境の悪化などが感染症の蔓延と結びついているものと考えられ、それに対応していくなかで発展してきた。

また、科学的な疫学は1854年のロンドンでのコレラ大流行において、公衆の井戸水が原因であるとジョン・スノウが発見したことを嚆矢としている。

スノウは当時主流であった瘴気説に対抗して細菌説を説いた。

コレラは消毒の不足によって生じると考えた従来の瘴気説では、コレラの流行は自然発生的なものと考えられ、臭気が疫病をもたらすとされていた。

しかしスノウは、同じ流行地域でも罹患者の分布は斑状に分散していること等の知見に注目して空気感染説に疑問を持ち、「汚染された水を飲むとコレラになる」という「経口感染仮説」を立てた。

スノウは、患者が多数発生した地区で発生状況の精査をおこなったうえ、ある井戸が汚染源と推測、あてはまらない事例についても調査をおこなった。

当時、ロンドンの水道会社はテムズ川から取水していたが、当時のテムズ川は汚濁がひどく衛生的とはいえなかった。

スノウは患者発生マップと各水道会社の給水地域との比較照合を行い、特定の水道会社の給水地域においてコレラ患者が多発していることを突き止めた。

同社の取水口は糞尿投棄の影響を受ける位置にあったのである。

最終的に、行政当局がこの結果にもとづき、問題の井戸を閉鎖したことにより流行の蔓延を抑えることができた。

19世紀前半までのパリもまた悪臭に満ちた不衛生な都市であった。

フランス第二帝政の時代、首都を管轄するセーヌ県の県知事となったジョルジュ・オスマンは、皇帝ナポレオン3世の命を受けて、首都の「美化」を主眼とするパリ改造をおこなったが、同時に見えない部分に対しても「浄化と衛生化」のための都市改造をおこなった。

オスマンは、主要な道路を拡幅し、水については、遠隔地から水源水を導いて配給して各戸給水を目指し、また、暗渠式の下水道網を首都の地下に張り巡らせた。

ウジェーヌ・ルネ・プベル

1882年、パリではチフスが大流行して3,352人の命が奪われ、また、1883年から84年にかけては約50年ぶりにコレラが再びパリで流行し、1884年にはコレラによる死亡者が986人に達した。

この頃、共和派のセーヌ県知事として就任したのが、ウジェーヌ・プベルである。

プベルは赴任1ヶ月後の1883年11月、知事令によりゴミ箱(金属製の箱ないしバケツ)の使用を義務づけた。

県知事令は全11か条で、ゴミ箱の形状や容量はもとより、設置場所をも細かく規定したものであった。

同様の条例は1884年3月にも発布され、これらにより、市民にはゴミの分別が義務づけられ、また、出されたゴミは当局が回収していくしくみが制度化された。

従来の、側溝に水を流して路上の塵芥を一掃する方式に加え、ゴミ箱を徹底的に利用する方式は大きな効果を挙げ、パリのゴミ処理問題は長足の進歩を遂げた。

プベルによってパリ市民にもたらされた新しい習慣は『フィガロ』紙などのマスメディアからも支持された。

こうして、不衛生都市パリの汚名は返上され、衛生的な都市として生まれ変わった。

フランス語の「プベル(poubelle)」は「ゴミ箱」を指す一般名詞として現在定着している。

しかし、ゴミ箱方式は、分別や管理にともなう費用を節減したい家主や、生活への脅威を感じた伝統的な廃品回収業者や古着屋からの抵抗を受けている。

1880年の「パリ大悪臭」とそれにつづく感染症の大流行は、一方では下水道の大幅な改造をもたらした。

プベルらが進めようとする生活廃水と糞尿、清掃水、雨水などを一緒に排水するトゥ・タ・レグ(すべてを下水へ)の方式には、多くの根強い反対論があり、その採用に至るまでには紆余曲折があった。

とくに、ジョルジュ・オスマンは自らの傑作である回廊式下水道を糞尿で汚染されることに強い嫌悪感を示したといわれている。

しかし1892年、コレラが再び流行し、このことは、建物を直接下水道に接続させた際に生ずる費用を家主や管理者が負担する1894年の条例の発布につながった。

こうして、全廃水下水道放流方式すなわちトゥ・タ・レグ方式の下水道システムが整備されたのである。

日本では、明治の文明開化以降の近代的な「公衆衛生」に相当する概念として、当時医学の諸制度はドイツを手本としていたため、ドイツ語のHygiene(ヒュギエーネ)の概念が衛生ないし衛生学として受容されたが、イギリスの制度も参照された。

このころ、長与専斎はヨーロッパを視察し、生命や生活を守る概念としてHygieneが社会基盤の整備を内包し、国家や都市を対象としていることから、その和訳について、あえて「養生」ないし「健康」「保健」を転用せず、『荘子』庚桑楚篇にある「衛生」の語をあてている。

明治政府は、その初期においては1874年(明治7年)に医制を公布し、各地方に医務取締を設置、その後1879年(明治12年)には中央衛生会(地方には衛生課)を設置、公選によって衛生委員が置くなどの体制を採用した。

しかし、1885年(明治19年)、このような民主的なシステムは廃止され、1893年(明治26年)には衛生医院の機能を警察部に移管、上意下達式になった。

これは、日本の中央集権型行政の進展を意味するとともに、いっぽうでは、急速な感染症拡大への手早い対応をめざしていたためでもあった。

日本ではロックフェラー財団からの支援もあって国立公衆衛生院が昭和初年に発足している。

なお同衛生院第2代院長の古屋芳雄は、公衆衛生を「公衆団体の責任に於いて、われらの声明と健康とを脅かす社会的並びに医学的原因の除き、かつわれらの精神的及び肉体的能力の向上をはかる学問及び技術」と定義している。

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