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靖国に合祀されない殉国者~中谷坂太郎
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昭和25年朝鮮戦争勃発…海上保安庁に命令を下したのは占領軍
何かおかしいよね、今の日本。
昭和25年6月朝鮮戦争勃発
北朝鮮は一気に南下し
釜山近くまで制圧する
同年10月日本各地の
海上保安庁の掃海部隊に
「下関に終結せよ」の命令が下る
命令を下したのは占領軍だった
北朝鮮軍が敷設したソ連製機雷の除去が目的の「日本特別掃海隊」編成がなされた
元山を皮切りに仁川、郡山、鎮南浦、海州などの諸港への掃海隊派遣が続き12月までに7回、延べ1200人が半島沿岸を掃海
機雷に接触した艇もあり、1名が戦死、18人が重軽傷を負った
17日午後3時半、「ドーン!」と足元から突き上げるような大音響が起こった。煙が消えると、日本の掃海艇の一隻が、すでにマストと艦橋部分を残して水没しているのが見えた。能勢は「掃海中止、掃海索を揚げ救助せよ!」と各艇に指示した。
しかし、各艇は掃海索の揚収にもたついている。また周辺は機雷の海で、下手に動けば同じように触雷するかもしれない。歯噛みをしていると、米艦が救助に全力で急行するのが見えた。日本艇の沈没を見て、自らの危険を顧みずに救助に向かうその姿は、日本の掃海部隊員の心を打った。
30分ほどして、米艦から24名を救出、うち重傷3名、軽傷5名との連絡を受けた。1名、中谷坂太郎が行方不明のままであった。
油に覆われた海面から助け出された隊員たちは、入浴が許され、新しい衣服が支給された。北朝鮮の海は10月にはもう冷たく、米艦上でも震えが止まらなかったが、暖かい飲み物を配られて、少し落ち着いた。米兵の真心のこもった親切さが身にしみた。
救助された隊員たちは、翌々日には佐世保に送られ、負傷者は病院へ、元気な者は旅館に収容された。久しぶりの畳の上の生活だったが、皆もう一度、元山に戻って、残してきた仲間を助けたいと思った。
なかでも、石井艇長は「俺は中谷の遺体を見ていない、まだ生きて、助けを待っているかもしれないじゃないか」と、どうしも戻ると言って聞かず、結局、その後、再び、元山に赴いている。
行方不明となった中谷坂太郎は厨房員だった。触雷沈没した17日は、掃海作業が一段落し、元山に上陸できそうなので、「ごちそうを作らないとな」と、張り切っていたという。そして、触雷の直前に、後部の船倉に降りていく姿があった。船倉にいたとしたら、触雷爆発ではひとたまりもない。
事故から一週間後、坂太郎の両親の元に米軍大佐が通訳と一緒に訪れて、訃報を告げたが、その際、「瀬戸内海で死んだことにして欲しい」と言った。憲法9条とのからみもあり、国際問題になる事を避けるため、と説明された。
父親の力三郎はかつての陸軍近衛兵であり、それが国のためになるのなら、と黙って米軍大佐の申し出を受け入れた。27日、呉海上保安部にて、海上保安庁葬が営まれ、同艇の乗組員たちも参列したが、彼らが朝鮮で掃海作業に従事していたことは、厳重に口止めされていた。
失意のためか、母親のハナはその後間もなく亡くなり、半年後、父の力三郎も後を追うように息を引き取った。
当時、海上保安庁長官だった大久保武雄のその後の奔走により、30年近く後の昭和54(1979)年、亡くなった坂太郎に「戦没者叙勲・勲八等白色桐葉章」が授与された。大久保は、国事に殉じた一青年を国家として慰霊・顕彰していないことの責任を30年にわたって背負い続け、ようやくせめてもの叙勲にこぎ着けたのだった。
これを機に、坂太郎の兄・藤市は、靖国神社に弟の合祀を申請した。国のために「戦死」したのだから、靖国神社に祀られることこそ坂太郎の本懐であろう、と考えたのである。靖国神社としても、できることなら合祀したいと考えたが、「朝鮮戦争にあっては現在のところ合祀基準外となっている」とのことで、いまだ実現していない。
香川県の金刀比羅宮には掃海殉職者79人の慰霊碑があり、海上自衛隊が毎年海軍記念日の5月27日に慰霊祭を行っている