「観照者」 が真の自分であることについて、腑に落ちる前に アタマのほうが妙に得心させられてしまったおかげで、一時期自分という存在について なにがなんだかわからなくなり、ひとしきり混乱動揺しました。
今こうして (心の中で) しゃべっているのが私でないなら、いったいなんなの?
そもそも 私って 自分って なんなの?
「観照者」 = 私 だっていうことを どう納得すればいいの?
これまで私だと思っていたのが私じゃなかったことを どう納得すればいいの?
でもって、これから私 いったいぜんたいどうなるの?
そんな嵐を通り抜けた今 わかったのは、自我とは 言葉があって初めて成り立つ存在であるということ。
必ずしも 「言語」 に限ったことではありませんが、なんらかの形あるものを発し (創り) 続けていないと存在できないのが、自我 ・ マインド ・ ちっちゃな個 であるようです。
考える、不安に駆られる、どうにかしようとする、悩む、解決方法を調べる、実践しようとがんばる。。。。。どこまでも 脳を働かせ 活動し続けずにいられないのです。
それが自分というものだと信じきっているから、考えるのをやめるのは 存在しなくなる、つまり死ぬことと同じに思えて、恐ろしくて とてもじゃないが そんな選択などできないのです。
そんな自我の必死なパフォーマンスの向こうに 本来の自分のありようを ちらとでものぞこうとする試みが、座禅や瞑想だったり、ワクワクの追求だったり、感覚フォーカスだったり (手前味噌でごめんなさい) するんですね。
自我が沈黙したところに ほんとうの私がいる。
自我にしてみたら、死ねとでも言われているようで パニックになっちゃうのもまあ無理ないか、という感じですが、落ち着いて思い返せば、これまでも 景色を眺めてぼぉ~っとしたり、感覚フォーカスで言葉を使わず感じたり、それと氣づかず 「観照者」 が主体となっていた時間が 何度となくあったわけで、その間自我がことさら否定されたり苦しんだりしたわけでもない。
そう氣づいたあたりから、徐々に落ち着きを取り戻しました。
自我は別に ジャマなものでも 消し去るべきものでもないんですね。
ただ、真の自分に氣づくと、その位置づけや役割、真我たる 「観照者」 との関わり方が変わるだけのこと。
「観照者」 とは、おそらく 私たちがこの世に分け出される前の “おおいなるひとつ” のことなのでしょうが、それがわざわざこんな不自由な形ある世界を創り出したのは、「体験する」 ためであり、それには このいろいろとめんどくさい自我がなければ、自身の素晴らしさを 五感を通して 体験的に知ることはできないのです。
だから、自我さんにも 大切なお役目があるわけで、安心していていいんですね (*^^*)
ただ、自分が力んで先頭切って あれこれ取り仕切ったり 引きずり回したりするのはやめて、そこは 「観照者」 にお任せする、と。
これまでの自我さんの問題は、ここにあったんですね。。。。。要するに 使い方を間違えていた、ということ。
自我さんは、「観照者」 の手足となって働く存在、形ある世界の手先 とでもいうようなものだと思えばいいのでしょうね。
こう氣づいたとき、すぅっと力が抜けて すごく楽になりました。
マザーテレサの 「私は神が持つペンに過ぎず、文字を書くのは神ご自身」 という言葉がわかった氣がしました。
力むのをやめて、リーダーの座を 「観照者」 に明け渡し、ちっちゃな個たる自分は 五感の世界でのサポートの位置につく、それだけで ずっとずっと生きやすくなるんだとわかりました。
まだすっかり腑に落ちたわけではないけれど、うっかり自我が先に立って仕切ろうとしていることに氣づくと すかさず 「そうだったそうだった、あんたが大将♪」 と 「観照者」 にお返しする、これを繰り返すうちに 新しい役割分担が少しずつ定着し、不安がぐ~んと減った氣がします。
「観照者」 の真我さんは、そもそも物差しも持たず 分離せず、不安も怖れもないのがデフォルトだけれど、自我さんたちを通して 自我さんたちの開放感や喜びを 共に味わっているわけで、これこそ この三次元世界でのトータルな 「私」 の 調和のとれた姿なのでしょうね。
おかげさまで、ここ2日ほどは まあまあ平和です
さぁて これからどうなることやら、興味津々だわ☆
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